自分だけの文章と見せる文章
昨日投稿した記事のタイトルには二重の意味があった。
noteへの投稿と、手帳に書く日記の2つの意味が。投稿したのも23時と遅い時間だった。しかし、まだやることがあったので、昨日の手帳の日記を投稿した。なので、終わりに「2024 10/15」と書いてある。
(寝る前に手帳の日記も書きました。)
いつもだったら、なんか捻り出して書くのだが、気分(めんどくさがって)で日記をコピペした。
すると面白いことが分かった。
まず書き方が違う。ところどころ支離滅裂になっている(一部修正した)。だけど、気にしていない。本当に自分だけに分かるように書いている。下手すると自分すら分からないかもしれない。そんなギリギリを攻めている書き方。
(でも、私が求める理想の書き方ってこれでは? と思いながら写した。)
noteも自分のために書いているのだが、書き写して初めて書き方が違うことに気づいた。過去に、「noteに書いているときは、どこか気遣っている?」と薄々思ったことがあるが、今回でハッキリと分かった。私的な日記は誰にも見られない環境でしか書けない。
先週、『文章の書き方を変えてみた理由』を書いた。
ここで他人への気遣いは止め、自分が読みやすいように文章を書くことを宣言した。が、どうやら難しいようだ。かと言って、前の書き方に戻すわけではない。
なぜ書き方が違うのか?
ここまで振り返ってみると、手帳に書くときは、自分の感情や思考をそのまま素直に表現しようとしている一方で、noteに書くときは、どこかで「他人の目」を意識してしまっている自分がいることが分かった。それは、読者に伝わるように配慮しているからかもしれないし、無意識に自分をよく見せたいという気持ちが働いているからかもしれない。
この違いを説明するには、私の好きな平野啓一郎の「分人」という概念がしっくりくる。
「分人」とは、本当の「自分」というものは存在しなく、他者との関係性の中で異なる自分(分人)が生まれるという考え方だ。この考え方では、本当の「自分」を、相手との関係性の中で生まれた多数の分人の集合体として考える。noteに文章を書く自分と、手帳に日記を書く自分も、まさにこの「分人」として異なる側面を持っているのだろう。
noteや手帳は人間ではないが、向き合う態度という意味では、関係性を作ることのできる相手と捉えられる。
例えば、ペットでもそうでしょう。同じく人間ではありませんが、家族、友人、恋人、会社の人と比べて、接し方が違う人もいるはず。極端な例を挙げれば、赤ちゃん言葉で話すとか、暴力的になるとか。
人間関係だけでなく、モノへの接し方から「自分」について顧みるのも新しい発見があって楽しいかもしれない。