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【シリーズ「あいだで考える」】斎藤真理子 『隣の国の人々と出会う――韓国語と日本語のあいだ』の「序に代えて」を公開します
2023年4月、創元社は、10代以上すべての人のための新しい人文書のシリーズ「あいだで考える」を創刊いたしました(特設サイトはこちら)。
シリーズの9冊目は、
・斎藤真理子『隣の国の人々と出会う——韓国語と日本語のあいだ』
です(8月27日頃発売予定、書店にてご予約受付中)。
刊行に先立ち、「序に代えて」の原稿を公開いたします。
2000年代の韓流ブーム以降、韓国の文化は幅広い世代に好まれ、人気を保ってきました。ドラマや映画、音楽(K-POP)、そして文学への関心はますます高まっています。国家レベルでの日本と朝鮮半島との関係性は時に緊張をはらみつつ変化しながらも、文化や「人」のレベルでは、もっと深く知りあおう、互いを尊重しながら交わろうとする動きも拡大しています。
本書の著者、斎藤真理子さんは、昨今の韓国文学ブームを牽引する翻訳者のひとりです。書評やエッセイなどの執筆も多く、2022年の著書『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)では、韓国の文学と政治や社会、特に戦争との深い絡み合いを、現在から1945年頃までさかのぼる形で綴り、私たちに伝えてくれました。
今回の『隣の国の人々と出会う』では、まず韓国語(=朝鮮語)が入り口となります。自身が学び始めた頃のエピソードとともに、この言語のしくみと魅力をわかりやすくひらいて見せ、ハングルが創造され定着した歴史を現代史の中でたどります。
そして、日本による植民地支配以降の流れを追いながら、韓国の人々にとっての「言葉」や「詩」について、また在日コリアン(=国籍によらず、朝鮮半島にルーツを持つ人々)と言語のかかわりなどについて、文学翻訳者としての経験をもとに語ります。
著者ならではの卓抜で心地よい比喩表現と軽みのリズムに導かれ、本書を読んでいくひと時は、韓国/朝鮮半島と日本の人々の「あいだ」について、ひいてはそこを見つめようとする自分自身について、新たな視界をひらくものとなるはずです。
装画・本文イラストは小林紗織さん、装丁・レイアウトは矢萩多聞さん(シリーズ共通)が担当。小林さんは「小指」という筆名で『偶偶放浪記』(白水社)『宇宙人の部屋』(都築響一発行)などのエッセイや漫画作品も発表し、注目を集めている画家です。本書では、連作「score drawing」にも通じる独特の絵画世界を展開し、斎藤さんの言葉の世界に深いところで呼応する、鋭く豊かな感性の空間をつくってくださいました。
現在、8月27日頃の発売に向けて鋭意制作中です。まずは以下の「序に代えて」をお読みいただき、『隣の国の人々と出会う』へのひとつめの扉をひらいていただければ幸いです。
*
序に代えて——1杯の水正果を飲みながら
水正果をときどきつくる。
生姜とシナモンスティックを水で煮出して、はちみつまたは砂糖を入れる。褐色の甘い液体ができる。これをよく冷やして飲む。飲むときにはスライスした干し柿を入れる。
朝鮮半島に古くから伝わる飲み物で、食後にふるまわれる。口がたいへんさっぱりする。生姜と肉桂だから漢方薬っぽいが、薬臭さはなく、ひたすら香り高い。
韓国の食べものといえばキムチ、ピビンバ、焼き肉、最近ならチーズタッカルビなど、辛いもの、こってりしたもの、元気の出そうなものが多い。水正果はそれとはまたちがって、心がしんとして、遠くまで見わたせそうな気がする味だ。
私は韓国の小説の翻訳という仕事をしている。
この仕事をひとくちで言うなら、韓国語を読み、日本語で書く、そのくり返しだ。
韓国語で読んだことを日本語で書くと言い換えてもいい。
ひとつの小説を訳しているあいだ、2つの言語と自分が同じトンネルに入っているような気がする。作家が書いた韓国語がトンネルの壁にあたってわんわんこだまする。それを聞きとって書いた私の日本語ががんがん鳴る。
たまに、2つの言語がほんとに重なったと感じることもある。韓国語でもなければ日本語でもない、いや何語でもあるし何語でもない、もしかしたら言葉でさえない、言葉になる前の何かを重層的に体験しているような。
そのとき「あいだ」は揮発している。だが、本になると「あいだ」が復活する。「あいだ」は常に揺れているのだ。思う言葉と話す言葉、聞いた言葉と書かれた言葉、印刷された言葉のあいだにも揺れがある。各国で標準語とされている言葉のあり方にも、常に揺れがある。そもそも言葉は「揺れ」の集合体かもしれない。そして翻訳は、揺れているものどうしのあいだに揺れる吊り橋をかけるようなことだ。
日本と朝鮮半島との歴史は大揺れだったし、今も揺れている。この本で扱う言語も、韓国語と言われたり、朝鮮語と言われたりして、そこからしてもう揺れている。このことは、南北分断という厳しい現実に直結しているし、多くの在日コリアン(ここでは、国籍によらず、朝鮮半島にルーツを持つ人々全体を指す)が今も昔も日本で感じる緊張や生きづらさと大いに関係がある。この本ではこの言葉を、韓国語とも呼び、朝鮮語とも呼ぶが、多くの場合、相互に言い換えてもらってかまわない。大事なのは、朝鮮語と呼ばれるものと韓国語と呼ばれるものはちがう言葉ではないということだ。
そして今、この、韓国語と言ってもいいし朝鮮語と言ってもいい言葉を学ぶ人の数が、前例のないほど増えている。
K-POPや韓国ドラマが流行っているからでしょう? と言われる。確かにそうかもしれない。だが、アメリカのポップスや映画はずっと大流行だったが、それらのファンが特別に熱心に英語を学んだかといえば、そうではない。
それよりも、この言葉に、日本語話者を駆りたててやまないものがあるからだと思う。なぜなら、あまりに似ていて、あまりにちがうからだ。
43年前に初めてハングルを習い、未知の記号が音と意味を伴ともなったとき、何か見えない膜を破ってちがう空気の満ちる領域へ入ったような気がした。
近いところから聞こえてくる知らない音。
一歩踏みだせば手の届くところで揺れている文字の連なり。
それは未知の世界を開いてくれるだけでなく、自分の中の何かを揺るがし、清新なものを連れてくる。ハングルが読めるようになることは、世界の謎の一端が解けることだが、その謎が自分自身に濃厚にからんでくる。どんな言葉を学んでもそうだろうが、日本に生まれ日本語だけで育った私に、この言語がもたらしてくれる刺激は格別だった。
似ていて/ちがう。
そういう言葉の海へ漕ぎだす喜びと、海の冷たさに身構える気持ち。両方を持って、今も仕事をしている。
おそらく、言葉と言葉のあいだと同じくらい、ひとりひとりの沈黙と言葉のあいだの距離も遠いだろう。言えない言葉がある。聞かれない言葉がある。作家はそれを掬いとろうと努力する人々だ。この本では、作家たちの言葉も借りて、韓国語と日本語のあいだに立つと何が見えるか考えていきたいと思う。難しいことだから、頭が煮詰まってきたら水正果をつくって飲みながら。
言葉は文脈によって花開きもするし、人を殺しもする。1杯の水正果をつくる時間に、1杯の水正果を飲む時間に、日本列島と朝鮮半島の長い歴史を見わたしながら、人を殺さない言葉を見つけることができればと願う。
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『隣の国の人々と出会う——韓国語と日本語のあいだ』
目次
序に代えて――1杯の水正果を飲みながら
1章 말(マル) 言葉
韓国語=朝鮮語との出会い
隣の国の人々の「マル」
マルに賭ける作家たち
2章 글(クル) 文、文字
ハングルが生まれる
文字の中に思想がある
マルとクルの奥にひそんでいるもの
3章 소리(ソリ) 声
豊かなソリを持つ言語
朝鮮語のソリの深さ
思いとソリ
4章 시 (シ) 詩
韓国は詩の国
植民地支配の下で書いた詩人
現代史の激痛と文学
惑星のあいだを詩が行き来する
5章 사이(サイ) あいだ
翻訳の仕事をしている場所
サイにはソリがあふれている
おわりに
韓国語と日本語のあいだをもっと考えるための作品案内
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著者=斎藤真理子(さいとう・まりこ)
1960年新潟県生まれ。韓国文学の翻訳者。著書に『本の栞にぶら下がる』(岩波書店)、『曇る眼鏡を拭きながら』(くぼたのぞみとの共著、集英社)、『韓国文学の中心にあるもの』(イースト・プレス)、訳書にハン・ガン『別れを告げない』(白水社)、チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』(筑摩書房)、チョ・セヒ『こびとが打ち上げた小さなボール』(河出書房新社)、パク・ミンギュ『カステラ』(共訳、クレイン)ほか多数。
〇シリーズ「あいだで考える」
頭木弘樹『自分疲れ――ココロとカラダのあいだ』「はじめに」
戸谷洋志『SNSの哲学――リアルとオンラインのあいだ』「はじめに」
奈倉有里『ことばの白地図を歩く——翻訳と魔法のあいだ』「はじめに」
田中真知『風をとおすレッスン――人と人のあいだ』「はじめに」
坂上香『根っからの悪人っているの?――被害と加害のあいだ』「はじめに」
最首悟『能力で人を分けなくなる日――いのちと価値のあいだ』「はじめに」
栗田隆子『ハマれないまま、生きてます――こどもとおとなのあいだ』「はじめに」
いちむらみさこ『ホームレスでいること——見えるものと見えないもののあいだ』「はじめに」
創元社note「あいだで考える」マガジン