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「KIGEN」第七十六回




 基源はかつて抱いた事の無い感情に胸を埋め尽くされていた。声を掛けたいと思うのに、口を動かそうとすると唇が震える。声を掛けるべきでないとも思う。手を伸ばしたいような、遠慮したい様な、恐れ多い様な、近付きたい様な、統一性のない感情が次から次と生まれては行き惑い、互いにぶつかり合って、見悶えている。そうか、震えているのは自分自身なんだ。何故?と、学んで間もない俯瞰で自分を観察すると、とんと腑に落ちる物があった。基源を取り巻く感情、それは他でもない感謝の気持ちだった。溢れる程の喜びと幸福を惜しみなく与えられて、その高尚なる儀式を瞳に映じて、ただ純粋に、嬉しくなったのだ。ありがとうと、心の底から思っていた。


 立ち尽くす基源の隣へ、いつの間に出て来たのか、かえでさんが並んだ。
「アイリーはね、あんたの記事、全部切り取って持ってるんだよ」

 ひらがなを読むのにも苦労していた頃から、アイリーは基源に関する新聞記事を全てスクラップしてきた。写真が無い記事でも、いちごう、基源の文字は先に憶えて、殆どを自分の目で見つけることができた。その特異な立場を語られるだけだったものが、番付を上げるにつれ力士としての活躍を伝えるものへと変化していくことが、アイリーは嬉しかった。かえでさんからそうと教わる度に、凄いね、頑張ってるねと我がことの様に喜んできたのだ。

「アイリーもね、あんたの頑張りを励みにして来たんだよ。弟子見習いの頃から、あんたが一生懸命頑張ってたから、ずっと応援して、そうやって自分にできることを見つけては、必死にやってきたんだ。あの子は前を向いて生きると決心してるんだね。
 強いよ、ほんとに」

 日はいよいよ山の峰を越えて朝を席巻してゆく。世界は瞬く間に明るい日差しに照らされる。
「基源」
「はい」
「何も背負ってない人間なんていないよ」

 基源の目に、変わらぬ朝日を浴びて喜ぶ緑の大地が眩しく煌めいた。



 奏、会いたいんだけど、来てくれる?

 基源が連絡を取ると、奏からはすぐ行くと返事があった。数時間の後、見慣れない車が一台敷地へ乗り入れた。降りたのは奏一人きりだった。

「免許取ったんだ。自分で運転して来た」
「車も奏の?凄いな」
「中古で買ったんだ、大したことないよ」
 それより、と基源に一歩歩み寄る。
「君の言葉をずっと待ってたんだよ」

 奏はそう言って笑った。自分含め周囲がどれ程熱望しようと、どんな説明加えても、基源自身が納得できなければ心と体はアンバランスなまま、到底動き出せない。心と、体と、技と。三つの呼吸が合って始めて成立する道。それが基源の選んだ道だから、奏は辛抱強く、基源が自ら踏み出すのを待っていた。

 気候が良いので日差しの陽気な縁側へ並んで腰かけた。庇の向こうには青空が映え渡る。かえでさんの用意してくれた冷たい麦茶で喉を潤すと、基源はぽつり、胸の内を打ち明け始めた。

「私は、相撲を続けていても良いのでしょうか」

 基源は葛藤していたのだ。無我夢中で相撲を追い掛けていた時は他の何物も気にならず、思考をこねくり回す必要も無かった。だが、初めて自分の選択に後悔した時、自分の周囲と、関わりあって来た人々の周囲を見回してみて、自分がどれ程好き勝手振る舞って来たか、自由な身であったか考えるに至った。そして、既に各自の多大なる時間と労力と、その他ありとあらゆる私財を投じられて生かして貰っている自分であるけれど、その価値に疑いを持った。人生は一度きり、やり直しは無く、過ぎた時間を取り戻す事も出来ない中で、この先も自分の為に誰かが色んなものを犠牲にしてゆくのだろうか。こんな不甲斐ない自分の為にそんな事をして、一体誰の役に立つんだろう。

 考える程に迷走してしまった。自己分析するAIはしきりと安静と養生を勧め、処方箋を出してくる。だがそうじゃないんだと跳ね除けた。自分は決して統計的に分析して欲しい訳じゃないんだと教えて遣りたかった。最先端ともてはやされるAIへ抵抗したかったのかも知れない。だが一方では、そういうAIも、迷走する心も、両方とも自分自身であって、共存無しに自分はこの世へ存在し得ない事も理解している。それも時には心の側に苦痛だった。

 こう思い詰める日々を暮らすうち、力が入らなくなってしまった。どう生きるのが正解か分からなくなった。そもそも誰にとっての正解かも分からない。基源は全てに自信を失っていたのだ。

 だが周囲は背中を押してくる。夢の続きを見せて欲しいと願う。わざわざ駆け付けて来て待ってるわと言う。不屈の精神で毎日祈りを捧げている。そういう姿を目に焼き付けて、自分は変わらず相撲が好きだと、はっきりとわかった。だが、だからと言ってまた突き進んで良いかは別の話かも知れない。決断下すには自信がない。けれど心の霧は晴れつつあって、ようやく自分を説明できそうに思った。

 誰に?
 
 真っ先に思い浮かべた顔は、やっぱり奏だった。基源の心を聞いた奏は、
「いいに決まってるじゃないか」
 と明快に答えた。
「僕等はいつも基源の味方だし、基源の一番のファンだよ」

 そう言って真っ直ぐに基源を見つめ返す奏の瞳はすっきりと光放つ。偽りやその場凌ぎを不得手とする、彼らしいピュアな瞳だ。基源は自分の製作者が彼で良かったと、この時ほど深く感謝した事は無かった。二人は同じように顔動かして五月晴れを眺めた。視界の隅に相手の表情が見て取れる。
「なに笑ってるの」
「そっちこそ」
 世界を牽引するかのように真白な雲が一つ、悠々と空を流れてゆく。二人の頭上を、左から右へ。
「奏、見てて」
「うん、わかった」
 二人は雲の行方をしばらく見つめていた。
 

 翌早朝、青草の湿る大地へ一番に降り立ったのは、おじいでもアイリーでもなく基源だった。黒いまわし一つに裸足となって、じっくり所作を確かめていく。久々の稽古に、体が少し緊張している。だが、肌に触れる朝の空気が清々しかった。その内おじいが出て来た。いつもと変わらぬ調子でストレッチから始めていく。横へ並んだ癖基源には何も言わない。

「今日はみんなして早いね」

 外へ出たアイリーはそう呟いて二人の傍へ向かった。

 稽古再開。基源は己の相撲道を突き進むべく、とうとう本格復帰を遂げた。改めて前を向いた基源は、もう迷わなかった。自己分析でも明らかに体の状態が良くなった。心模様も晴れ晴れとしていた。この先どんな困難にぶち当たっても、目指すただ一つの頂に向かって進むだけだ。そう思った。再び闘志に火の付いた基源は、連日降り止まない雨に見向きもせずに稽古に励んでいた。梅雨入りした事に気づいていないのかも知れなかった。


 基源は着々と身体を作り上げた。食事と睡眠と運動のバランスを見直し、下半身の強化を図り、より自分の得意が発揮できる体作りを研究して、体脂肪や内臓のコンディションを管理し体重の調整を行う。それ等を一括して自ら管理できるソフトを奏に作成してもらい、自分のAIに委ねた。

 相撲がとれる万全の体に仕上げた基源は、庭に並ぶ紫陽花と、傘を差して見送る人々に手を振って別れ、垣内部屋へとうとう帰った。

                        (九章・再生・終)


第七十七回に続くー


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ようこそいち書房へ。長編小説はお手元へとって御自分のペースでお読み頂きたく思います。

「AI×隕石×大相撲」 三つの歯車が噛み合ったとき、世界に新しい風が吹きました。 それは一つの命だったのか。それとももっと他に、相応しいも…

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