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「KIGEN」第四十四回


 いちごうへは生物学を根拠に自分の性別を示した奏だが、それも実は説得力に欠けると思う。つまり正論を常に物事の根底へ敷くのは危うい方法だと奏は考える。そもそもいちごうの生まれ方からして既に埒外なのだ。であるにも関わらず、やっぱり正論を根拠に立ち位置を決めなければならない現実もある。いちごうに関して言えば夢の為だ。しかし彼の本能がいつ自分の性別を自認するかはまた別の話なのだ。

 若い研究者は、この深く難解な問題とは、長い付き合いになるんだろうと思った。



 腰を落として体全体で鍬を使う。腕の力ばかりに頼らない。道具はリズム。活動は呼吸。いちごうの畑仕事も随分様になって来た。たった今もリズミカルに鍬を使い新たな畝作りに熱心だ。昨日の夕方土を反して石を除き、栄養土を混ぜたところで日が暮れた。それで朝から続きと張り切っている。

「いちごう」

「はいっ」

 そこにおじいがやって来て、ちょいと手を動かした。呼んでいる。いちごうは鍬を置いておじいの元へ駆け寄った。おじいは日課のストレッチをしている。年齢の割に柔軟で、動きに衰えを感じさせない。いちごうが傍へ立った。おじいは最後に股割りをした。ここまでがいつもの所作だ。それから、すっと腰を落としたと思うと、四股を踏み始めた。乾いた庭の土の上は瞬く間に土俵となった。四方を遮るものは無く、風は味方に、吸い寄せて肌に纏わせる。伸び伸びと豪快に持ち上げられた右足は天を突き、どしんと落とす。けれども静かな様子で土を踏む。反対が持ち上がる。どしん。腰を割って、すり足、てっぽう―どれも相撲の基礎だ。おじいは淡々と一通りの動作をやって見せた。動きを止めると、蟀谷こめかみを汗が流れていった。じっと一連の動きを追い掛けていたいちごうと目を合わせる。

「相撲は心・技・体から成る。このバランスを崩すな。足腰で負けるな。基本に忠実に、基本を忘れるな。わかるか」

「はい」

「毎日欠かさず続けろ。何百回でも四股を踏め。やった分がお前の実力だ」

「ありがとうございます!」

 いちごうの相撲人生がとうとう幕を開けた。


 夏休みも終わりが近付いていた。夕暮れ時にはどこからともなくツクツクボウシと聞こえて来る。心なしか早くなった茜の空が焦燥のように伸びた影を急き立てる。まるで記憶の何処かに同じ気配を持つような、知ってる匂いを嗅ぐような、ところが触れようと思うと朧気に姿隠す。胸に迫りながらも実体を持たず、あやふやで切ない心模様だ。ひょっとしてこれが望郷と云うものかしら―

 縁側に足を伸ばして寛ぐいちごうの姿が在った。燃える西の空と夜に沈む広大な畑と、その境界辺りをすいすい飛び交うアキアカネを見比べながら、彼は帰る故郷の存在しない自分が、まるで生まれ育った場所を懐かしむ様に心を感傷的にさせることが、面白い仕業だと感じていた。

「ここに居たの?蚊に刺されたりしない?」

「まだ刺された事無い。痒いんだってね」

「そうだよ、僕なんか殆ど毎日刺されてる」

「よっぽど美味しい血なんだ」

「嬉しくない」

 いちごうは日に焼けて逞しくなった肌に夕日を浴びせてはははと元気よく笑った。奏も笑った。それからいちごうの隣へ腰を下ろす。並んだ奏を見て、いちごうがはっとする。

「そうだった、奏見て」

 いきなり自分の頭を傾けて奏へ差し出す。

「何!?どうしたの」

「髪の毛生えて来た」

「ええ!?」

 奏が両手で作り物の繊維質な髪を掻き分けてみると、確かに頭皮らしきものが以前にも増してしっかりと地肌を形成し、そこから毛髪が群生を作り始めている。その群生が肉眼でもはっきりと、いくつも確認できるのだから、既に頭部全体へあると考えて良さそうだ。おそらくは外活動の多い夏になり、紫外線から身を守る為に進化したのだ。過去の傾向からみて一旦進化が始まると成長は人より早い。急ぎ奇麗に生え揃うように作り物を除去する必要がある。帰ったら早速父さんに、いや、ここは母さんに相談してみよう。奏が頭の中で算段していると、いちごうは自分の頭部を前から後ろから撫で付けながら、

「もっともっと伸びたら、私も髷が結えるでしょうか」と言った。

「ああ、そうだね。そうなるといいね」

 触れる度に手のひらがチクチクする。奏も腕を伸ばしてもう一度その感触を確かめた。確かにある。芝生みたいなのがある。二人はニヤニヤと笑っていた。

 久々に古都吹家へ帰ったいちごうは、産毛みたいな自前の髪の毛三・五センチを風にそよがせて、奏の母智恵美に嘘でしょう!凄いじゃない!と珍しく褒められた。満更でもなく、日に焼けた顔に皺を集めた。

 夏休みが終わると、週末におじいの元へ稽古をつけて貰いに行く日々が始まった。奏も勉強道具を持参してはいちごうに付き添った。送迎は主に渉が請け負ってくれたが、都合の悪い日は矢留世が車を出した。移動には片道一時間以上かかった。

 蝉の声を聞かなくなり、代わりに山間の木々が色良く染まり始めた頃、いちごうは奏に、一人でも行けると言い出した。警護を含めた送迎役ではなく、付き添いとして毎回行動を共にする奏へ、もう付き添わなくても大丈夫だと言ったのだ。奏は戸惑った。それが彼なりの気遣いなのか、強がりなのか、単純に自分が不要であるのか、どれとも判断がつかない。奏、といちごうが呼び掛ける。

「奏には研究が大事。そっちを優先して沢山勉強して欲しい。偉い学者になって欲しい。奏の夢でしょう。そしていつか、私という存在は何なのか、証明して欲しい。答えが宇宙にあるかロボット工学にあるか神の領域にあるか、それとももっと別の場所に、エデンの園とか、桃源郷にあるのかも知れないけど、私は奏に答えを導いて欲しいと思う。奏なら見つけられると思う。奏、私の希望を託してもいいですか?」

「――」

「いいよね、だって私たちは友だちでしょう」

「うん」

 よろしく、といちごうは右手を差し出した。到底引っ込みそうにない。奏も遂に、えいと右手を差し出した。

「僕はたった今、とんでもない使命を背負わされた気がするよ」

 ははははと、いちごうの腹から出る笑い声が、秋の空へ爽快に響き渡った。


第四十五回に続くー



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