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アザもちの記憶の断片

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初対面と言語化。

 僕は人見知りはしないほうだ。でも、「初対面」の人と出逢うとき、いろいろと考えを巡らせてしまう。まず、僕の口元のアザのことについて。それから、精神障害への配慮について。「初対面」の人にはなるべくこの二つのことについて、話の流れを遮らないように話すことにしている。自分の「構え」を取り除くこともそうだけど、何より他者の「構え」を取り除くことに重きを置いている。

 アザ持ちの人と出逢う機会はありそうで

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階段。

 救急隊員「〇〇さんの息子さんですか?」

 突然の母からの電話で、知らない人が話し出した。

 救急隊員「救急隊員の△△です。」

 僕「えっ、はい・・・。」

 救急隊員「〇〇さんが階段で転び落ちたようで。今から急いで来れます           か?」

 僕「はい!すぐ向かいます!」

 状況が全く飲み込めないまま自宅を出た。当時、僕とは別々に暮らしていた母はパートナーと同棲していた。とに

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消火器。

 「ピンポーン!ピンポ!ピンポ!ピンポ!ピンポーン!」

 「ガチャガチャ!ドンドン!」

 母の彼氏(以下、Aさん)に違いない。そう思った僕は居留守を決め込んだ。Aさんは今にも乗り込んで来そうな勢いで玄関のドアを叩いたり、インターホンを鳴らしたりしていた。肝心の母はというとそのKさんのことで誰かに相談しに行っていた。ただただ怖かった。

 母「もしAさん来ても絶対家に入れないで!なんかあったら電

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ふたり飯。

 僕は「ふたり飯」が好きだ。「ひとり飯」は人とのお喋りがなくて、食事が単なる作業になってしまって、あまり好きではない。ひとり飯、特に外食するときは決まって、行きつけのお店で店員さんとお喋りしながら食事をする。だからそういった意味で外食でお喋りのない、ひとり飯をすることは滅多にない。

 はじめて外食でひとり飯をしたときの記憶はもう残っていないけど、はじめの頃は店内のお客さんや店員さんを敵だと感じて

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時が止まって。

 19歳に統合失調症と診断されてから、29歳の今に至るまで、僕だけ時が止まってしまったかのように日々感じている。特に周りの同級生の友人たちが大学でキャンパスライフを謳歌している中、僕は日々この病気と闘っていた。特にパニック障害の心臓の発作が襲ってきたとき、何度と救急車で運ばれたことか。人混みが怖い。電車やエレベーターなどの密閉空間が怖い。怒鳴り声や工事音など音が怖い。僕の生活圏は徐々にこれらの病気

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彼氏がいない間に。

 母「いいから、早く来て!」

 突然の母からの電話に困惑した。新しい彼氏(以下、Bさん)ができて、今の彼氏に見切りをつけたようだ。今の彼氏(以下、Aさん)の家に入り浸っていて、実家にはほとんど帰ってこなかった。もう一週間近くAさんの家に戻っていないらしく、一度は話し合おうと言われたものの、最終的に、

 Aさん「荷物持って出てけ!」

 と、電話があったらしい。それで、荷物を実家に持って帰るつい

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呼称。

 もうすぐ20歳になるというときに、統合失調症という診断名をつけられた。このときは抵抗もあったが、同時に一生付き合っていかなければならない疾患、障害であるため、僕という存在が社会から認められたような気がした。でもそれは錯覚で、差別や偏見もあるのだけど。安堵する一方で、これからのことが不安だった。

 僕はざっくり分けて二つの人生を生きている。一つはユニークフェイス/見た目問題当事者としての人生。も

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あっち行け!

 僕はどこか「人とは違う」と思い始めたのは保育園に通っていたときだ。当時は友達らしい友達もいなかった。だからいつも一人遊びをしているか、塀の外をただぼーっと眺めながら母が来るお迎えの時間を待っていた。母は仕事の関係でお迎えが遅くなることが度々あった。それもあってか、一人の時間を過ごすことに慣れていった。

 ある日、お昼ご飯の時間が終わって、遊びの時間になった。そのときは砂場でドロだんごを作ること

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告白ラッシュ。

 中学一年生のころ、はじめて彼女ができた。経緯は別の記事で改めて書き起こすとして、事の始まりは、クラスメイトの女の子が僕のことを好いてくれたことだ。彼女の取り巻きのクラスメイトが、

 「Aさんのことどう思う?」

 「Aさんって可愛いと思わない?」

 などと、連日質問攻めにされた。クラスメイトの反応があからさますぎて、僕は多少疑いつつも彼女の気持ちが本当であると、確信に変わっていった。僕も彼女

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身体的不調ではなく、精神的不調。

 家を一歩出れば、視線におびえる毎日。誰も見ていなくても、誰かが見ているのではないか。僕はいつしか見えない視線、在りもしない視線にびくびくするようになっていった。口元の右側にアザがあるから、右側が見えないように、意識しながら生活していた。歩道を歩くときも、いつも決まって右側を歩いた。電車に乗るときも、壁側に移動して右側が見えないように、壁を右にしてそれとなく違和感のないように寄りかかっていた。

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出逢って。

 僕はどこか人とは違う。そんな風に考えていた時期があった。どこかじゃない、この口元のアザだ。アザは僕の人生を不幸にした。アザによって、人から好奇な視線を浴びた。家を一歩出る。ただそれだけのことが僕にとって、勇気のいることだった。好奇な、ときには嫌悪だったり奇異だったりするわけだけど、そういった視線におびえながら生きていた。

 視線だけならまだよかった。すれ違いざまに嫌味ったらしく、

 「口にウ

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ちゃんと社会学してね?

 ある日、ある居酒屋で、研究者である友人Hさんと社会学談義をしていた。Hさんは僕と話すとき、基本的なスタンスとして、どんな話題でも学問に引き付けて話すようにしているそうだ。僕はそういった中でHさんに揉まれていくうちに、社会学的な視点をもつことが少しではあるができつつあるように思っていた。

 そうしてお互いに疲れ果てて、帰ろうとしていたときだった。お店にお客さんが入ってきた。40代くらいの男性だっ

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ロールモデルの不在。

 僕は大学生になるまで、アザもちの人に出会ったことがなかった。ロールモデルという言葉がある。これは自分の人生の模範となるような、行動や考え方のモデルになる人を指し示す言葉だ。僕と同じように外見に疾患や外傷のある人々が僕のちっぽけな社会にはいなかった。だから僕という存在がこの日本社会で、どのように生き抜いていけばいいのか全くわからなかった。

 高校時代、僕のクラスに何人かアルバイトをしているクラス

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知的障害者とアザもち。

 僕には知的障害と診断された幼なじみがいる。わざわざ”診断された”と表現したのには理由がある。僕たちは何かしらのカテゴリーを付与されてこの社会を生きている。僕であれば男性だとか、精神障害者だとか、学生だとか、未婚者だとか、そんなところだろうか。こうしたカテゴリーは僕たちがこの社会を生きていき、人と関わる上で一定程度必要だと思う。知的障害と診断され、障害認定されることで社会から様々な支援を受けるのは

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