見出し画像

ワタシは宇宙人「病名判明」 #33

2003年。正月も静かに過ぎて検査当日の早朝。

外に出ると一面の雪景色だ。雪は音を吸い込むように静寂を作り出していた。

そんな静寂が、わたしの中の恐怖を呼び起こさないように静かに深呼吸をした。

長男を母に預け、夫と娘の3人で大学病院まで向かった。自宅から他県にある大学病院まで、高速道路を使って片道約2時間半の道のりだ。

そうだった。どんな結果でも、娘と自分達の人生を信じよう

長い道のりの中、何度もそう言い聞かせた。


ようやく病院に着き、そこから診察で呼ばれるまで1時間以上待つ。

名前を呼ばれると、先生から一通りの説明を受け、すぐに色々な種類の検査を受けることになる。

検査室に入ると娘が動かないよう、身体をタオルで固く巻き、開眼器という目蓋を開く器具がつけられた。頭を押さえて眼球の検査を受ける時に、娘は有りったけの力で泣いて抵抗していた。顔は真っ赤になり、首筋の血管が浮き立つ。わたしも動かないよう、娘の体を必死で抑えた。

5分ほどの時間だったにもかかわらず、娘は全身汗だくで、顔にはまた湿疹のように至る所に内出血が出来ていた。

検査は何種類もあり、2時間ほど経過していた。娘もわたしもクタクタだった。


そして診察室から娘の名前が呼ばれる。


今の状況からみて、高確率で先天性白内障で間違いない

とのことだった。1万人に3人に起きる稀な病気だ。

ただ、癌でなかったことに安堵した。その後直ぐに、これから長丁場の戦いになることを悟った。


現状としては、娘の両目は全く見えておらず、光にわずかな反応があるだけとのことだった。

さらに通常の先天性白内障の乳児よりも眼球が小さく、神経もかなり未発達。水晶体摘出の手術を受けても視力の回復の可能性はとても低い。その為に将来は盲学校に入ることは覚悟した方が良いと言われた。


だけど、直感で少し楽観的に受け止めている自分もいた。

子どもの可能性なんて、計り知れないからきっと大丈夫。


合併症の検査の結果や入院と手術の日程は翌週に決まった。子どもの秘める力を信じて、みんなで頑張ろうと心に決めた。


帰りの車の中。夫がわたしに話してきた。

もし、この子が義眼になるなら俺は自分の片目をあげようと思っていた。


そっか…

彼も、色々考えて悩んでいたんだ。

わたしは自分ばかりが辛くて、苦しくて、悲しんでいるようだった。

反省の気持ちと、嬉しい気持ちとで言葉が出なかった。だけど何となく泣けてきた。

わたしは親としても夫婦としてもまだまだ未熟だ。「しっかりしなきゃな」と考える帰り道だった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?