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ハードルが上がらないうちに

noteには数日おきに投稿しているのだが、当初考えていた毎日投稿にはなっていない。

期間が空きすぎると「書くこと」へのハードルが上がる。まぁ、記事のストックがあれば毎日書く必要はない。

加えて、毎日投稿していれば見かけ上は毎日書いているように見える。

それはあくまでも第三者から見た話で、自分では「毎日書けてないんだよなぁ〜」って思ったりする。

たちの悪い話で、毎日書けてない…!って思い込むと、たとえ毎日更新できていたとしても自分は書けない人・・・・・になってしまう。

自分の気持ちと世間から見える自分を切り離すことは難しい。

例えば、毎日書いている人でも、「ライターを目指して」「小説家を目指して」という枕詞がつくと、毎日書くことは当たり前で、むしろ書けていないとダメとすら思われるし、思う。

そんなことは言っても、「じゃあどうすれば?」と言われれば難しい。

何か目標があって、自己肯定感を持ちながら続けることは難しい。

「私は本当にやっているのか?」にYesと答えながら、何かを行うことは気持ち的に大変に感じる。

これは目標を達成したかを判断する指標は自分の外部にあるからではないだろうか。

数値、基準、反応、選考。どれも外の「ものさし」に自分が近づけているかで判断する

自分で数値目標を決めたとしても、それは客観的な指標を使っているだけであって、ものさしは外にある。

目標が外部の判断基準にあるから、それに自分が従うしかない。

ならどうするか?

目標を内部に持てばいい。自分の気持ち次第でどうにもなる。

つまりは、「自分が満足するまでやる」とすれば、もう十分という所で終わる。

ご飯も一緒で、「腹いっぱい食べる」は自分の内部の目標で、満腹になったら終わる。

バイキングに行った時に「元を取るぞ!」という目標を立ててしまえば、お店の値段という外部の指標に従って自分のお腹に入るだけ食べる。

結果としてはお腹いっぱいになる。しかし、よほどの大食いでない限り、「う、、、苦しい」と満足とはかけ離れた、「もう食べなくてすむ」という感覚になるのではないだろうか。

このように目標を外部に立ててしまうと、自分が苦しくなる。

noteでも同じかもしれない。「毎日更新」という日付に縛られて書いている内は苦しい。

内部の目標である「満足するか?」を基準にして、その結果として「毎日更新していた」なら「好きに書いていただけ」になる。

仕事にも通ずる話かもしれない。

「好きなことを仕事にすると、嫌になる。」

よく聞く話だ。好きなことが仕事になってすぐは自分が楽しいことを仕事に出来ていると感じるかもしれない。

しかし、好きなことが仕事と混ざると自分が嫌なことも入ってくる。要するに外部の基準だ。好きなことを依頼相手の基準に合わなければいけなくなる。

それは、あくまで基準のでの楽しさになってしまう。

好きなことが仕事となり、嫌になって挫折を味わった人の立ち直りの話としてこんなことを聞く。

「自分がやりたい仕事を選ぶようになりました。」

これは外部の基準と内部の基準を照らし合わせて、内部の基準内に外部基準がおさまっている。もしくは、自分の「好き」が外部基準に押さえ込まれない仕事なんじゃないだろうか。

好きと仕事が交わって、漠然とした楽しさが明確になることもある。

「これは仕事とくっつけたくない」
「自分の「楽しい」の核は〇〇で、ここが枠に抑えつけられるとイヤだ」

と、分かってくる。

まとめ

自分が目標としていた毎日投稿を始点に、自己肯定感を持って目標に向かって取り組むことについて書いてみた。
(成り行きではあるのだが、、、)

書く仕事であるライターや小説家を例に毎日「書く」ことは当たり前であり、むしろ書かないとマズイ。

そんな例から、目標が外部にあって、内部にないから苦しいことを見出した。

さらには、これを食事や、一般的な仕事(楽しいことと仕事のつながり)を例にして内部基準が外部基準の中にあると苦しいと考えた。

つまり、自分が満足していても外部基準(数値、基準(合否など)、反応、選考)を満たせない状態は辛い。

そうではなく、この関係を逆にした外部基準が内部基準の中にある状態が望ましい。

バイキングを例にすると、「お腹いっぱい食べる」という目標を持って食べていたら外部基準である「元が取れた」を達成したのなら、幸せだろう。

書いていて気づいたことだが、自分の内部基準の下にある外部基準を探すことも大切だろう。

目標を立てる時には上ばかりを見がちだが、達成した(していた)外部基準を見返したり、探すことで世間的に見たスゴイことを自覚できる。

こんなところではないだろうか。

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