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もうひとつの「菜の花忌」

「桜桃忌」といえば、太宰治。
「河童忌」といえば、芥川龍之介。
というように、作家の命日を悼む日がある。

それでは、「菜の花忌」といえば、誰かご存知だろうか?

ネットで調べれば一番に司馬遼太郎の事が出てくる。
言わずもがな、国民的作家である。
菜の花が好きだったという故人にちなんで設けられたらしい。

実は、それ以前にも、ある詩人を偲んで「菜の花忌」が設けられている。

それが長崎県諫早市出身の詩人、伊東静雄である。

伊東静雄については、私も、ここでの投稿、「ふたりの詩人、伊藤と伊東」で書いた。

私の生まれ故郷が近いこともあり、若い頃、「菜の花忌」の記念式典が行われるという、公園を訪れたこともある。

わがひとに與ふる哀歌

太陽は美しく輝き
或は 太陽の美しく輝くことを希ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行った
かく誘うものの何であらうとも
私たちの内の
誘わるる清らかさを私は信じる
無縁のひとはたとへ
鳥は恒に変らず鳴き
草木の囁きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺の廣大の讃歌を
ああ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでいる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何になろう
如かない 人気ない山に上り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に返照さするのに

萩原朔太郎は、伊東静雄を評して、真の「心の歌」を持つ、真の本質的な「叙情詩人」である、とした。
上述した代表作には、底に乾いたニヒリズムを含みながらも、美しい叙情に充ちている。

伊東の文語詩は難解である。
それは多分に生まれ育った故郷への屈折した思いが反映しているように思うが、考えすぎだろうか?

伊東静雄は有明海に面した長崎県諫早市で生まれた、とは前述した。
幼い頃、伊東の生家はその地で豚博労、すなわち家畜の仲買業をしていた。まだそうした職業に酷い差別がある時代である。
成績の良かった彼は、嫉妬も含めて家業のことで周囲の人間に揶揄された。
そうした少年時代が反映してか、往々にして彼が後に詩で描く故郷の姿は妙によそよそしい。
そこに故郷喪失者としての伊東静雄の姿が見える。
現に彼は、その後の半生を大阪で教師として暮らし、しかも、親の残した借金を返済していくという晩年を過ごしている。

伊東静雄はもともと社会性のある詩人ではない、と言われる。
それは政治的アジテーションを口語自由詩に乗せて表現する詩人たちとは一線を画すその際立つ抒情があるからかもしれない。
それでも、萩原朔太郎や三島由紀夫は彼の詩に魅了され、江藤淳は伊東静雄の特徴を「一種の決然たるストイシズム。心の奥底に何か非常に深い悲哀がある」と評した。
たとえば次のような詩がある。

八月の石にすがりて
さち多き蝶ぞ、いま、息たゆる
わが運命(さだめ)を知りしのち
たれかよくこの烈しき
夏の陽光のなかに生きむ

運命? さなり
ああわれら自ら孤寂なる発光体なり!
白き外部世界なり
見よや、太陽はかしこに
わづかにおのれがためにこそ
深く、美しき木陰をつくれ
われも亦

雪原に倒れふし、飢えにかげりて
青みし狼の目を
しばし夢みむ

生と死、光と影が激しく交錯するような詩である。
これは、昭和十一年、二・二六事件が起きた年の夏の日を詠んだものだという。
戦争へ向かっていく不穏な時代を詩人はこのような言葉で表したのだった。

そして、昭和二十二年、敗戦の傷がまだ癒えないなか、伊東は詩集「反響」を発表する。

この詩集を読んだとき、「なにかががくりと折れた」と江藤淳は書いた。
ここではそれまでの難解で緊迫した言葉が嘘のように、解放感に溢れているが、その一方で、深い挫折感の後の諦念のようなものが窺われる。

夏の終わり

夜来の颱風にひとりはぐれた白い雲が
気のとほくなるほど澄みに澄んだ
かぐはしい大気の空をながれてゆく
太陽の燃えかがやく野の景観に
それがおほきく落とす静かな翳は
・・・・さよなら・・・・さやうなら
・・・・さよなら・・・・さやうなら
いちいちさう頷く眼差のやうに
一筋ひかる街道をよこぎり
あざやかな暗緑の水田の面を移り
ちひさく動く行人をおひ越して
しずかにしずかに村落の屋根屋根や
樹上にかげり
・・・・さよなら・・・・さやうなら
・・・・さよなら・・・・さやうなら
ずっとこの会釈をつづけながら
やがて優しくわが視野から遠ざかる

一見すると、立原道造にも見まがうような描写だが、平明な口語体のなかでもその抒情性は損なわれることなく、むしろ物語性すら有している。
そして、明るい田園風景の描写のその底には、敗戦の挫折とこれからの時代への不安が見え隠れする。

否、こうした詩に触れる時、伊東静雄がこの詩を詠んだ時代のみならず、その途上で挫折を繰り返し、何かに訣別をし続けていく、現代に生きる私たち自身の人生の悲哀を思い起こして、胸に迫るものがある。

晩年、伊東は故郷に帰ろうとした節がある。
そこで小説を書きたいという野望があったらしい。
上述した「夏の終わり」のような小説が生まれていればどんなに素晴らしかったことだろう。
だがそれは叶わなかった。
昭和二十八年、三月十二日、故郷に帰ることなく、大阪の地で彼は
死去した。
その時、伊東の脳裏には故郷、諫早の丘一面に咲く菜の花畑が見えただろうか?

「わが死せむ美しき日のために 連嶺の夢想よ! 汝が白雪を消さずあれ・・・」
と、伊東静雄は臆することなく「自分の死ぬ日は美しい」と、詩人の矜持を持って、そう言い切った。
それは結果的に、彼が傾倒したというヘルダーリンの
「しかし汝、汝は生れた 澄んだ日の光のために・・・」
に呼応するものにさえ思えてくる。

伊東静雄は、まさに、「生と死」、「光と影」の激しき交錯の中を颯爽と駆け抜けていった、稀有な詩人のように思えて、ならない。



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