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二週間後、中崎からのメッセージで地元新聞の朝刊の中に松島のGOISHIについての掲載がある事を知った陽菜は、普段買わない新聞の紙面を部屋で眺めていた。
コラフでのバイトから帰宅して中崎からそのメッセージを受けた時は既に夜も遅く、新聞はまだ残っているのかという不安を抱えながらコンビニに走ったところ、間一髪それらを撤去しようとしていたデビと店の前で鉢合わせた。
日本語能力試験や学校の授業でコンビニの夜勤を休んでいたデビとはしばらくぶりの再会ではあったが、彼は陽菜の顔をちゃんと覚えておりコンビニの制服の中に着込んでいたパーカーのフードを外しながら「オヒサシブリデス。コンバンワ」と微笑みながら挨拶をしてくれた。
彼の彼女であるまゆは、夏場あんなに陽菜にちょっかいを出してきたくせに、デビが試験を控えた秋から現在にかけては部屋で一緒に缶詰になっているようだった。意外に真面目なところがあるのがまゆさんらしいな、と思う反面、ぱったりと音沙汰が無くなったのが陽菜には少々寂しくも感じられた。
先週ゴミだしの時に偶然すれ違ったまゆの顔は寝不足のせいか少しやつれていたし、大学もちゃんと通っているのか分からない。
「デビが試験あるからさ」と呟くまゆに何か言葉をかけようと思ったが、余計な事をなにか言って噛み付かれても怖かったので陽菜は軽い相槌を打ってそそくさと部屋へ帰ったのだった。
改めて目の前で微笑むデビの顔を見て陽菜は挨拶を返す。
彼にとって、、ネパール人にとって日本の、仙台の冬というのはきっと、とても寒いだろうなと陽菜は漠然と思う。
着膨れなのか、それともまゆの料理の食べすぎで単に太ったのか心なしかデビの体は陽菜には冬仕様といわんばかりに膨れて見えた。
レジでデビに会計をしてもらう際、陽菜はレジ横に置かれたホットドリンクの棚から缶コーヒーと緑茶を手に取った。この時期はよく目にするホット飲料だが、ペットボトルの商品に比べて缶コーヒーはいささか温めが過ぎる気がする。
陽菜は缶の熱さを手にとってから驚き、図らずもデビの前に缶コーヒーを叩き付けてしまった。
あちっ、という陽菜の高い声と音に一瞬驚いたデビだったが、陽菜が片手をひらひらとさせている様子から相手に悪意が無いのをすぐに見て取ると「ダイジョブデスカ」と微笑んだ。
デビはカウンターの缶コーヒーを握って、僕は平気だよ。とばかりに陽菜に向けてジェスチャーをする。カウンターを挟んで二人に笑顔がこぼれた。

「べんきょう、しけん、がんばって、ください。これ、あげます。」
新聞と一緒に今しがたビニールに入れてもらった缶コーヒーを取り出すと、その強暴な熱が自分の手に伝わる前に陽菜はデビに向けさっと手渡した。
そう、素早くこなせば問題はないのだ。こういった事は躊躇しないで迷わず動けばなんとかなる。まゆの言葉を借りるなら世の中はいつもシンプルなのだ。
缶コーヒーを受け取ったデビは、まるで生まれてきた赤ん坊を抱きかかえるように両手で包みながら受け取ると胸の前に持っていき「アリガトゴザマス」とお辞儀をした。大統領でも目の前にしたようなあまりに深いお辞儀に陽菜はたじろいでしまう。
「あ、あの、デビさん、またね。」
店内にほかにお客は見当たらなかったが、なんだか変に思われるのが恥ずかしくなった陽菜は言葉を置き去りにするようにコンビニを飛び出したのだった。
そして今である。
外気にさらされてぬるくなった緑茶を飲みながら陽菜は新聞を開いた。
政治、外交、主に全国記事が中心となってはいるが、一面は地元で起こった事件事故、イベントなどのPRなどが掲載されていた。駅前の商業施設の持ち主がいなくなり来年取り壊しになる記事を一瞬目にする。
陽菜は新聞をめくりながらGOISHIの文字を探した。
その記事は新聞のほとんど最後にあたるページの隅にあった。
「今日のお店」とタイトルが打たれた記事はどうやら毎日日替わりで県内の有名な飲食店を紹介する欄らしかった。
毎日変わった店舗がこうして掲載されていても、載っている場所がこんな目立たない場所なのはちょっと勿体無いなぁと陽菜は思いつつ記事に目を向けた。
そこには店の主である呉石の簡単な経歴と、福浦島に店をだすまでの経緯や理由、そして彼の料理に対する考え方やサスティナブルな食材への配慮などが細々とした文字で綴られている。
あの日、地方紙の取材という理由で店に来ていたカメラマンが撮影していた写真は何故かほとんど使われておらず、小さく区切られた枠組みの中には店主である呉石が笑顔で佇むモノクロ写真が一枚掲載されているのみだった。
どういった経緯かは知りえないが依頼する側と撮影する側の認識の違いがあった事は明白だ。だとしたら、私の写真はいったいどうなるんだろう。。
陽菜は半ば強引に撮影された自分の写真の行方を憂いてから再び記事の写真に目を向ける。
この記事を見て、あの日仙台出身の作家、水無月コウタロウがこの場にいた事や、丸子ちゃんが巻き起こしたちょっとした騒動などを思い起こすのはあの場に居た自分を含む限られた人のみだと陽菜は回想する。
なんだか滑稽だけど本当に不思議な一日だった。
松島で劇的に再会し陽菜の家に泊まると言い出した丸子ちゃんは、予告どおり陽菜宅へ一泊し年上の彼の待つ東京へとさっさと帰っていった。
放し飼いにされた爬虫類達の一時保護やそれらに対する行政への報告や問題提起。人間の介在があるものの生物が相手故に「いつなんどき」といった予測なんてものは勿論つかめない。発見報告や保護依頼のメールや電話が昼夜を問わずかかってくる。
効率重視のデータ化する社会の中で、だからこそ丸子ちゃんは確実に自分の足で現場に赴き、自らの意思とは無関係に野に放たれた彼らを救出するのだ。
自分の目で見つめ、彼らに直接触れることで初めて何かを理解できるのかもしれない。
人間の様に痛みや苦しみを言葉という手段で伝える事ができない彼らの為に、丸子ちゃんは保護した彼らを抱きかかえる際に謝罪や労う様な言葉を代わりに話しかけるという事を話してくれた。果たしてそれに意味があるのかは分からないが、生物というかけがえのない存在に真っ直ぐに向き合っていく丸子ちゃんの姿勢や人間性に陽菜は強く心を打たれたのだった。
新聞を閉じるとテーブルの隅に置かれた丸子ちゃんの名刺を陽菜は手に取る。
「まる、、、遥華ちゃん。がんばってね。わたしも、なにかを見つける。」
執筆ノートを開いて取材メモの貼り付けてあるページに丸子ちゃんの名刺を貼り付けた。一緒に過ごした時間は短かったし次に会う予定も決めなかったけれど、丸子ちゃんとはきっとまた、いつか会える。
陽菜にはそんな気がしていた。



翌日、陽菜はコラフでのアルバイトの休憩を少し早めにいただいていた。
普段はお昼の営業を終えてからというのが常だったが、この日はお客の来店が少なかった為に店長に許されたのだ。
店内にはクボが相容れないと話していたナポリタン好きの男性、通称ゴエモンが中央席に鎮座しており、相も変わらず腕組みをしながら湯気の立ったナポリタンを前に難しい顔をしていた。
いつも同じ注文のみで食事の後はすぐに店を出る事も店長は知っていたので、早めの休憩を入れても問題ないと判断したのだろう。
陽菜は前掛けを外しカウンターを出る。腕組みをするゴエモンの席を横切っていつも座っている奥の座席に座ると早速執筆ノートを取り出した。
何回も出し入れしたこのノートは表紙が少し黒ずんでページの隅が捲れ上がっている。一ページ目の裏には取材記事のメモや切り抜きが貼られ、昨日貼り付けた丸子ちゃんの所属する団体の名刺、そして切り抜いてきた呉石の記事があった。
もう随分文字が擦れてしまったが、隣席のゴエモンにチェックされた店長のナポリタンの秘伝レシピもある。
「あれ。それって松島の有名店じゃないすか。」
いつの間にか背後に立っていたタチバナくんが大きな声をあげた。反射的に顔をしかめそうになった陽菜はぐっと表情筋に力を込めて笑みを作った。
「タチバナくん、この店知ってるの?」
言ってから陽菜は「しまった」と、後悔したがもう既に遅い。タチバナくんは聴いてくれますかぁとばかりに苦笑した表情をして溜息をついた。
「知ってるもなにも、、俺と露木さんが一緒に松島に行ったあの日あるじゃないすか。あの日マジで最悪だったんすよ。」
タチバナくんが話すには内容はこうだった。
あの日ファンである配信者、サメ肌のはっちゃんに直接会うために(タチバナくんは当たり前の様に話していたが、こういう行為の事を俗にリア凸-とつ-というらしい。)松島を散策していたタチバナくんだったが、はっちゃんの配信が開始してからしばらくして用心の為とモバイルバッテリーをバッグから取り出そうとしたところ、立ち寄っていた出店の玉こんにゃくの屋台の鍋に誤って携帯電話を投げ入れてしまったらしかった。
結局、店の主人に叱られ携帯はお釈迦になって目的のはっちゃんの居場所も分からず泣く泣く仙台へ戻ってきたという散々な一日だったらしい。
その他関係のあるような関係のない話も色々とされたが陽菜の頭の中で要約するとザッとこんな感じだった。
そんなひどい目にあった彼の事をよそに、丸子ちゃんと一緒に電車に乗ったり部屋で一晩を過ごした事がなんだか申し訳なくなった陽菜は、タチバナくんが一生懸命話している隙に丸子ちゃんの名刺の貼られたページをそっと閉じた。
「まぁ、そんなこんなあったんですよ。携帯直した後で、はっちゃんの配信履歴観てたらコメント欄にそのゴイシって店にはっちゃんが降臨したって書いてあって。なんで、なんだか自分の中でその店はちょっと悪い思い出というか苦い思い出というか。はっちゃんに逢えなかったって形で印象にガッチリ残ってるんすよね。だからおぼえてたっつーか。」
タチバナくんはそう言うと溜息を一つついてまた苦笑した。
「そっか。残念だったね。。」
陽菜はタチバナくんの肩越しに向こうの席のゴエモンを見つめた。ちょうど何かしたらのタイミングが訪れたのだろう。陽菜が目を向けるのとほとんど同時にゴエモンは目の前のナポリタンに喰らいついた。
静かな店内にフォークと皿のぶつかり合う音が小さく響く。
初めてこの店で彼を見てからもう大分経つが、やはりいつ見ても豪快さの中に繊細な所作が見える。挙動が少し大袈裟に見えるだけで実際には殆ど体全体に力を込めてないのかもしれない。
数日前に丸子ちゃんと部屋で一緒に見た中国拳法の映画の主人公を陽菜はなんとなく思い出す。武術の中でも模範的な(形)などを容易く相手に見せない千鳥足。一見ふらふらとして奇怪に見えるが、そこから繰り出される打撃は真があり強靭だ。酔っ払って壁や物に倒れ掛かっているように見えてもそれが実のところ回避だったり打撃へ繋がる踏み込みだったりした。
丸子ちゃんはそんなフラフラとしながら戦う主人公を観てゲラゲラ笑っていたが、陽菜はそんな柔軟な戦い方をする主人公にちょっとした羨望の様な眼差しを送っていたのだ。
ゴエモンの動きに自然とその武術家の姿を重ねてしまったのは、陽菜の中で二人の共通する何かが引き合う引力のようなものが働いた為だろう。
「――――っすよね。まぁ、だから要するに想いあってるモン同士はいつか必ず逢える。俺はそう信じてるんす。だから露木さんも何か落ち込んでるなら大丈夫っすよ。止まない汗は無いっていいますから。元気出してください。」
なにかを話し続けていた立花君に肩を叩かれて陽菜は我に返る。
長年染み付いた汚れを落とす様な勢いの叩き方になんだか少しだけ自分の身長が縮んだような気分になった。
あれ、なんで私励まされてるんだ??私がタチバナくんの落ち込んだ話を聴かされていたのに、いや、むしろ聞いてあげたのになんか変だ。
想い合ってる同士はきっとまた逢えるって、それ、、この前私が丸子ちゃんに思った事と同じじゃん。。っていうか止まない汗ってなに。。
金色の頭髪を揺らしながら呑気に厨房に戻っていくタチバナくんの背中に向け、そういった疑問のカタマリを投げつける。
なんだかちょっと物足りない気もした陽菜は、先ほど思い出した武術家の真似をして両手で小さくとぐろを巻いたヘビの形を真似した。指先をヘビの口に見立てタチバナくんの稲穂の様な頭髪を目掛け牙を向けるのだ。
と、座席が勢いよく床をすべる音が聴こえ、音の方へ目を向けるとゴエモンがナポリタンを食べ終え店を出ようとしているところだった。
本当にあっという間だ。
クボさんはこの人の事が「相容れない」とか言ってたけど、私にはなんだか人間としての確固たる支柱の様なものを感じる。
コラフの出入り口をくぐって寒空の仙台へ出て行くゴエモンの背中。彼はきっとこれから青葉山の奥にひっそりと作られた鍛錬場に戻るんだ。そこで樹齢何百年とかいう大樹を背に自分を重ね、陽が沈むまで黙々と稽古するんだ。ケチャップが口元についている?くだらない!そう言わんとするような険しい顔をして。
入り口を抜けコラフの窓越しに歩き去るゴエモンの姿をぼーっと眺めながら陽菜の頭の中ではそんなサムライの凛とした妄想がむくむくと膨らんでいた。
ゴエモンが見えなくなったのと入れ替わりに再びドアベルが鳴る。
「あ、いらっしゃいませ。こんちわっす。今日はめっちゃ空いてるんでお好きな席どうぞ。コーヒーでいいすか。」
陽菜の視線の先に佇んでいたのはりさだった。入り口で出迎えたタチバナくんが何かもっと会話したそうに露骨にもじもじしている。
りさはタチバナくんに少し微笑んで軽く会釈すると、伏目がちにこちらに向かってくる。大きなギターケースを抱え、首にタオルをかけた彼女は冬も間近だというのにバンドロゴの眩しい薄手のティーシャツ姿をしている。インナーに長袖を着ているものの見ているこちらまで寒くなりそうだ。
陽菜の席まであと数メートルという所で顔をあげたりさは陽菜に気付いて微笑むと、よっと手をあげた。
何か音楽でも聴いていたのだろう、長い髪のせいで見えなかったイヤホンを外しながらりさは陽菜の向かいの席に腰掛けた。
ギターケースが置かれ、ゴトンという音と共にりさの足元でドクターマーチンの固い音が鳴る。耳から外されたイヤホンがテーブルに転がり、そこから信じられないボリュームのギターリフが聴こえてきた。(実際にはシャカシャカシャカシャカとしか陽菜には聴こえなかったが。)
「今日は先に席取られちゃったかぁ。」
りさのその言葉に陽菜はハッとする。そうだ、りささんもいつもこの奥の席に座るんだった。持ち前の忘れっぽさに加えゴエモンの妄想劇が後を押す形で陽菜はすっかりそれを遅れて気付かされた。
りさはポケットから煙草を取り出すと火をつける。
「あぁ、あの、す、すみません。大丈夫です、その、私、もう休憩あがるので。」
陽菜はそう言いながら慌てて開きっぱなしのノートとペンを片付け始めた。
席の隅に置かれた灰皿を引き寄せて、りさは煙草の灰を落とした。
ノートとペンケースを両手で抱きかかえて、丸テーブルに沿うように設置された楕円形の席を陽菜はお尻を使って出口まで移動した。
「そうそう、あれ、聴いてくれた?」
目の前の光景を気にも留めないといった冷めた表情でりさは黒いノートを広げながら言った。目的のページを探そうとしているのかページをぱらぱらと捲っている。
「あ、はい!聞かせてもらいましたっ!」
席から半分腰を浮かせていた陽菜はそう言いながら立ち上がった。
瞬間、中途半端にテーブルの下に置き去りだった片足が勢いよくぶつかり、丸テーブルが大きく揺れた。灰皿の横に置かれたりさの煙草がぴょんと跳ね、まるでゴールに向かって着地するように皿の中に落ちる。
「ねぇちょっと大丈夫?」
一瞬驚いた顔をしてから、りさは目の前で膝をさすりながら痛がる陽菜を笑った。
「あたしの事は大丈夫だからとりあえず座りなよ。まだたぶん休憩時間余ってるんでしょ。」
陽菜はりさの言葉に少し恥ずかしそうにするともう一度席へ腰を降ろした。
取り繕ってさっさと席を立とうとした自分がりさには全部見透かされてたみたいで恥ずかしい。りさは灰皿の中に転がった煙草を諦めたのか、片手で揉み消すとまた新しい煙草を取り出して火をつけた。
「カセットなんて渡されて、いまどきの子はどうやって聴くのかなーって思ってたんだ。本当に聴いてくれた?」
りさは口に煙草をくわえながら器用にそう話した。質問のときだけりさは陽菜の目をじっと見つめる。猫みたいにつりあがった目は相手に少々キツい印象をもたれそうだが、陽菜にとってはそうした鋭い目つきもりさの魅力の一つでもあった。りさは数秒そうして目を合わせてから手元のノートに目線を落とす。
「あぁ、はい、正直渡された時最初はどうしようかなって思いました。私、そういうプレイヤー?みたいなの持っていなかったし。でも、あの、いつも一緒にここで働いてる人が偶然持っていて、それ借りたんです。わたし、初めて見ました。ああいうの。」
陽菜は頭の中の出来事を辿る様に一言ずつ区切りながらりさへ話した。
「ふぅーん。意外。あの子結構そういうの好きなんだね。アイドルとか追いかけてそうに見えたんだけど。」
りさはふぅーっと一気に煙草の煙を吐き出す。
アイドル。と聴いて陽菜は慌てて訂正する。
「あっ、あの人じゃないです。クボさんっていう女性で、今は、たぶん買い出しに出てると思うんですけど、髪が長くて、、30代?くらいの、、人?」
年齢不詳はまだしも人間であるかどうかも疑わしいとばかりに続く疑問符に、りさは微笑んだ。目の前の陽菜も顎に手を当てて文字通り疑う様な顔をしている。
「えぇなにそれ、その人って人間じゃないの?」
「クボさんは、、ちょっと変なんです。なんていうか、古くさい言葉使うし、ルーツ?が何よりも大事だみたいな。。あの、りささんは納豆味のうまい棒ってレアだと思いますか?」
さっきまでテーブルの上でペンを転がしながら聴いていたりさは、興味が作詞から陽菜の話題に移ったのだろう。くるくるとペンを回した後でノートのゴムバンドにパチンと挟み込んだ。
「うーん。。あたしは、牛タン味がレアかな。」
りさは哲学書の一文を引用するように真顔でそう言って煙草を口にくわえると、再びふぅーっと煙を吐く。
「、、なんてね。」
あっという間に根本近くまで燃えてしまった煙草を灰皿に押し付けながらりさは笑った。
「えっと、納豆味のうまい棒がレアかどうかはあたしには分からないけど、でも、ルーツっていうのは大事だと思う。それって他の誰でも無い自分しか辿れない道だからね。誰にでもあるもんだけど、それをちゃーんと意識して生きてる人って実はそんなに多くないんじゃないかな。」
りさはそう言ってから体を少し反らすと厨房のある方を眺めた。
音沙汰が無い事を確認したのか陽菜の前へ顔を近づけると両手を口元へ寄せた。
「あのさ、さっきコーヒーちゃんと頼んでなかったかも。確認してきてもらえないかな。」
りささんはずるい、と陽菜は思った。見た目が大人っぽくて、どことなく男らしい雰囲気なのに、人に物を頼むときだけ急に女の子みたいな所作をしてくる。言葉尻に少しくしゃっとした笑みを添えるあたりも本当にずるい。
「ちょっと待ってて下さい。」
陽菜はそんな事を頭にぽつぽつと思いながらもあくまで澄ました顔をしながら席を立った。先ほどりさが来店した時にタチバナくんはコーヒーのオーダーを受けていたように見えたが一体なにをしているんだろう。
カウンターを扉を開けてちょっと進んだ場所にコーヒーミルやドリッパー、豆などが一式常備されているスペースがあるが、タチバナくんの姿は何故かそこには無く。奥の厨房からなにやら話す声が微かに聴こえてきた。
「まったく。」
その場でさっさとコーヒーを淹れて持っていく事も考えたが、お客さんをほったらかしにしている事実に腹が立った陽菜は、まず最初にタチバナくんを叱り付けてやろうと話し声の聴こえる奥の厨房へ進んでいった。
「―――ねぇ。。だから、なんだか心配なっちゃってさ。タチバナくんも帰りとか気をつけなきゃ。」
「やぁーマジこわいっすね。自分こう見えて結構ビビリなんすよ。」
厨房内の狭いスペースのパイプ椅子に腰掛けた店長が新聞を広げ、その背後にタチバナくんが腰をかがめながら一緒に記事を見ている光景が目に入ってきた。二人とも陽菜に対して背を向けている為、気付いた様子はない。
わざとらしく大きく咳払いをしてから「あの!」と陽菜は声をあげる。
絵に描いた様に二人は驚いて後ろを振り向き、声の主が陽菜であることにすぐに安堵したようだった。
「陽菜ちゃん、驚かせないでよ。」
「そうっすよ、急に大声だして。」
料理の仕込みをサボっていた店長もどうかと陽菜は思ったが、それよりもまずタチバナくんだ。
「タチバナくん、コーヒー頼まれてたよね。お客さん待ってるよ。」
内面の苛立ちとは裏腹に、それほど辛辣な言葉をかけないでいる自分に少し驚いた陽菜だったが相手に意思が伝われば問題はない。陽菜の言葉にオーダーを思い出し遅れて慌てたタチバナくんはコーヒーメーカーに向けて早歩きで戻っていった。陽菜はそんなタチバナくんの後姿に再び中国武術ヘビの形を構えようとしたが、背後に店長がいるのでやめることにした。
武術家にとって後ろをとられる事はすなわち死を意味するのだ。
「陽菜ちゃんもさ、気をつけたほういいよ。昨日の新聞みたかい?」
振り返った陽菜に店長は畳んで手にしていた新聞の一面を差し出した。

「指定暴力団幹部、市内潜伏か。」

まがまがしい見出しに陽菜は目を引かれる。
なんだかとっても嫌な気分になる文字の列挙だなと思う。
「だいぶ前に九州の方で抗争が起こってたらしいんだけど、そこの幹部がずっと行方くらましてたらしいの。そんでこれだよ。もう俺怖くて怖くて。だから陽菜ちゃんも帰り道とか、ね。」
店長はまるでこの世の終わりみたいな顔をしながら陽菜へ案ずる言葉をかけた。
暴力団幹部、、自分には一生関わりが無いような単語ゆえになんだか実感というか現実味を陽菜は感じ得なかった。どういった情報網でこの事実が判明したのかは分からないが実際にそういう人間がこの土地に潜んでいるのだとしたら、、それはあまり気持ちのいい話じゃない。たぶん、あの武術家も尻尾を巻いて逃げちゃいそうだ。
ゴエモン、、もしかしたら勝てるかもしれないけど、負けるとするなら口元のケチャップが敗因だなと陽菜は思う。
いずれにしてもこの記事には昨夜まったく気付けなかった。まゆさんやデビはこのことを知っているのだろうか。。クボさんは、、
陽菜は自分のことよりも周りのみんなの事が急に心配になった。
と、カウンターからタチバナくんの声がする。
「露木さーん、あの、奥のお客さん、りささん?呼んでるっすよー」
「はーい。店長、たぶん休憩時間過ぎてるので私こっち戻りますね。」
陽菜はそういうと厨房の横に置いてあるタイムカードを押した。
カードが打刻される音が鳴る。りささんはこのこと知ってるのかな。
陽菜は席に戻ったら彼女に聴いてみよう、そう思いながらりさの座る席へ戻った。



自費出版の経費などを考えています。