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読み切りよりみち「真瑠ちゃんは自分の手を知らない」

※長編小説シリーズ「よりみち」の番外編です。時系列で云いますと「よりみち・二」と同時期です。「よりみち・二」を読んでいなくてもお楽しみ頂ける内容です。


読み切りよりみち「真瑠まるちゃんは自分の手を知らない」

 りか子と真瑠が一緒に住み始めて一年以上が経っていた。二人で二度目の夏である。少しずつ彼女との二人暮らしに慣れてきた様子の真瑠は、それと同じ丈りか子へ懐いていた。これはりか子にとり只々嬉しい副産物であった。

 先日の休みには二人で水族館へ行き、りか子の部屋にはペンギンが増えた。一晩で自室に馴染んだお土産のペンギンは、今日も真夏の陽射しを浴びながら、窓際で大人しくしている。ペンギンの贈り主は真瑠であった。一緒に出掛けてくれた御礼だと、真瑠は云った。律儀なのである。
「遊びに行こう」
「うんいいよ」
 が、簡単には繰り出せないのが真瑠と云う人間である。今度の水族館にしても、りか子が誘われるまでには、真瑠の長い戦いが存在していた。りか子の目の前で、りか子はとうから気が付いているにも関わらず、真瑠は随分身を悶えさして、心を散らかして、挙句彼女に引っ張って貰って、どうにか誘いの言葉らしきものを自ずから引っ張り出したのだった。

 手が掛かって、まるで子どもであった。子どもよりも、扱い難い生き物かも知れなかった。けれどもりか子は、そう云う真瑠を望んでいる節もある。りか子の言い分に暫し耳を傾けてみる。

 真瑠はかつてりか子の手を、いつだって温かいと云って、惜しげもなく真面目に褒めた事が在った。けれど翻って自分の事となると、まるきり無頓着で、洗い立ての洗濯物位にさっぱりであった。当時のりか子はあんまり正直に打ち明けられたものだから、恥じらう隙も与えられなかった。けれど今更自分が恥ずかしがって見せたって、奥ゆかしくもなんともないからとも思っていた。

 それよりもりか子が主張したいのは、真瑠の方の温もりであった。主張したいと云うからには、彼女に主張されるべき第三者の登場を余儀なくさせるようなものだけれど、現実には何者も出て来ない。当のりか子が心では主張を全然望まないからである。要するに彼女は独り占めしていたいのだ。全然自覚の無い真瑠の温もりを、出来る事なら独り占めしていたいと、とことん我が儘を発揮するのである。それでなくとも、真瑠の手は滅多と自分から伸びて来ない。
「どうしてそこで遠慮するの」
「何故今我慢したの」
と、問い質したい刹那なんて幾らでも在った。

 真瑠は自分を憶病だと云う。警戒心が強いとも云う。諦めた様に笑っては瞼を下げる。傍に居ればどれも真実と分かる。けれども真瑠は、りか子へ対してだけは、不意打ちに、真っ直ぐ向かって行く事があって、それを実行している自分の大胆にはちっとも自覚が足りないのであった。全く、狡い話だわとりか子は思う。

 だからりか子は未(いま)だ教える気が無い。未だ知らない振りをする。足りない振りをして過ごしている。どちらかと云えば、真瑠の手の温もりをもっと直接欲しいのにと、淡い希望をさえ抱いている。りか子の澄ました頬の裏側の、その魂胆は案外にも、熱いのであった。そしてそこまでの欲を、未だりか子の方でも表へ出せずにいるのだった。

「ただいま」
「お帰りなさい」
 エプロン姿の真瑠がキッチンカウンターの内側から張り切って飛び出して来る。料理をしている真瑠は陽気が二割程増しているとりか子には映る。理由は単純である。真瑠は食が好きなのだ。作るのが好きで張り切ると云うよりも、美味しいものを食べるために腕を揮っている。そうして自分を食いしん坊だと言っておいて、白い歯を見せる。頗る面白い生き物だとりか子には映る。

 真瑠が無防備を曝すと、りか子は手を伸ばしたくなる。けれども彼女は我慢する。真瑠には我慢するなと心の内で要求する癖して、自分の方が我慢してみる。
「私今我慢しているのよ、気が付いて?」
 と尋ねたらどんな反応するかしらと、相手を淡々と観察している。けれど段々辛抱できなくなる。それが大体の場合、双方が風呂上がりで、ダイニングに寛ぐ時間であった。

 りか子がバスタオルを使いながら戻ってくると、真瑠はソファの一人掛けの方へ、膝を持ち上げて嵌り込んでいた。手には本。表紙が見えた。あらまたあの文豪と思う。私そろそろそちらの先生に迄嫉妬しそうなのだけれど。と思うが顔には何物も出て来ない。りか子は二人掛けソファの、いつもの左側へ腰掛ける。そして顔に不満を浮かばせる前に口がもう待ち切れないで動きだした。
「真瑠ちゃん」
「はい」
 駆け引きが始まる。真瑠は然し只りか子の続きを待っている。本から放された表情はいつだって素直である。りか子の天邪鬼が真瑠の素直に反射して、後を容易に表へ出そうとしなくなる。りか子は皮肉れた自分に気が付く度に悪い大人だと思う。思いながら口を閉じている。
「どうかしたんですか」

 珍しく真瑠が先に立ち上がった。本を一人掛けへ残して立ち上がった。これはりか子に一寸予想外であった。思考が中断してバスタオルの手が一緒に止まる。時を刻む針は尋常に動いている。世界も尋常に活動している。真瑠も常と変わらぬ様子で動いている。とんとんと数歩で、座るりか子の斜め前であった。ローテーブルがあるので、其処が一番近距離なのである。りか子の両手はバスタオル掴んで隠れている。真瑠の両手は奇麗さっぱり空いていた。
「早く乾かさないと、また湯冷めしますよ」
 頬に、熱い四本の指の背が触れた。湯冷めしていないかと疑った真瑠の、思い遣りの四本であった。触れてみて、笑っている。
「何でもう冷えてるの」

 勝手に離して、自分だけ満足してソファへ座ろうとしている。穏やかな気配が視界から立ち去る前に、りか子は睫毛を伸ばした。黒目を持ち上げて自覚の足りない子を制止させる。見詰め合うと、真瑠は身動きが取れなくなる。途端に自分と云う存在を世間に浮き彫りにして慌てだす。どうかしましたか。同じ質問さえ出て来ない。生唾をごくんと飲んだ。かろうじて首を傾げて見せた。
 りか子は今晩も諦めた。バスタオルから手を放して、真瑠を引き寄せる。長い黒髪はまだ少し湿っている。
「髪を、乾かさないと―」
 戸惑う真瑠の両手はバスタオルを掴もうか、促す方が良いか、指を不規則に動かして考えあぐねている。
「ペンギン―」
「え」
「―ペンギン、二つ買ったら良かった」
「ペンギン?」
 身動き取れない真瑠は、身体をりか子に掴まれたまま、額を離そうとしない困った大人を見下ろした。
「また会いに行きましょ。それで矢っ張り欲しければ、もう一つ買ったげます」

 いつの間にか保護者が逆転していた。ひたすら真正直な真瑠に、りか子も遂に可笑しくなって来る。とうとう白い歯を見せた。
「何が可笑しいんですか」
 りか子は顔を上げた。
「冗談よ」
「ええっ」
「ドライヤー使って来るわ」
 云うなりもう立ち上がっている。真瑠は後ろへ下がって道を開ける。その瞳はまだりか子の発言を疑っている。
「二つもあったら、どっちがどっちだか分からなくなるもの」
 真瑠の頭を撫でつけて立ち去るりか子の後ろ姿を見送りながら、真瑠は分かったような、また分からない様な顔をしていた。その内とことこと歩いて、二人掛けの右側へ、漸く腰を下ろした。
 本は一人掛けへ残されたままであったけれど、再び戻って来たりか子と、今夜は紅茶を味わって過ごした。

 りか子は真瑠の温もりが好きである。自分の手を、自分の手腕を軽視している迂闊な真瑠に、あなたの手は危ないわよと、教えて遣るにはまだ足りないと、身勝手な心で、愉快に思うのであった。
                          おしまい





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