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「理由はなんですか?」と聞かれることが苦手

群像2024年8月号で西由良の『続ける理由』を読んだ。

著者は「あなたの沖縄」というコラムプロジェクトをやっている。90年代の沖縄生まれの人に個人的な経験を書いてもらい、noteに投稿しているようだ。

著者は、90年代生まれの沖縄の人々に個人的な経験を書いてもらう『あなたの沖縄』というコラムプロジェクトをnoteに投稿している。

このプロジェクトをやっていることを友人に伝えると、「なんでやってるんですか?」と聞かれることが多いそうだ。 

しかし、自分の中では、「同世代の沖縄の人の話を集めたら面白そうだから」という興味本位以上の理由が見つからない。

それこそ、「沖縄の今を伝えたい」とか、「若者の声を届けたい」という相手に響くような理由がない。

大人になると、なにかと「物事をやる理由」を聞かれる。子どもの頃は、「何やりたい?」「あれやりたい!」で済んでいたものが、そこに「なんで?」が加わってくる。

「別に理由なんかいらないじゃないか」と思いつつも、自分も相手にその理由を聞いたりしている。

このエッセイにも書かれているが、繰り返し理由を聞かれると答えを探そうと、考えてしまうたちが私もある。

「別に大したことじゃないです」と答えたらいい。けれども、他人を納得させるような回答を出さなければいけない気持ちがどこかにある。

理由を聞かれるうちに、自分で物事に取り組む前に「やる理由」を考えるようになる。そして、やる意味を見い出せなければやらない癖ができてしまう。

これってよくない。誰かにいつか聞かれることを想定して、その答えが見つけられなければ行動しない。

そんな癖に気づいてからは、やる理由がないけれども、やってみたいことは人に言わないようにしている。

「やる理由」を聞かれることは、私にとってそれなりにストレスのかかることだ。

だが、気にし過ぎた上で「あー、あの時やっておけば良かった…」と後悔するのは、もっと心残りがある。

誰にも話していないことをしている場面を、知り合いにバッタリ見られてしまったらその時だが、今までそんなことは一度もない。

ソレはソレとしてものすごく確率の低いことだと認識している。だが、行動できない。それだけ癖というのは根深い。

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