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チェコ共和国:35年ぶりのプラハ(2024年8月)

今年の夏、約35年ぶりにチェコ共和国のプラハを訪れた。プラハは3回目。最初の2回はまだチェコ共和国が「チェコスロバキア」と呼ばれていた頃で、記憶が定かでないのだが、1988年から1989年にかけての冬だったと思う。まだベルリンの壁があった頃である。

この夏の旅行記ではあるけれど、今回行って当時のことをいくつか思い出したので、その内容も含めて書いてみる。なお、昔の写真はもう処分してしまったようで、全く見つからなかった。残念。
記事の写真は全て今年撮影したものである。

聖ヴィート大聖堂

東欧諸国へはウィーンから

短期間であるが、私は当時ウィーンに住んでいた。オーストリアは当時中立国で、 日本人も比較的滞在ビザをとりやすかったし、何よりも、西ヨーロッパから鉄のカーテンの向こう側へ行く玄関口にもなっていたのである。

中でもチェコスロバキアとハンガリーは比較的行きやすく、プラハとブダペストへはウィーンからの日帰りツアーも出ていた。
プラハへの1回目は、日本からの知り合いが来た際に、バスツアーに参加して行った。確か片道4時間ぐらいかかったような。知り合いと一緒だったので、おそらく日本語のツアーに参加したのではないかと思うが、よく覚えていない。

大聖堂の中

2度目は友人と行ったのであるが、今度は個人旅行で。確かリングにチェコスロバキアの国営旅行代理店があり、そこでホテルとビザの手配を全部してもらった。というか、そうしなければ行けなかった。プラハへは電車で。これも片道4時間ぐらいかかった記憶がある。
当時国境での検査が厳しく、荷物も全て調べられた。もちろん写真撮影は禁止。

カレル橋。とにかく人、人、人!

一人25マルク、または400シリング強制両替

たぶん国境でだったと思うが、当時は西側から東欧諸国に行く際には、一人につき1日一定金額を強制両替させられた。
東ベルリンと同じで、1日25西ドイツマルク、或いは400オーストリアシリングだった。
3日ぐらい滞在したような記憶があるので、その日数分、二人分両替した。

プラハに到着し、ホテルにも入って、早速観光。手配されたホテルは外国人専用のようで(イタリア人のグループが多かったような記憶がある)、ちょっと中心地から離れていたから、トラムで移動。

上に写真を載せた場所を訪れているが、冬だったので、とにかく暗く、観光客もほとんどいなくて、なんだかゴーストタウンのようだった。

カレル橋の上の聖像彫刻

強制両替させられて、結構なコルナを持っているのだが、使うところがない。カフェみたいなものもないし、お店もほとんどやっていなかった。

1箇所、屋台のようなのがあって、人が行列になっていたので、並んでみた。やっと順番がきて陳列物をみたら、売っていたのは丸っこい直径5センチぐらいのブタの置物(笑)。一応2個買ってみて、本当にただの置物か、何か仕掛けがあるのかとか見てみたが、本当にただのプラスチックの置物。全然可愛くもない。

ビールと闇両替

チェコといえば、今でもビールが有名であるが、当時はなんといってもブドバーが人気であった。そのブドバーと一緒に料理が楽しめるレストランへ行ってみたが、そこは本当に美味しかったのを覚えている。
今回探してみて、一応創業年の古いブドバーのレストランに行ってみたが、うーん、同じかどうかよくわからなかった。

ピルスナーウルケルのレストランで食べたソーセージ。

実はもう時効になっていると思うから書くが、そのビールの美味しいレストランで、私たちは闇両替をした。
東ベルリンやプラハは、当時外国人が歩いていると、すぐに人がスッと寄ってきて「両替しないか?」と囁いてくる。無視していたが、このレストランでも食べ終わってからウェイターのお兄ちゃんが、フッと顔を寄せてきて
「両替してくれない?」
と聞いてきた。
「なんで?何に使うの?」
と聞き返したら(当時はプラハではドイツ語が問題なく通じたので、会話は全てドイツ語)、
「ドルショップで欲しいものがあるんだ。そこはドルやマルクなど西欧のお金しか使えない」
とても感じのいいお兄ちゃんだったし、ウォークマンが欲しいみたいなこと言われて、なんか気の毒になって、多分5000円ぐらいの金額だったと思うが、シリングを替えてあげた。

国境での正規の両替は1:1だが、闇両替は1:5ぐらい。なのでなんだか大量のコルナが手に入ったわけだが、うーん、困った。買うものがない、使うところがない。コルナを国外に持ち出すことはできない。

後で聞いたところ、ボヘミアングラスや骨董品などのお目当てがある人は、あらかじめ闇両替で替えて色々買い物をしていたらしかった。

「黄金の小路」。当時知っていたらここで宝飾品でも買えたかもしれない。小路全体が博物館のようになっていて、入場料がいるのには驚いた。

ボヘミアングラスや宝飾品なんて思いもつかなかった私たちは、なんかプラハのしょぼい雑貨屋みたいななんでも売っているお店を見つけ、そこで文房具とか裁縫道具を物色。というか、他に買うものが本当になくて、色鉛筆全色のセット幾つかと、糸の全色セットなんて買っちゃったり。

まだまだお金があるので、次の日の夜は、一応当時プラハで一番高級レストランとされていた、なんとかというホテルの最上階にあるレストランに行ってみる。地元の人は綺麗に着飾ってた中(でもこれも特権階級とかの人だったのだろう)、二人でジーンズで入っていくのはなんとも気まずかったが、外国人なので入れてもらえた。

ユダヤ人墓地。昔は確か入場できなかったような記憶がある。

メニューはセットで3種類ぐらいしかなく、よくわからなくて適当に注文。ワインなんかも頼んだ気がする。私も若くて、そこまで料理にこだわりもなかったが、お味はお世辞にも美味しいとはいえなかった。

今回の旅行でも色々とチェコ料理を食べてみたが、うーん、ビールは美味しいが、料理はあまり好みではなかった。なので写真もあまりない。

今やヨーロッパきっての観光地

今日のプラハは、明らかにヨーロッパの大人気観光地の一つ。8月のハイシーズンということもあり、とにかくどこも人でいっぱいだった。
ヨーロッパ人をはじめ、日本人や中国人、韓国人もかなりいた。韓国人は特に多いらしく、私たちは車で行ったからわからなかったが、空港には韓国語の表示もあるらしい。ドラマのロケ地でもあるのかな?

35年前に行った時とは明らかに雰囲気も違い、お店もカフェもレストランもなんでもある。

ムーステックからヴァーツラフ広場まで。「プラハの春」や「ビロード革命」の舞台にもなった歴史的な場所。

一流ブランドのブティックも揃っているし、ショッピングモールも中心地にいくつかある。ただ、どこでも見かけるお店やレストラン、カフェのチェーン店も多く、もはやヨーロッパの他の町と全く変わらなくなってしまったとも言える。

物価はイタリアよりは少し安めという感覚ではあったが、例えばプラハ中心地の、私たちが停めた駐車場代は1日36ユーロ!ここは地下だったが、屋外や路駐だと27ユーロとからしいので、これはミラノとあまり変わらないのではないか。

通貨も今回はまだコルナだったが、おそらく近いうちにユーロになるのだろう。そうするとさらに、他のヨーロッパの町とあまり変わらなくなっていくのだろう。

共産主義博物館というところにも行ったが、35年前に私がみたプラハは、もう歴史の1ページになってしまっている。
そして、バルセロナやヴェネツィアのように、プラハがオーバーツーリズム問題で悩むようになるのも時間の問題だろう。


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