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【科学者#068】働きながら独学で勉強した昆虫の行動研究の先駆者【ジャン・アンリ・ファーブル】

小学校の図書室で読むことができる科学系の作品の中でも、特に有名なのが『昆虫記』だと思います。

読んだことがない人でも、一度はこの名前を聞いたことはあるのではないでしょうか。

この昆虫記を書いた作家は、学校教師でもあり、さらに教科書作家としても業績を残しています。

今回は、働きながら独学で勉強した昆虫の行動研究の先駆者であるジャン・アンリ・ファーブルを紹介します。


ジャン・アンリ・ファーブル

ファーブル

名前:ジャン=アンリ・カジミール・ファーブル
   
(Jean-Henri Casimir Fabre)
出身:フランス
職業:博物学者
生誕:1823年12月21日
没年:1915年10月11日(91歳)



業績について

ファーブルは、若い時から観察していた昆虫の習性や、自分の研究のについてをまとめて、1878年に昆虫記の第1巻を出版します。

ファーブル

ファーブルは研究論文のような難しい言葉を使わずに、読み物的な語り口と、擬人化した表現を多く使ったので、昆虫記は一般的な読み物として評価が高くなります。

そんなファーブルの昆虫記は、実はノーベル賞候補に上がったことがことがあります。

昆虫記の内容は科学的に重要度が高かったのですが、この時は文学賞として名前があがります。

ちなみに昆虫記の内容は、ハチ類と糞虫(ふんちゅう)に関するものが多く、昆虫の他にもサソリやクモなどについても取り上げられています。



生涯について

ファーブルの家庭は豊かではなかったので、3歳の時に親元を離れ山村にある自作農の祖父母のもとに預けられます。

そして7歳の時には、呼び戻され両親と弟のフレデリックの4人で暮らしだします。

10歳の時にはロデーズに引っ越し、父親はカフェを開業するのですが、1年でつぶれてしまいます。

この時期のファーブルは、王立中学校の礼拝堂で司祭のミサを手助けすることを条件に学費が免除され中学校に通うことが出来ていました。

その後は各地を転々としながらカフェを開いては失敗を重ねる生活をします。

14歳の時には父の仕事が失敗し、ファーブルは学校を中退しなければ行けなくなります。

その後父親は定職には就かずに様々な手伝い仕事を転々とするのですが、ファーブルが15歳の時には一家は離散状態になったので肉体労働をしながら独学で勉強を続けます。

1840年には、アヴィニョンに滞在中に師範学校で入試試験を受け首位で合格し、3年後には首席で卒業します。

1842年には小学校上級教員免状を取得し、その後は独学で数学と物理学、化学を習得します。

この頃に、カルパントラのビクトル・ユーゴー学院で数学と物理学の教師になります。

1844年の21歳の時には、2歳年上の同じ学院の教師であるマリー・セザリーヌ・ヴィアーヌと結婚するのですが、両親には激しく反対されます。

その後はコルシカ島の大学に進み数学の研究を行います。

1853年から1871年にはアヴィニョンのリセ(後期中等教育機関)で物理化学の教師を務め、1855年には博物学の博士号を取得します。

1856年には、レオン・デュフール(1780年4月10日~1865年4月18日)と文通をはじめるのですが、この文通はデュフールが亡くなる1865年まで続けられ、お互い深く尊敬しあう間柄になります。

レオン・デュフール

1857年には、物理学、化学、宇宙形状学、文学などの研究を行います。

1865年6月には、第35回で紹介したルイ・パスツールが蚕に関する病気について意見聞きにファーブルのところを訪ねてきます。

さらにこの頃に、教師の勤務評定のために来校した視学官のビクトル・デュルイ(1811年9月10日~1894年11月25日)を迎え、お互い好意的な印象を得ます。

ビクトル・デュルイ

1866年には、教職以外にアヴィニョン市立自然史博物館の館長になります。

1867年には、レジオンドヌール勲章のシュヴァリエを授与され、ナポレオン3世の家庭教師として推薦されるのですが辞退してしまいます。

1867年8月10日には教育の無償化のための法律が発布され、1869年頃にはデュルイがファーブルに誰でも受講できる夜間学級の開設を依頼し、この夜間学級は大成功します。

1869年にはデュルイの発案するフランスの教育の民主化が激しい批判にあいデュルイは辞職に追い込まれます。

これにより、ファーブルが行った新しい教育が、パリの高等師範学校から秩序を破壊するものとして批判され、ファーブルは学校から追い出されてしまいます。

そのため、教職を失ったファーブルは、ジョン・スチュアート・ミルにより一時をしのぐためのお金3000フランを貸してもらい、青少年のための昆虫学や総合教育の本を書きます。

ジョン・スチュアート・ミル

このシリーズは科学的で、さらに文学的でもあったため多くの人に読まれ成功をします。

1873年には博物館を退職し、自分の敷地内に小さな植物園をつくります。

友人たちは、よくファーブルの家に立ち寄り、珍しい植物を持ってきてくれました。

1879年3月の56歳の時にはセリニャンに引っ越し、亡くなるまでの36年間裏庭を中心として昆虫の研究に没頭します。

1885年の62歳の時には、妻のマリーを病気で失うのですが、1887年の64歳の時に23歳の村の娘で家政婦だったジョセフィーヌ・ドーテルと再婚し3人の子どもが出来ます。

しかし、この2人の結婚は村人からはあまり祝福されませんでした。

1910年には、フランス大統領により年間2000フランの年金が授与されます。

そして1915年10月11日の91歳の時に老衰と尿毒症のため亡くなってしまいます。


ファーブルという科学者

ファーブルの両親はあまり裕福ではなかったため、両親から離れて生活したり、学校に満足に通うことが出来なかったりと幼少期から苦労が多い生活を送っていました。

その後働きながら独学で勉強し師範学校へ行き、教師として働きながらも勉強をし続けました。

ファーブルは博物学者、教科書作家、学校教師、詩人など様々な肩書きがあり、様々な分野で業績を残してくれました。

そして晩年は、村に引っ越し昆虫を中心に研究を行いました。

今回は、働きながら独学で勉強した昆虫の行動研究の先駆者であるジャン・アンリ・ファーブルを紹介しました。

この記事でファーブルについて興味を持っていただけると嬉しく思います。

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