吉田健一「舌鼓ところどころ」

題名通り食に関するエッセイをまとめたものです。
私がもっているのは古い文庫で、現在は「私の食物誌」と合本となった版が中公文庫から新しく出ています。

食のエッセイといっても多種多様で、作家の例でいえば、檀一雄のように豪快に自分でどんどんつくっていくタイプ(「壇流クッキング」など)や、開高健のように言葉の技術を尽くして味を表現しようとするタイプ(「ロマネ・コンティ1935年」など)がありますが、さかしらぶった「食通」と呼ばれることを嫌う吉田健一のスタンスは「食いしん坊、ばんざい」。つまりは食べること、飲むことはは人生の喜びであることで一貫しています。なにせ「我々は余り欲を出してはならないので、鰻丼の後で親子丼を食べてそれでもどことなく物足りないから、鴨南蛮を一つ頼む程度の胃なら、それで満足すべきである」(「胃の話」より)なんて書いているのですから。

なので、食に関してレシピや歴史的由来など、なんらかの「使える情報」を求める人にはこの本はお呼びでないといえるでしょう。その代わり食べること、生きることの喜びに共感できる人すべてにこの本は開かれてます。こうしたスタンスが端的に表れている例として「文学に出てくる食べもの」の中からジェイムズ・ジョイスについて触れている部分を紹介します。

吉田健一はジョイスの「ユリシイズ」(タイトル、登場人物名は吉田の表記に準じます)で主人公のひとり、ブルウムの朝食シーンを取り上げて「ブルウムという男が朝の食事に羊の腎臓をバタで焼く所は、何かこってりとした感じがする点で記憶に残る。」と書いています。この後の部分が本題。

「ジョイスのバタいためは『ユリシイズ』の初めの方に出て来るので、もっと先の方にどんな御馳走の話が待ち受けているかと思って読んで行っても、7、800ペエジもある小説の終わりまで、全く何もない。余り食べもののことを書くのは高級な文学者がすることではないと思ったのだろう。馬鹿な奴である。」

さらに続いて、以下のように語ります。

「尤も、ジョイスが好きな人間に言わせれば、もっと後の方に、ブルウムがダブリンのどこかの食堂で昼の食事をする所があるということになるのだろうが、この昼の食事程まずそうに描写された食事の場面はまだ読んだことがない。そういう風に書くのが又、ジョイスの狙いでもあって、つまり、この世は夢か幻かであり、人生に関することは凡ていやらしいか、汚いものばかりだということを説くのがこの小説の趣旨になっているらしい。」

ほとんど言いがかりではないか、とジョイスのファンが憤慨しそうですが(笑)、ジョイス文学の一面を鋭くついているように思えますし、吉田健一らしさが発揮された箇所だと思います。

この本には他にも酒に関する名文や、日本各地の食べ歩きの紀行文など、味わいある文章が収められています。吉田健一の初めの一冊としても格好ではないでしょうか。

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