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『学問としての教育学』を読んで📘

 夫からオススメされた、
苫野一徳氏の、『学問としての教育学』📘

さらっと読める本ではなかったけれど。

客観的な「よい教育」の“真理”ではなく、
相互の「確信・信憑」を持ち寄ることで
「よい教育」の共通了解を見出し合うこと

という文言に惹かれました。

頭の中で噛み砕きながら読んでいき。
自分の中のもやもやに芯が通った読後。

客観的な「よい教育」などはなくて。
わたしたちが問うべきは、まずこれは「よい教育」であると確信する条件は何かである。
 それは、わたしたちの〈自由〉への欲望が実現化されることである。
〈自由〉の本質は、
「諸規定性における選択・決定可能性の感度」。

様々な欲望の規定において、なおこの規定性を何らかの仕方で克服し、そこから解放され、できるだけ納得して、さらにできるなら満足して生きたいように生きられること。
〈自由〉の本質は「感度」(感じることと、その度合い)であって、「状態」ではない。

つまり、わたしたちは、
あらかじめ整備された
「自由な状態」におかれた時ではなく、

「ああ、今自分は自由だ!
自分なりに納得して満足している!!」

という感度を得られている時に
自分は〈自由〉だと確信するということ。

苫野氏は、

その〈自由〉を自他ともに承認し合うこと、
その上で互いの〈自由〉のあり方を調整し合うこと
それを「自由の相互承認」という。
正当な社会の公準は、幸福の最大化であるよりも、幸福追求の〈自由〉の相互承認であるというべき。

と述べておられて。

公教育の本質は

各人の〈自由〉および社会における〈自由の相互承認〉の〈教養=力能〉を通した実質化である。

とも。

力能というのは、

英語能力やコミュニケーション能力といった
個別的な能力というよりも、
自らが自由になる為の、
これらを含むより包括的なニュアンスのこと。

〈教養=力能〉の内実は、
いわゆる「学力」だけではなく、
とりわけ「相互承認」の感度も
またその重要な本質としなければならない。

〈自由〉…自らが選択・決定すること

〈自由の相互承認〉…自他共に
〈自由〉を欲する存在だと認め合うこと

〈感度〉…自己理解、
自分なりの納得感を得て、
その結果に満足すること、その度合

と現時点の私は理解しています。

自クラスの子、自校の子、わが子たち…。

こんな子どもに育っていって欲しいし、
育てていきたいと思っていたことが、
言語化された所感です。

特に
学びの個別化…

理念的には子どもたちは
学ぶペースも、興味・関心も、合った学び方も、
いつ、どこで、だれと、どのように学ぶ(学び合う)ことがよいかも人それぞれ異なっているということを
徹頭徹尾、実践のベースにするということ
方法論的には、学びをできるだけ子どもたちに合った方法で個別化することが求められるということ
(イエナプランやドルトンプランなどに代表される時間割の個別化や自由進度学習など、教材を個別化する、選択肢を増やす等)

これらを実践するなら、
人を増やす以外の選択肢はないのではと感じます。

多様な学びの為に、
多様な人材が教育現場に入ってきて欲しい。

子どもたちに
「共通基礎教養」…(将来どのような人生を送るにしても必要な一定程度必要とされる教養)と、

「自らの教養」…(「基礎教養」の上に、
より専門的で探究的、そして自身にとって重要な自らの〈自由〉をより実現化する為の〈教養=力能〉)

をつけるためにも。

夫と以前、

「午前中は、集団で共通した時間割、
午後は自分で選択した深く学びたい時間割を子ども自身で選べたらいいよね。

午前中は教師(現時点で担任)、
午後は専門教師(外部の専門家等)から学べたらな。。」

なんて言っていたことを思い出しました。

現時点では、

子どもたち一人ひとりにとって、
最もよい学習の仕方や進度を尊重すること、
その結果として学習指導要領に定められた学習内容の修得を十分に保障すること

がポイント。

今日読んだ『学問としての教育学』で心に残ったことを心がけ、思案しながら仕事にあたりたい。

また丁寧に再読したい、
と思いながら夕食にとりかかります💪


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