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「さ、入って」
部屋の壁に無造作に貼られた見たことのない文字のメモ達、何処かの国の言語なのだろう。上にルビがふられている。陽菜は流し目にそれを見つめた。
まゆはガラステーブルの上に置いてある大小様々な小物を片付けている。香草の様な香りが部屋からほのかに漂った。
初めて訪れた隣人の部屋は、同じ間取りにも関わらず陽菜とは全くの別世界だった。云わば隣国の民家を訪れている様な心持だ。
かかとを使って靴を脱ぐと、陽菜はまゆの部屋へ踏み入れる。慎重な様は貰いたての子猫のようだった。
「おじゃまします」
玄関から入ってすぐの台所の隅には樽の様な紙袋が置いてあり、シンクのそばには大量のスパイスの瓶がガラスケースに並べられている。
タケノコをひっくり返した様な形のランプシェードが天井から下がっており、動物と人を混ぜた様なデザインのポストカードが幾枚か目に入った。
「ガネーシャだよ。」
まゆがテーブルにグラスを置くと一言こぼした。陽菜はその極彩色の像を見つめながら部屋の座布団に腰を下ろす。
「これって、神様ですか」
ずっと見ていると吸い込まれそうな程、実に繊細にそれは描かれていた。
「そう、ヒンドゥー教の神。ご利益あるんだって。大学でアジアの宗教調べてて知ったんだ。学問の神だとか書いてあったかも」
まゆは陽菜の背後にしゃがみ込みながら言った。間近で見るまゆの耳には幾つかピアスの跡の様なものが見えた。
「元々は病気とか悪い系の神だったんだけど、極まり過ぎて今度はそういう悪いのを取り払う神になったらしいよ」
「まゆさんて、大学生だったんですね。」
話に少し置いてけぼりになっていた陽菜は時間を戻す形で尋ねた。
「ん、意外だった?東北大。国際文化について学んでる。」
陽菜の質問に答えながらまゆは台所へ向かった。
部屋から漂う香りと不思議な形の照明を陽菜は理解する。昼間なのにカーテンを閉じているまゆの部屋は薄暗かった。
一見、物が散乱しているように見えた部屋もよく見ると規則的な配置であって、棚の上に置かれた小指程の銅像も、丁寧に手入れされていた。
殺風景な自分の部屋よりも凝縮された世界、それは惰性で寄せ集めただけでなく洗練されていて、なんだか陽菜は少し虚しくなった。
こういう些細な物事に対して、相手と自分を比べてしまう性格も、陽菜は自身を疲れさせる原因だと気付いていたが、止められずにいた。
ハリケーンは一つの町を飲み込み、渦の中で不要なものを吐き出し去っていく。陽菜は白樺の様なまゆの背中を見つめた。
「うちさ、今ネパールについて調べてんだ」
手元で小気味良い音を立てながらまゆは料理の支度を始めている。
あらかじめ下準備をしていたのか手際の良さが目を引く。初めてまゆを見た時の強引な態度からは想像ができない様子に陽菜は感心した。
仙台は5月になり、少し暖かくなってきたがまだ時折寒さを感じる時がある。まゆはそんな事をおかまいなしとばかりに少し頼りない薄着姿だった。
力づくで引きちぎったように繊維が垂れたスウェットの半ズボン。よく見るとまゆの足首には走り書きの文字の様な物が刻まれていた。
「ネパールって、どんな国なんですか」
グラスの水に手をつけながら陽菜は聞いた。
「うちもまだ調べ始めたばっかだから受け売りみたいな事しか知らないけど、あっちの人は菜食が多いらしいね」
「肉を食べないんですか」
「ヒンドゥー教は牛を神って考えてるんだ。肉は食べるけど、牛以外だね。」
「ふぅん」
陽菜はその話しを聴きながら、肉を入れない水無月コウタロウのベジカレーは、じゃあネパール風なのかなと考える。
クボには否定されてしまったカレー、のようなもの。は、ネパールの人には食べてもらえそうだ。
「実際に見たことはないんだけどね、牛が道路で寝てると車とかバイクは皆避けて通るんだって」
「誰かどかしたりとかしないんですか」
「しないよ。ネパールの人達は牛をどかすくらいなら反対車線にも飛び出すし、まぁホントかどうかはしらんけど。」
そこまで話してから、まゆは小さく(よし)と呟くとガラステーブルに手料理を運んできた。
陽菜の目の前に置かれたプレートには中身の異なる小鉢が幾つかと、少し粒が長い米のご飯が盛られていた。
小鉢の中にはスパイスの香りからしてカレーの様なものと、野菜類が盛られている。明らかに異国の料理だった。
「まゆさん、これって」
「これはネパールの家庭料理だよ。ダルバート、だったかな」
まゆはモスグリーンの襟足を指先でいじりながら答えた。
「カレーですよね」
陽菜は小鉢に入れられている黄色い液体を指差す。
「これはダル。カレーに見えるけど、豆のスープなんだよ。ダルがスープで、ご飯がバート。だからダルバート。」
まゆは陽菜の小鉢を持つと軽く揺すって見せた。カレーの様な粘度が無いダルは見たとおりのスープだった。
ダルの小鉢を置いたまゆは、隣に置かれた野菜を指差す。
「名前は忘れたけどこれは青野菜を炒めたやつで、その隣のこれは漬物。」
料理に説明を添えたまゆは、これをこうやってと呟くと片手をダルのスープに突っ込んだ。
突然のことに少し陽菜は驚いたが、まゆの動作をそのまま目で追った。
ダルを指先で掬うと、バートと呼んだご飯の上にかけた後、指先でそれらを一口大にまとめたまゆは器用に口の中へ放り込んだ。
「ん、うま。陽菜ちゃんもやってみ」やり方は体で覚えろとでも言うように一通りの仕草をした後でまゆは言った。
えぇ。。と小さくこぼした陽菜は先程のまゆの動きを思い出しながらゆっくりとダルの中へ指を入れた。
「あつッ」見た目には分からなかったがそれなりに暖められていたスープの熱に驚いた陽菜は指を引っ込める。
「あはは。結構あついって言ってなかったね。ごめん」まゆは上手にご飯とスープを混ぜて口に運びながら笑った。
陽菜は少しむっとしながらもうまく食べられないのも癪だったので、今度こそはともう一度動作を早くしてスープを掬うとご飯に投げ掛けた。
「そうそう、あとはそれを指先に乗せて、親指で口に押し込む」指先、、親指、、一つ一つを確認しながら陽菜はなんとか口にダルバートを押し込んだ。
「おいしい。まゆさん、これおいしいです」陽菜が思っていたよりもダルの味はまろやかでいて、なんとなく体に良さそうだなと感じた。
「でしょ。その野菜とかも一緒に混ぜてたべてみ」まゆは野菜炒めと漬物をダルバートに混ぜながら言った。
最初は手で食べる事に躊躇していた陽菜だったが美味しい料理は徐々にそういった迷いをどうでもいいことにしていった。
まゆの作ったダルバートが美味しいことは間違いなかったが、この部屋でだからこそ迷い無く手で食事ができるのだろうと陽菜は感じた。
自分の住む部屋でまったく同じ料理がテーブルに運ばれてきても、スプーンや箸を用意する自分の姿が容易に想像できたからだ。
目の前のまゆを見ると、もうまゆのダルバートは殆ど無くなっていていた。
「わたし、こういう風に人の家に来たの初めてなんです」
「んー」まゆはダルバートの最後のひとつまみを口に放り込んだ。
「しかも、初めて手で料理を食べました。なんか、子供みたい」
「ネパールとかインドじゃ普通だし、子供みたいってのは失礼だよ」
「ん、そうですね。でも、こういうの新鮮でした。」
「陽菜ちゃんが満足してくれたならよかった。」
「まゆさん、なんで食事に誘ってくれたんですか。そんな大量に作ったようには見えないし」
陽菜はきっちり二人分の料理を提供してくれたまゆに言った。
「陽菜ちゃんさ、人付き合いあんましないっしょ」
まゆの言っていることは正しかった、正しかったがなんだかそれをそうですねという自分も陽菜はいやだった。
図星だろうと言わんばかりに陽菜の顔をちらと見て微笑むと、まゆは続けた。
「うちさ、さっき陽菜ちゃんの部屋に行った時にクミンの香りがしたのに気付いたんだよね。」
そういえば、と陽菜は作り置きしたベジカレーの余りが台所にあったことを思い出した。
「なんかそこで陽菜ちゃんとダルバート一緒に食べたいなって思っちゃったの。瞬間的に。」
まゆは自分の分のプレートを持って立ち上がると台所へ向かった。
「ネパールではね、誰かを家に呼んだらダルバート食べるってのがおもてなしなんだって」
陽菜はまゆの言葉を黙って聞きながら残りのダルバートを指先であつめると、野菜と一緒に口に放り込んだ。
「類はなんとかってことわざあるじゃん?スパイスの香りするとさ、なんか仲良くなれんじゃないかなーみたいな。」
「そんなに部屋から匂い、しましたか」
「ネパールのこと調べたり料理とか作って食べてるうちに、なんとなく分かるようになったんだよね」
陽菜はそんなことあるのかなと思ったが、まゆの後姿を見ながらこの人ならそんなこともありえるかもなと考えた。
まゆのモスグリーンの襟足や、足首のタトゥーを観ているとなんだか色々な物事が不思議と納得させられてしまうのだ。
そう考えると最初はとっつきにくいと感じていたまゆに対して陽菜はぽつぽつと興味が沸くようになっていた。
「まゆさんて、大学出たらどうするんですか」食べ終えたプレートを持つと陽菜はまゆの隣へ向かった。
「んー社長になりたいかな。社長さん。」テレビのヒーローを夢に観る子供の様な発言に陽菜は少し戸惑った。
それは別段おかしな夢や目標ではないのだが、余りに真っ直ぐで漠然としている故に滑稽に感じてしまったのだ。
「なんかさ、社長ってかっこいいじゃん。うち誰かにどうこうとか言われたくないしね。我が道をゆく。的な。」
まゆの顔には将来に対し純粋に胸を弾ませているというのが笑顔となってきらきらと溢れていた。
「陽菜ちゃんは。なんか夢とかあんの。」先に自分のプレートを洗い終えたまゆは陽菜の持っていた小鉢を奪って洗い出した。
「わたし、、わたしは今、物語を書いてるんです。」
「ものがたり?なにそれ漫画とか?」
「いや、小説、かな。」
「へぇ、すごいじゃん。うちはそういうの苦手」
話し半分な口ぶりでまゆは無表情のまま答えた
「でも、書きたいことがまとまってなくて。手探りの毎日です。」
陽菜は部屋に置いてある自分のノート、その中の書きかけの1ページの文末をふと想った。
「少し前に駅前のアーケードで歌ってる人を見たんですけど、その日になんか閃いちゃって。」
「あーうちもたまにあるかも。急になんか分かっちゃう感じ。」
「だけど、やっぱりただの勘違いだったのかなって。」
「陽菜ちゃんさあ、そんな時は新しい事やってみなって。」
「あたらしいこと、ですか。」
洗い物を終えたまゆは食器をラックに収めると隣の陽菜に向き直った。まゆの身長の高さが際立つ。
「今週末、青葉祭りあんじゃん、一緒に行こうよ。」
そういうとまゆは陽菜の手を両手で包むように握り、ね。と微笑んだ。
青葉祭りとは大昔仙台を統治していた武将の命日が近づくと開催される初夏を代表する大きなイベントだ。
繰り返しになるが陽菜は山形を出てから根っからの出不精と人混み嫌いも相まって、この手の行事などには全く興味が無い。
まゆの口からその祭りの名前が出たとき、そんな時期かと感じるのと同時にそんな祭りあったっけ。と考えるのだった。
山形から仙台に向かう列車の中で仙台の事を軽く調べていた時に、少しだけそんな様なお祭りの動画を見たような曖昧な記憶が蘇る。
なににせよ陽菜にとってはその青葉祭りというのはやっているのかどうかも不確かな現実味のない存在だった。
そして、そんな自身の性格の事をまゆに見抜かれてしまって、陽菜は目をそらして少したじろいでしまう。
「あの、バイトのこともあるので」
「そんなんバックれだよ、時は金なり。」狛犬の様な顔が真っ当そうに言った。
「えっ、だってそれは、ダメですよ。クボさんと店長に迷惑が」
「あーなんかめんどくさいなあ。じゃあうちがその人に話そうか」
まゆが巻き起こした嵐が危険区域を広げる前に陽菜は収束させなければならなかった。
犠牲になるのは自分だけで充分だと思う。
「それは大丈夫です。わかりました。じゃあ明日またお返事します」
「そっか。うちが話せばソッコー決まるけどね」
陽菜は確かにそれはそうだろうと納得したが、それだけは絶対にだめだ。改めてまゆの豪腕ぶりに注意しなければと陽菜は思う。外は日が傾き始めていた。
「ごめん、陽菜ちゃん。そろそろ彼氏が帰ってくるんだわ。」
まゆは部屋に置かれた長針と短針のみのモノトーンの時計をちらと見ると思い出したように言った。
「まゆさん、彼氏さんいたんですね」
まぁね。とこぼしながらまゆは冷蔵庫を開け、中をごそごそといじり始めた。
「陽菜ちゃんのこと、なーんも考えないで誘ったから夕飯用意するの忘れちゃってたわ」
そう言ってまゆは溜息混じりに鼻で笑った。この人は本当に後先を考えないのだろうか。陽菜には理解し難かった。
だがそれと同時に、そんなまゆを見ていると自分には無い何かを感じるという事実も陽菜は分かっていた。
アーケードで聴いた歌が今の自分をノートとペンに向かわせたのと同じようにこの人と過ごす時間が、何かに変わるのではないか。
今までずっと苦手で避けてきた物事に対して陽菜は少しだけ触れてみよう、近づいてみようと思い直していた。
実際のところ、それは果たして思うように上手く行くかは、自分の性格を考えたときに正直微妙な心持でもあった。
まゆは冷蔵庫の中を一通り見た後でシンクの下の収納スペースからカップ麺を取り出し、仕方ないと言う顔をしていた。
帰宅してカップラーメンを食べるまゆの彼氏さんを思うとなんだか少し陽菜は申し訳なくなった。
「それじゃ、わたしは失礼します。」
陽菜はそう言って玄関先の脱ぎ捨てた靴を揃えなおすと足を入れた。
「青葉祭り、よろしくね。」
「今日は、ごちそうさまでした。」
陽菜はドアノブに手をかけるとまゆに軽く頭を下げて部屋を出た。
と、まゆは突然その場を離れると壁に貼られたメモ用紙を一枚剥がすと裏面に何かを書き始めた。
片足を外に出したままその様子を伺っていた陽菜に、まゆは「はい」とその紙を手渡した。
「これ、うちの携帯番号。連絡して。」
陽菜はその紙をポケットに入れるとまゆの部屋を後にした。
部屋に戻り、ポケットの紙を取り出すと、まゆの書いた電話番号はあの日の手紙の様に1が7にも見える不思議な筆跡だった。
陽菜はその日の内にコラフへお休みをもらえないか電話をかけた。



自費出版の経費などを考えています。