【シリーズ「あいだで考える」】田中真知『風をとおすレッスン――人と人のあいだ』の「はじめに」を公開します
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はじめに ——「つながり」をゆるめる
人間関係に悩むのは、ヒトという種の宿命かもしれない。
ヒトはひとりでは生きていけない。ウミガメの赤ちゃんのように、卵からかえったそのときから自力で生きていくというわけにはいかない。
ヒトは自然の中で生きていくには弱すぎる。キリンやウマの赤ちゃんは産まれてすぐに立ちあがるが、ヒトの赤ちゃんが立ちあがって歩けるようになるには1年くらいかかる。成長しても外敵から身を守るための牙や角もない。逃げようにも足は遅い。体毛もないので寒さにも弱いし、けがもしやすい。
そこで私たちの祖先は群れをつくった。もちろん、群れをつくる動物はほかにもいる。ヒトがちがっていたのは、言葉を発明し、仲間同士で密接なコミュニケーションをとって、互いに協力しあえる高度な社会をつくったことだ。
「おれが獲物を追いこむ。おまえは、あっちで待ち伏せしていろ」とか「このキノコには毒がある。食べてはいけない」など、情報を共有しあうことで、ヒトは自分たちの弱さを補いあい、さらに、それを強みに変えてきた。
人間という言葉は、人のあいだと書く。文字どおり、人と人のあいだをつなげることによって、ヒトは〈人間〉という社会的動物になった。そして、つながりのネットワークを拡大しつづけ、地球上でもっとも繁栄に成功した生き物になった。
だが、つながりを維持するために、人はたえず、自分のまわりの人たちとの関係に気をつかわなければならなくなった。自分を守ってくれる人たち、自分の属している集団と良好な関係を築くことは、自分の命にかかわった。嫌われて、そこから追い出されたら、生きのびられないからだ。
その記憶は、現代の私たちの心の中にも受け継がれている。
私たちの中には、自分のしたいことよりも、まわりが期待することをするほうがよいことだ、という思いがある。自分のしたいことをすると、「わがままだと思われないか」「嫌われやしないか」とやきもきしたりする。期待に応えられないと、自分を責めたりもする。 それは自己肯定感が低いせいではなく、過酷な世界を生きのびるために祖先から受け継いだ自然な反応だ。
きみは自由だ。他人の思惑なんて気にしなくていい。ありのままの自分でいい。自分らしくありなさい、などという言葉をよく耳にする。
けれども、「オレは自由に生きるぞ」といって、車で道路を逆走すれば事故に遭う。むしゃくしゃするからといって、他人を殴れば逮捕される。
「自由」も「ありのままの自分」も「自分らしさ」も、他者との関係なしにはありえない。「自分」とは他者とのつながりからできている。他者との関係が風とおしのよいとき、はじめて「ありのままの自分」や「自分らしい自分」でいられるのだ。
ところが、その風がなかなかとおらない。なぜだろう?
その理由の一つは、人と人が、つながりすぎたことにあるのではないか。
つながりたいというのは、人間の基本的な欲求だ。人はつながることによって、さまざまな困難を克服してきた。しかし、過剰なつながりは、かえって人を不自由にする。
現代では、家族、学校、会社などのリアルな人とのつながりにくわえて、インターネットやSNSなどがもたらすバーチャルなつながりが、人の内面世界に奥深く食いこんでいる。
会ったこともないSNS上の他人の言動にひどく傷ついたり、ネットで知った極端な思想に染まってしまったりするなど、つながりすぎることは、自分の心のあり方が、見えない他者によって決められてしまう危険をはらむ。深く食いこんだつながりに、思考や感情や行動までもが乗っとられてしまうのだ。
だが、つながりを断ち切れば自由になれるというわけではない。人とのつながりなしに自由はありえない。だいじなことは、「つながりにとらわれないこと」だ。そのためには、つながりを断ち切るのではなく、ゆるめることだ。
過剰なつながりが、自分をあやつり人形のようにコントロールしている。そのつながりの糸をゆるめてみる。すると、「自分はこうしたい」と思っていたことが、じつは自分と一体化していた他者が望んでいたことだったと気づくことがある。そして、あらためて、その他者の声に耳をかたむけるゆとりが生まれる。風がとおるのは、そんなときだ。
この本が、あなたとだれかのあいだに、そしてあなた自身の中に風をとおすためのヒントになれば、うれしく思う。
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