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幼稚園の自分と1年4組のKくん-なんで私は、人の歩みや背負ってるものが気になるのか?②-

インタビュー記事だったり、ご自分で人生ヒストリーを書く際の伴走だったり。
これまでの歩みを聞いたり伝えたりするのが仕事になりつつある。

聞くのも伝えるのもすごく好きだし、聞きたい・知りたい、そして伝えたい。
それによって誰かが場に馴染んだり、場が和んだりしたら嬉しい。
何かに突き動かされたように、気づいたら自然とやってきた。

そもそもなぜ知りたい、伝えたいのか?
そして、場を和ませたいのか?

自分をさぐるシリーズ第2弾です(おおげさ(^^;)。

"とろい"子だった幼稚園時代に言われた、衝撃の言葉

2月生まれもあり、私はなんでものんびりしていた幼稚園児だった。
特にお弁当の時間は食べ終わらずに私だけお昼休みの外遊びに行けないのがしょっちゅう。

当時、母に言われたのか、自分のポリシーだったのか忘れたが、おかずは残してもご飯だけは食べきる=ご飯終了のルールだった。

でも、あまり食べることに興味がなく、そしていろんな人やものを観察するのが好きな私は、よそ見したりぼーっとしたりでなかなか食べ終われなかった。

そんな時にある同級生の女の子から言われたのが「食べるの遅いなら死んじゃえば」だった。

「食べるの遅いと死なないといけないの?え?」と言ってる意味がわからないとは思った。
でもさほどその時はショックを受けず、家で「○○ちゃんに食べるの遅いなら死んじゃえばって言われたよ~」くらいの軽いノリで事実の報告をした。
もちろん母や祖母は怒り心頭(今も母は思い出したら憤っているほど…)。こういうこと言ってはいけないし、怒る場面だったのかと知る。

自分ではその頃全般的にどう感じていたかというと、他の子より遅いこと、外遊びに行けない日があることをそれほど気にしていなかったと思う。

これは担任の先生と母のおかげだなと思う。

あとで読んだのだけど、なかなか食べ終わらない私をどう見守るか、連絡帳に先生と母のやりとりが度々書いてあった。そう心配されながらも、おぼろげな記憶で「体が小さいし、生まれたのも遅いし、ゆっくりでもいいんだ」と口頭で繰り返し言われていた。

そのおかげが卑屈になることはなかったと思う。
幼稚園だし、幼なじみでもあるいとこを含め他の友達はたくさんいたし、いじめにつながることもなかった。
ひとりぼっち感を感じることもほとんどなかった。

小学校へ入学、近くには帰りたいと泣くKくん

幼稚園の隣の小学校へ入って、私は毎日楽しくて仕方なかった。
これも担任の先生と、祖母のおかげ。
うまく学校や勉強が好きになるよう、ノセられていたし、休み時間も目一杯楽しんでいた。
少しずつ成長しできることも増え、幼稚園の頃の"とろい"自分は少しずつ消えてもいた。

そんな自分とは対象的に、近くの席のKくんは梅雨の時期も帰りたい、お母さんがいいと言っていた。雨の日は涙も流すくらい、帰りたがっていた。

Kくんのぬれた荷物を私やクラスメートが拭いて、励まし、それから授業が始まるみたいな日も何度かあった。先生はその度に、Kくんのことも私たちのこともほめてくれる。
Kくん、頑張って学校来てくれてありがとう、みんながお友達のことを大切に思ってくれて嬉しい。そんな言葉をかけてくれた。

だんだんとKくんも学校に慣れて、2学期からは泣くこともなく、活発な男子に変わっていった。

1年4組はそのまま先生も生徒も持ち上がって2年4組になり、2年間本当に楽しいクラスだった。
小さないざこざはもちろんあっただろうけど、誰かが困っていたら気にかける、一緒のクラスでいることを楽しんでる、そういう感覚。

得意は誰かの不得意-それでみんな丸くおさまる

勉強は苦手じゃなかったし、成長とともに"とろい"部分は減ってきたけれど、小1の持久走は遅かった。確か、学年の女子64人中62番。歩いてた?と思うくらいの遅さだったんじゃないか。
そんな時、母や祖母は「人はみんな得意なこと、苦手なことがある。逆にさっちゃんが得意なことは誰かは苦手かもしれない。だからみんな活躍できる場があるんだよ。」と言ってくれた。

体育が得意な子がいる。図工が得意な子がいる。音楽が得意な子がいる。
オールマイティーな子もいれば、できる・できないがはっきりしてる子もいる。

それでいいんだ。困ったら補え合うから成り立つのが社会。

そういうものなんだと刷り込まれてきた。

ちなみに。
祖母は元教師で、計算や字を書く、手紙を書く、人に感じよくするのはものすごく得意だったが、料理や漬物など手仕事系はからっきし。姑(祖父の母)、義妹(祖父の妹)、近所の友達がいつも助けてくれていた。
存命の大おば(祖父の妹)にも、いまだに「姉さんは手先は本当にからきしダメだったけど、優しい、本当にいい姉さんだったよ」と言われるくらい。

中学でひとりぼっちの危機

中学は受験したこともあり、最初とても大変だった。小学校から持ち上がってすでに人間関係ができあがっている中へ放り込まれた。
わずか数人の知り合いも別なクラスに。

部活も含め学校生活を謳歌しまくった小学校と違って、全然楽しくない。居場所がない。

どうしたらここで楽しめるの?
普通の中学に行けば良かった。
でも、今さら変えられない。

最初の休み時間は、ひたすら観察する日々。

この子とこの子の関係は?なんだか上下関係があるの?
こちらの子はこういうのが好きなのね。
あ、部活一緒の子だ!

人間観察をしながら、クラスで少しずつ話しかけてみて、部活で知り合いを増やし、学校行事の係の集まりには積極的に参加して少しずつ馴染んでいった。

お手本は祖母

母が働いていたのもあり、いつも祖母と一緒だった。買い物でも近所へお使いでも、お客さんが来た時のお茶出しでも。

どう人と話すか、関係を作っていくか、コミュニケーションのお手本。

祖母は縁もゆかりもない、祖父以外知らない土地へ嫁にきた。
当時日本領だった台湾=南国育ちの祖母が、好きだった教師の仕事も辞め、気候も習慣も違う茨城に馴染むのは大変だっただろう。

祖父の商売を手伝いながら、お客さんや親戚やまわりの人と長い時間をかけてつながりを作り、居場所を作ってきた祖母。

贔屓目もあるかもしれないが、コミュニケーションを取るのが本当に上手かったと思う。頼り頼られ生きてきた世代でもある。

例えば、日本語があまり上手ではない近所のドイツ人の先生(身振り手振りとわずかな日本語でも心が通いあっていた)や、自分のことを語らず敬遠されがちな人、そして私の中学の友人とも私に忘れ物を届けた短い時間で、いつの間に仲良くなっていた。

何をどうするとか、うまく説明できないけど私のコミュニケーションは自然と祖母のようになっている。
祖母ほど全然熟練してないけど。
亡くなってまもなく25年になるのに、染み付いているもんだなぁと感じる。

ひとりぼっちにしないよ。あなたの人柄が伝わったらいいな。そしてせっかくのご縁、楽しく過ごせたら嬉しい。

改めて考えると、この気持ちは、1年4組にいた経験とも、その前のひとりぼっちにならずに済んだ幼稚園時代、いつも気にかけてくれたあたたかい担任の先生の記憶ともつながっている気がする。

中学の時の体験も。
祖母がほぼ育ててくれたことも。

自分のこれまでを振り返ってみたらつかめたもの-大丈夫、安心してほしい!

「ひとりぼっちにしたくない」という、無意識にずっと持ってきた想いをつかんだところからスタートして、行き着くのは「大丈夫だよ、安心して」って言える存在でありたいという気持ちだった。

私はそのために、聞きたい・知りたい・伝えたい。

あなたにも、大切な経験と想い、ありませんか?

今回掘り下げてみて、経験を思い返してみて。
何かに駆り立てられるように動いてる人の、想いをもっとすくいとっていけたらなぁと思う。

これまでのようなインタビュー記事なのか、新しいサービスとしてなのか、ただ今考え中です^^

今のところ、知り合い以外は女性のみ対象の予定。

どんなものができるのか、どんな形でできるか、自分でも楽しみ。



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