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掌編「秋の空」


 銀次は大のおばあちゃん子である。昔からばあちゃんの膝で白飯をかき込んで、ばあちゃんの割烹着に泣きべそ押し付けて、ばあちゃんの老婆心に悪態を吐いた。じいちゃんに怒られて不貞腐れるのも、ばあちゃんの前のみであった。

 複雑に線を伸ばす電線が街の空を刻んでいる。高いのはビルばかりでその向こうはくすんでよく見えない。スープに浸してしまわないように胸ポケットへ入れていた身分証を、店を出てから元へ戻した。上空を仰いで、相変わらず狭いなと思い、ぐるり一つ首を回した。ふうと息が零れ落ちた。
「さて戻るかな」
 一緒に昼休憩へ出ていた同僚に最近彼女が出来た。ごそごそと手作り弁当取り出す様になったので、フラれた銀次は一人でラーメン屋へ通う。と云っても週に一日。後の四日はコンビニで済ませる。不健康極まりないと思うが、自分の為に食事を用意するのを以前にも増して面倒がっている。独り立ちした当時、いそいそと用意した弁当箱は、洗い忘れてパッキンに黒カビが付いた日に捨ててしまってそのままである。あの時ぐに買い直していれば、今頃インスタ映えする様な料理を作る弁当男子になっていただろうか。インスタグラムもやったことが無いのにそんな想像した自分を可笑おかしく思う。

「はあーあ、ばあちゃんの里芋煮が食べてえな」
 大きな独り言と共に職場へと歩き出す。コンクリートに覆われた世界は息苦しくて目まぐるしい。あのビル群の一角が自分の巣でなくて良かったと、銀次は自身の学生時代の選択に取り敢えずは丸を付けてあげたく思っている。
 銀次に父親は居ない。母親は一日中でも働いていた。一人息子が望めば大学まで行かせるつもりで、幾つも職を掛け持ちして稼いだ。だから息子が一人歩き出来る様になった日の事も、箸が上手に使える様になった事も、サッカーゴールに顔面をぶつけて目を腫らした事も、全部後から聞かされた。銀次は自分の母親がばあちゃんでは無い事に、物心ついてから気が付いた。ごく偶に会う女の人が自分の母親だと教えられて、思わずばあちゃんの割烹着に顔隠した時、物凄く寂しそうな、哀しそうな顔を見せた事がいつまで経っても忘れられないでいる。自分は多分母親を酷く傷付けたのだと、子ども心に胸が痛んだ。だから銀次は、母親と家の中で出くわした時は、できるだけ傍へ寄って行くように心掛けた。お土産と云ってはクランキーの板チョコレートをくれる時は、目一杯喜ぶことにしていた。

 そう云う銀次だから、高校に入ったら真っ先にアルバイトを始めた。この頃になって、漸く母親との二人暮らしが生活の軸になり、ばあちゃんの家には時々顔を出す程度に落ち着いていった。それから数年、一人暮らしの社会人となった銀次であるが、目下のところ彼の夢は、母親と祖父母を温泉旅行に連れて行くことである。そしてその夢は、どうやらこの秋叶えられそうであった。

 教師生活四年目。苦労重ねた母親と世話になった祖父母が、暮らし向きに困らない程度の稼ぎが在れば何でもいい。自分はどうにか生きていければ職業には拘らないと、己の人生を俯瞰していた銀次であったが、高校二年生の時、当時の担任から何故だか教師に向いている等と云われて、まさかと首を振った癖に、うっかり教師になってしまった。天職なのかはまだわからなかった。しかし気付けば四年目で、それならそれなり自分に合っていたのだろうかと思ってみたり、だが実際の所はまだよく分からないのが現実であった。

 なにしろ高校生の心理を理解するのは難しい。自分も通ってきたはずの道であるのに、通り過ぎてしまうと思い出すのに難儀していた。そもそも銀次は、アルバイトに精を出し過ぎて、遅刻もすれば仮病を使ってバイトを優先させた事も在った為、高校生活を満喫したのかが先ず怪しかった。当時の自分はそれで満足していたが、もっと同級生らとはしゃいでおいた方が良かったのだろうかと、今頃になって振り返る事がある。だが既に過去は過去であって、戻る必要も遣り直す必要も無いのに、昔を混ぜ繰り返しても何の意味もないとも思うのだ。

 放課後の職員室である。今年度の銀次の担当クラスには、手強い生徒が三人も集まっていると、教職員からはもっぱらの評判であった。校則上等と頭の天辺から足の爪の先までお洒落しゃれに余念の無い女子生徒、遅刻の常習、下校も自由主義の男子生徒、それから粗暴な事では学校中に名を知られてはばからない男子生徒が一人である。今日はその粗暴な男子生徒が日直で、時期日誌を書き終えて日直の当番ノートを手渡しにやって来る筈であった。ただ、彼は必ずしも授業に出席しているとは限らない為、日直の自覚があったかどうか、怪しい。銀次は一年生時から彼の事を知っているが、根っからの乱暴者だと思った事は無かった。顔を合わせればおう、と声を掛け、スリッパで外へ出ている時は間違ってるぞと笑ってやった。生徒の彼がそう云う銀次に対してどんな感情抱いているか定かではなかったが、春に担任となってみて、どうやら嫌われてはいないらしいとは思っている。

「失礼します」
 職員室の出入り口の方で生徒の声が一つして、入室の気配があった。よく知った声の一つだが彼では無い。おやと思い顔向けて待っていると、間もなく銀次の前へ顔見せたのは、矢張やはり彼では無く銀次のクラスの別の生徒であった。当番ノートを差し出しながら、
「渡しておいてくれと頼まれました」と云う。
 廊下ででも呼び止められたのか、若干の不機嫌を含んだ口振りだが、言い返せなかったのだろう。銀次は苦笑しながらありがとうと云って受け取った。生徒は軽く会釈して、早足に職員室の出入り口へ向かった。
「部活頑張れよー」
 確か彼は運動部で、まだこれからみっちり練習がある筈だ。そう思って背中に声を掛けると、扉の外でくるりと身を翻した生徒は、腰を折って一礼し、小走りに去って行った。自分の椅子に腰かけた銀次は、早速当番ノートを開いてみた。人に預けた位であるから、やはり記入もまともにしていないかも知れない。白紙か、時間割位書いたか、サインだけはしたか―さて、何を何処まで書いたろう。

「先生、俺はばあちゃん子です!今晩はばあちゃんのたん生日だから日直やってる場合じゃないんで、日誌はてきとうに切り上げて帰ります!!!おつかれさまでした!!山尾!!」

 既定の枠は全部無視して、ページのど真ん中へ、シャーペンで殴り書きしてあった。自覚はあった。だがそれどころでは無いと云う。無いと云いながら言い訳だけは書いて、ノートも一応寄越よこした。サイン迄してある。

 読み終えた銀次はそのままノートで顔隠した。自分が四年も続けられた理由。おそらく、こう云う処なんだ。彼等はみんな真っ直ぐで、自分にも他者にも、藻掻きながらもどうにか正直であろうと、日々必死なのだ。そんな生徒達を、銀次は可愛らしいと思った。はっとして、感心する事も屡々しばしばであった。だから飽きない。一緒に打ち込んでみようと思える。だから自分はここへ居るんだ。この場所が、好きなんだ。

 椅子の背凭れへ身を預けて、上目遣いに運動場の見える大きな窓の外を見れば、鱗雲の連なる、高い秋の空が瞳に映じた。今晩辺り電話しよう。自分も久し振りに婆ちゃんの声が聞きたくなった。

 にやにや笑いが納まる迄、暫くそうしている積である。

                          

                          おしまい


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