【科学者#001】肉眼での高精度の天体観測をした男は、ぶどう酒の飲み過ぎで命を落とす⁉【ティコ・ブラーエ】
望遠鏡が発明される前、天体観測は肉眼で行われていました。
多くの星を長い時間観測し、ひとつひとつ紙にかいていく作業は、考えただけでも気が遠くなる作業です。
そんな、星を観測し続けた男の最後は、意外なものでした。
ティコ・ブラーエ
名前:ティコ・ブラーエ
出身:デンマーク
職業:天文学者 占星術師 錬金術師
生誕:1546年12月14日
没年:1601年10月24日(54歳)
研究内容
天体観測
望遠鏡は1608年オランダの眼鏡職人のリッペルスハイが考えだしました。
これは、ティコ・ブラーエが亡くなった後なので、望遠鏡の天体観測がはじまるまでは彼の観測が一番精度が良かったです。
さらに、観測精度を高めるために、観測器具(六分儀など)をより良くしたりもしました。
ティコ体系
「地球・太陽中心」のモデルを作る。
太陽と月が地球の周りをまわり、同時に惑星が太陽をの周りをまわるというモデル。
医学
ティコの薬草園を使って薬を作り、病気の治療を行った。
薬は1900年代まで使用されていたので、少なくとも300年以上は使用されていた。
性格
自信家、横柄、尊大(態度がデカく、威張っている)な人物
彼の周りには『口うるさい助手』『ご機嫌を伺ってくるもの』『遠い親類』『居候』がいて絶えず飲めや歌えやの大騒ぎをしていた。
簡単な年表
小さい時、子供がいない貴族で金持ちの叔父の養子になる
【様々な大学を遊学する】
1562年(13歳) コペンハーゲン大学(哲学などを学ぶ)
1559年(16歳) 神聖ローマ帝国 ライプチヒ大学法学部
(数学、天文学も学ぶ)
その後ヴィッテンベルク大学、ロストック大学で学ぶ
1572年 カシオペアに超新星(通称ティコの新星)を発見
1573年(27歳)百姓の娘と恋に落ちる
⇒親戚に反対されるが、最終的には9人の子を設ける
1575年(29歳)デンマーク国王フレゼリク2世がベーン島にティコのため国費で天文台を設立
1588年 フレゼリク2世が亡くなる
⇒予算を切られる
⇒宮廷がごたごたする
⇒秘薬を作りぼろ儲けをする
その後神聖ローマ帝国に亡命する
1600年(53歳)ケプラーを助手に雇う
1601年 ケプラーを雇ってから1年半後に病死
⇒ケプラーに観測記録を託す
鼻がそぎ落とされる⁉
大学遊学中の話で、ある日ティコが数学の知識をひけらかしていました。
そのことが気に障ったらしく、ある学生と決闘することとなり、結果ティコが負け鼻をそぎ落されてしまいます。
そのため、ティコは金と銀をまぜて作ったパテや真鍮で作ったとされる模造の鼻をつけていた。
迷信家だった
レップという重度の精神障害の少年を身近に置き、食事のときに飼い犬のような格好で足元に寝そべる少年に、自分の手から食事を与えていた。
そして、彼の発する声を未来を予言するものとして書き留めておいた。
死因
1601年にローゼンベルク男爵の食事会に出席しました。
そこで、ぶどう酒をたくさん飲み過ぎたのですが、相手が格上の人だったのでトイレに立つのは失礼にあたると思いトイレを我慢します。
そして、我慢のし過ぎで膀胱炎になりました。
その後、ティコは飲食の制限を全て拒否したことで病状が悪化し、死に至ってしまいます。
最後にティコが残した言葉は
『私の生涯がムダに終わったと思われないように……』
でした。
ティコ・ブラーエという科学者
ティコは素晴らしい肉眼での観測技術を持っていましたが、その観測データを使う能力がなかったと言われています。
つまり、幾何学などの数学ができなったんです。
そのデータをうまく使い歴史的発見をしたのが、ヨハネス・ケプラーになります。
ティコの遺言だった『私の生涯がムダに終わったよ思われないように……』という願いは、ケプラーによって叶えられたと言っても過言ではないと思います。
ケプラーがいなければティコの願いは叶えられず、ティコがいなければケプラーの大発見はありませんでした。
しかし、ティコはケプラーほどは有名ではないのは少々寂しい気がします。
ティコは貴族だったのでお金関係には困ったことがほぼないのですが、ケプラーは反対にお金には大変苦労しました。
そんなティコとケプラーの対比も魅力のひとつです。
少々……、いや、かなり性格にに難があるティコですが、とても貴族らしい貴族と言えるのかもしれません。
星を見上げ続け、数々の記録を高精度で残してくれたティコによって、現代の天文学の発展があると思うと、絶対に外せない科学者のひとりです。
そんな現代天文学をつくった科学者であるティコ・ブラーエを今回は紹介しました。
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