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断捨離の基準なんてものは、もっとどうしようもない理由でしかないと思う

ミニマリストという希少種の人間が存在しているという事実は、昨今、案外多くの人に認知されているように感じる。

そしてミニマリストとまではいかなくても、断捨離をして不要なものを削り、本当に必要なお気に入りのものだけで生活しようという考えは、一般市民にも浸透し、なかなかに支持されているように思う。

だから需要があるのか、「断捨離=いいこと」として崇められ、断捨離するコツとか、断捨離の方法などという記事が無数に誕生している。

私は、この断捨離のノウハウ的な記事が好きではないのであった。


断捨離の基準によく書いてある内容を見てみよう。

  • 一年以上使っていないもの、着ていない服は捨てる

  • 汚れていたり、くたびれていたりするものは捨てる

  • 期限が切れているものは捨てる

  • サイズが合っていないものは捨てる

  • デジタル化できるものは捨てる

一般的にはこんな感じのことが書いてある。

表現の自由を否定する気はさらさらないけれど、こんなにも奇麗な正論を並べられると、どうしてもただの空言だと感じてしまう。

ものを捨てようと思ったあの時の感情はもっと簡単な言葉で説明できるはずだ。

それは多分「もういらない」とか、「もっといいものが手に入った」とかせいぜいそんなクソみたいな理由である。

そんな単純でどうしようもないことなのに、いちいち捏ねくり回して良い感じの理由をつけないでほしいと思う。



もっと本音を話そう。

夢も希望のないグロテスクな表現かもしれないけれど、ミニマリストをミニマリストたらしめているのは、十分な社会の発展と、それによって生み出された数々の文明の利器に対する好奇心、そしてそれらを十分に享受できるためのある程度の金である、と私は思う。

私たちの身の回りには便利なサービスが溢れ、金さえ払えば、コンビニという名の巨大な冷蔵庫から調理済みの美味い飯が手に入るし、Amazonという巨大な倉庫からすぐに荷物を引き出せる。

スマホという手のひらサイズの厚さ1cmにも満たない機会があれば、世界中の人間と一瞬でコミュニケーションが取れるし、娯楽にも困ることはない。
音楽鑑賞、映画、読書、ゲーム、ネットサーフィン、SNS、その他色々、まさに今世紀最大の発明である。

私たちが少ない荷物でも生活レベルを下げずに、むしろQOLを上げながら生活できるようになったのは、便利で質の高いモノやサービスが増えたからというのが大きな理由だ。

そして、ミニマリストとか断捨離がここまで流行っているのは、社会の発展が加速し、私たちが受容できる限界以上に豊かになってしまったからだと思う。

一年使っていない物も、一年着ていない服も、汚れた物も、壊れた物も、何もかも簡単にゴミとして扱ってしまうようになったことが、私たちが十分に豊かであることの証明である。

昔は、汚れたものでもなんとか綺麗にして再び使わなければならなかっただろうし、壊れたものでもなんとか修理して再び使わなければいけなかっただろうし、服は縫い目を増やしながら何年でも着なければいけなかっただろう。

私たちは幸福を求め、生活に役立つ便利な機械や至高の贅沢品を生み出してきたが、今度はその豊かさに押しつぶされそうになってしまっている。だから今度はモノという豊かさの象徴を手放し、本来私たちは何も持っていなくても幸せなのですよと説く。

でもそれは自分の尻拭いを単に自分でやっているにすぎず、別に当然のことであり、当たり前のことに気づいただけではないか。

だから私は断捨離を崇拝するような昨今の風潮をどこか冷ややかな目で見てしまっているのかもしれない。



所有することはコストであり、時間もお金もかかるので無駄なものは持つべきではないというミニマリスト共通の考え方がある。

確かにモノが増えすぎた現代、全てを管理することは不可能であり、無駄を省き個人の持つリソースを最大化するためには様々なことに対して取捨選択が必要であろう。

その考えには大いに同意する。

だけどまぁなんていうか、断捨離なんてクソだって考える奴がいてもいいと思う。

生存に必須ではない何かを所有する行為、それは確かに無駄であり、無意味な行為ではあるが、そんな無駄の中に僅かな希望を見出そうとしているどうしようもない人たちは愛すべき人たちであり、そしてそんな人たちはいずれ同じものを愛するどうしようもない同胞と出会ってほしいと切に願う。


さて、ここまで一通り思いの丈をつらつらと書いてみたけれど、結局何が言いたいのか私自身もわからなくなってしまった。

でも多分、断捨離の基準として当たり前の正論が聞きたかったわけではなく、もっとどうしようもない理由が欲しかっただけなのかもしれない。

捨てたくなったら捨てればいいし、捨てたくなければ捨てなければいい。壊れたものが修理できるなら修理して使ってみてもいいだろう。汚れたものはまた綺麗にして使ってもいいし、ボロボロで見窄らしいまま使うというのも誰かに迷惑をかけなければ悪くはない選択肢だ。

一年着ていない服をもう一年クローゼットの中に眠らせてみるのもいいだろうし、そしてふとした時に、こんな服あったなーちょっと試着してみるかって試着してみて、やっぱりないなーと苦笑いしながら、自分の好みの移り変わりと過ぎ去ってしまった年月をしみじみと噛み締めるのもまた乙なものだと私は思う。








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