呼吸の瞑想(5): 心と向き合う
おはようございます。これまで「身体」「感受」とお話をしてきましたが、今日は「心」についてお話しします。私たちの心はどのように生まれてくるのか、考えてみましょう。
第三の四考察(心に関する考察)
9. 「心を感じながら息を吸おう。心を感じながら息を吐こう」と訓練しなさい。
10. 「心を喜ばせながら息を吸おう。心を喜ばせながら息を吐こう」と訓練しなさい。
11. 「心を安定させながら息を吸おう。こころを安定させながら息を吐こう」と訓練しなさい。
12. 「心を解放しながら息を吸おう。こころを解放しながら息を吐こう」と訓練しなさい。
第9の考察は「心を感じながら息を吸おう」というものです。皆さん、普段から自分の心を感じていますか?一見、簡単なようですが、実は私たちは自分の心にあまり気づいていないことが多いのです。仏教では心をどう考えるのでしょうか?
心には良い状態と悪い状態があります。心の悪い状態というのは心に煩悩がある状態です。逆に煩悩がないのが心の良い状態です。煩悩があると、私たちの心は煩悩に支配されてしまいます。お釈迦様は、これを私たちが心の奴隷になっている状態だと仰っています。自分のするべきことではなくて、煩悩の言いなりに行動をしてしまっている状態です。
では煩悩とは何でしょうか?煩悩には大きく3つあります。「貪瞋痴(とんじんち)」と呼ばれるものです。一つめの「貪」とは貪欲のことです。これは何かが欲しくてたまらないとか、あるいは自分の持っているものを失いたくないというように、何かに対する執着心を指します。物に対して、人に対して、あるいは名誉に対して私たちは貪欲になることがあります。何かが欲しいあまりに極端な行動に走ってしまったり、嫉妬や妬みで心が苦しくなったりすることは誰にでも心当たりがあるでしょう。
2つめの「瞋」は嫌悪のことで、貪欲の逆です。何かが嫌で嫌でたまらない、という心の状態です。自分に起こっている状況やものごとに対して、拒絶反応を起こしたり、抵抗したり、逃げ出したりするわけです。嫌悪で一番多い反応は怒りです。人は自分が嫌悪する物ごとに対して、しばしば怒りの感情を抱きます。「怒りに我を忘れる」という言い回しがありますが、これは文字通り、嫌なものを排除することに心を奪われてしまい、自分の制御が効かなくなった状態です。あるいは逆に、恐れや忌避心が強くなり、その場に出ていくことを避けて引きこもったり鬱になってしまうこともあるかもしれません。
煩悩の3つめの「痴」は無知のことです。すべての煩悩は究極的にはこの無知から生じます。私たちが煩悩から逃れるためには、ものごとを正しく見るということが大切になってきます。それには「智慧」が必要ですが、これについては第四の四考察(知恵に関する考察)のところで取り上げるので少し置いておきます。
さて最初の2つ、貪と瞋に捉われたとき、私たちはどうしたら良いのでしょう。貪欲と嫌悪は、前回お話しした感受の「快」と「不快」に関わっています。私たちは「快」を感じるものに対して貪欲になり、「不快」を感じるものに対して嫌悪を感じます。快を感じるものに近づいたり、不快を感じるものから遠ざかったりすることは自然な反応なのですが、それをすぐに実行することが難しい状況(欲しいのに手に入らない、とか)に直面したときに、私たちはしばしばそのことに執着して苦しむようになります。つまり私たちの煩悩は、「感受」をうまく処理しきれず、それに執着してしまうところから発しているのです。
ここから逃れるためには、まずこの煩悩をそっと見つめることが必要です。自分はどのような執着心や嫌悪に苦しんでいるのか、その執着心はどのような快から生じているのか、その嫌悪はどのような不快から生じているのかを瞑想します。このときにそれが良いとか悪いとかの判断はしないようにします。その根っこにある感受をただ静かに見つめます。場合によってはこれは痛みを伴う「観」の瞑想になります。昔の忘れていた思い出や自分の見たくない一面に出会うこともあるでしょう。もし苦しくて続けられそうもないときは無理をせずに「止」の呼吸の瞑想へ戻って心を安定させてください。ここでは自分の心の煩悩をありのままに見つめられるようになることが目標です。無理をせず、時間をかけて少しずつ訓練してみてください。
次回は煩悩との向き合い方についてもう少しお話したいと思います。
本日は最後までお聞き下さり、誠にありがとうございました。
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