見出し画像

【科学者#072】300以上の数学的著作を残した自国に認められなかった科学者【シメオン・ドニ・ポアソン】

重要な業績を残しても、自分の生まれた国で評価されなかった科学者は何人かいます。

例えば、第42回目で紹介したゲオルク・オームもそのひとりになります。

オームはドイツに誕生し高校教師をしながら研究をするのですが、ドイツでは評価されず、はじめは国外で評価されていきます。

このオームのように自国では認められずに、国外で評価された科学者がいます。

今回は、300以上の数学的著作を残した自国に認められなかった科学者であるシメオン・ドニ・ポアソンを紹介します。


シメオン・ドニ・ポアソン


名前:シメオン・ドニ・ポアソン(Siméon Denis Poisson)
出身:フランス王国
職業:数学者、地理学者、物理学者
生誕:1781年6月21日
没年:1840年4月25日(58歳)

業績について

ポアソンは、

ポアソン分布
ポアソン比
ポアソンの法則
ポアソン過程
ポアソン方程式
ポアソン括弧

のように自分の名前が付いている法則などをいくつか残しているのですが、今回はポアソン分布について紹介したいと思います。

ポアソン分布は、統計学や確率論で用いられるもので、ある事象が一定の時間内に発生する回数を表す離散確率分布になります。

ちなみに離散分布というのは、個数、有無、正誤など連続ではない値や状態をはかるときに用いられるものです。

離散分布以外のものとしては連続分布と呼ばれるものがあり、こちらは重さ、長さ、強さなどの量をはかるときに使われます。

ポアソン分布は、現在ではまれにしか起きないような出来事の発生確率や回数をあらわしたい時に使われる分布です。

例えば、ある場所での交通事故にあう人数などをあらわしたときに使われています。


生涯について

ポアソンの父親は軍人で、軍上層部の貴族たちからは差別を受けており、引退後は下位の行政職に任命されます。

ポアソンの子どもの頃は健康状態が悪く、父親が読み書きを教えていました。

1789年7月14日にはフランス革命が起き、このとき父親は革命側を指示します。

その後外科医だった叔父のところにポアソンを外科医見習いとして送り出します。

しかし、ポアソンは不器用だったため繊細な動きが完全に習得できなかったことと、医療関係に全く関心がなかったことで、自分が外科医に向いていないと気付き帰ってきます。

そのため、父親は1796年にフォンテーヌブローというところにポアソンを送ります。

そこでは、数学の能力が開花し、周りの人たちはエコール・ポリテクニークへの入学を勧めます。

そして1798年に、エコール・ポリテクニークで数学を勉強し始めるのですが、はじめは初期教育が十分ではなかったためで大変でした。

しかし、勤勉に取り組んでいき、さらに才能を開花させていくのですが、やはり不器用だったため数学的な図を描くのは苦手でした。

そのため、第39回で紹介したピエール=シモン・ラプラスや第29回で紹介したジョゼフ=ルイ・ラグランジュがポアソンをサポートしてくれました。

さらにこの頃には、演劇や社交活動を楽しむ余裕も出てきて、充実な日々を送りました。

1800年には卒業し、ラプラスの推薦によりエコール・ポリテクニークの職に就くことになります。

1802年には第46回で紹介したジョゼフ・フーリエの後任としてエコール工科大学の副教授に任命されます。

1804年には、エコールの学生たちがナポレオンの考えに対して攻撃しようとしたとき、ポアソンは大学に損害を与えると考えたため学生たちを辞めるように説得します。

1806年にはエコール工科大学の教授に任命され、1808年には経度局の天文学者になります。

1809年には新たに開設された科学学部の力学長に任命され、1812年には研究所の物理学部門に選出されます。

1815年にはエコール・ミリテールの試験官になり、この年には熱に関する著作を発表します。

しかしフーリエは「ポアソンは才能がありすぎて、それを他人の作品に応用できません」と言い、ポアソンに対して批判してきます。

1816年にはエコール・ポリテクニークの最終試験の試験官になります。

1817年には、ナンシー・ド・バルディと結婚するのですが、家庭生活のプレッシャーからさらに仕事を引き受けるようになります。


ポアソンという科学者

ポアソンは生涯で300以上の数学的著作を出版するのですが、フランスの数学者からは高く評価されませんでした。

しかし、外国の数学者たちからは評価され、1818年にはロンドン王立協会のフェローに選出され、1832年にはコプリ・メダルが送られます。

小さい頃は健康状態が悪く初等教育を受けられなかったポアソンは、学校に通うことにより数学の能力が開花し300以上の著作を残したのですが、自国のフランスには評価されませんでした。

今回は、300以上の数学的著作を残した自国に認められなかった科学者であるシメオン・ドニ・ポアソンを紹介しました。

この記事で、少しでもポアソンについて興味を持っていただけると嬉しく思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?