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「先生、書生のいちがお邪魔します」

 愛知県犬山市にある「博物館明治村」へ行って来た。それは秋も深まる休日の、風の穏やかな日の事であった。いつか行ってみようと云いながら、長い事訪ねないまま幾年過ぎて、危うく今年も触れないままに終えてしまう処であったのだが、とあるきっかけから、半藤一利著「漱石先生がやって来た。」を読み、愈々訪問の決意固めて、足を運んだのである。

 何しろ私が明治村を訪ねたかった理由と云うものはただ一つ、先生の家へ訪問する事にあった。旧夏目漱石邸を訪ねてみたい、それだけが動機であると云って間違いなかった。

 明治村へ移築されているのは、先生がロンドン留学から帰国後、千駄木町時代にお住まいになられていた家である。因みにその同じ家へは、先生よりも十年以上前に、森鷗外氏が住んでいたと云う。何とも愉快な運命を辿った家である。果たしてどの様な日本家屋であるかと、私は村内へ足を踏み入れる前から随分胸をわくわくさせていた。

 博物館明治村は、敷地面積約100万㎡、村内は1丁目から5丁目までのエリアに分かれており、それら全てを見て周るには、一日ばかりでは足りないそうである。どうやら事前に行きたい場所をある程度絞っていくのが賢明らしい。その点自分は全く問題ない。窓口で入場券を買い求め、明治の風と鮮やかに染まる紅葉の葉に誘われて、私は揚々ゲートを抜けた。

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先生の家は1丁目にある。村内地図を手元へ広げて、私は先生の家を黙々と目指す事にする。入場して早々、思わず暖簾を潜りたくなる店の前へ出た。

「牛鍋。ふむ、さすが明治だ」

先ず一旦ここでにやりと笑った。ここは徹底した明治時代なのだと、判然認識した次第である。


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そそられはしたけれども自分は先を急ぐ身であるから、撮影のみして立ち去った。

それから坂道やら細道やらを突き進んで、ひたすら彼の家の瞳に映るを心待ちにしていると、穏やかな秋の間に、ひょいと民家が現れたのだった。

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途端に心が燥いでいた。平静を装っていた私であったが、顔の表に何もかも溢れて出て来てしまったようであった。実を云うと、家は家であって先生にお会い出来る訳じゃないからと、半ばは冷静に考えていたのである。それであるのに、いざ立派な民家を目の前にすると、予期せぬ程自分の心が舞い上がってしまったのである。少し処置に困った。周囲にも訪問客は多いのだ。その中で自分は間違いなく一番燥いでいる。一番わくわくを制御できなくなっている。この胸の高鳴りをなんとしようか・・・

何ともしようがないので、私は玄関でおとないを告げて敷居を跨いだ。

「先生、書生のいちが参りましたよ」

十四年、掛かった。だが、遂に来た。居ないけれど、此処に居たんだ。それだけで、嬉しかった。先ず足裏で、噛み締めていた。上り框へ足を乗せた瞬間の我が心持ちを、どうか想像して頂きたいのである。

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ここからの自分は滑稽なまでに子どもであったと思う。大人しく見学して居られなかったのだから、子どもであったと正直に白状しておく。一部屋ずつ、遠慮の無い好奇心をばら撒いて歩いた。始めの内沢山居た見学者は、知らずぽつぽつ減って行き、気が付けば自分達のみとなっていた。

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この縁側で先生は何をしたろうか。のんびり日に当たり寛いだだろうか、それとも難しい顔で新聞を読んだだろうか。そうしてその傍には屹度、あの小説のモデルとなった例の猫が居たのだろう。それから子どもたちも、此処を走り回って遊んだかしら―

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すっかり長居をしてしまった。もう帰らねばと思う。けれどももう少し、といつまでも思う。



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誰もいなくなった隙を見て、一瞬間マスクを外した。訪問の喜びが隠しきれていないこの顔である。


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先生のパネルまであった。これは必要か、と疑問を抱きながらも、傍へ座ると何だか妙な心持がする。ちっとも冷静で居られない自分を言い訳する言葉を用意しなければと、無駄な事を考えてしまっている。だがそう云う心でもって室内の写真を撮影している自分を、同行の家族に撮影された。

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全くもって燥ぎ過ぎなのである。

だが然し、それにしても大変に良い家であった。間取りも広さも自分好みであった。

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畳の部屋が続き、こんな縁側のある家に住みたい。尽く尽くつくづく日本家屋が好きらしい自分を再認識した。高層ビルのマンションも、嫌いな訳では無いのだ。便利で好きな点も多い。けれど、何とはなしに、自分は屹度こういう場所へ落ち着く人間の様な気がするのだ。

無論の事先生の書斎にも立ち入った。開放してあるので机の前へも座らせて頂いた。自分にはまだ早いと云う気持ちが出てしまって、後から写真を見れば神妙な瞳をしていた。当然である。


「先生、それでは本当に、これで失礼させて頂きます」


最後にもう一度縁側の方へ立ち寄った。曇りがちな今日の空から、朗らかな陽射しが庭へと注いでいた。

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最後迄お付き合い頂き、恐悦至極に存じます。

                           いち

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