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玄関先で一通の手紙を見つめながら陽菜は立ち尽くしていた。
どこか遠くの国の海辺の街が描かれた封筒の宛名の欄には初めて字を覚えた子供のような筆跡で「小峰まゆ」とある。
自分宛ではない手紙が何故自室のポストに投函されていたのか陽菜は封筒の住所欄へと目を移した。
陽菜の住むアパートは二階建てでワンフロアに七部屋が並列している。陽菜の住む部屋の番号は101だったが、手紙の住所には107と書かれていた。
しかしながら陽菜も最初は筆跡の癖も相まってその数字が1なのか7なのか少し躊躇ってしまうほどだった。
仙台に来てからというもの碌に近所付き合いもしていなかった陽菜は宛名の名前をもう一度見て本来あるべき場所へ届けるかどうかを考えていた。
見た事のない住人の顔を想像したりこの手紙が実は何か危険な出来事への布石なのではないかと陽菜の頭にはよくないことばかりが浮かんでくる。
このまま手紙を見つめていても仕方がないと覚悟し、部屋の鏡で寝癖を少し直した後陽菜は部屋を出た。
頭の中ではもう賑やかにしている不安を抑え込むように107号室の扉の前まで陽菜は足早に向かいインターフォンを押した。
いけない。そこに来て自分が履いている靴下が裏返しになっている事に気付く。ドロが少しついたゴムのサンダルから不自然な凹凸が見える。
ドアの向こうで返事が聴こえ、慌しい足跡を連れて玄関が開いた。
陽菜は目の前の女性に何故か既視感のような妙な感覚をそこでもった。
20代半ばかと思われる彼女は前髪を結び、まるで炊き立ての新米のような艶やかな肌が印象的でいたが、同時に狛犬の様な力強い瞳をしていた。

「あの、101号室の者なんですが。。この手紙がポストに入ってて。。」
陽菜は相手の様子を伺う口調で少し湿ってしまった手紙を差し出す。
陽菜とは対照的に彼女は勢いよくその手紙をふんだくると宛名を一目みてから白い歯を見せた。
「んーこれうち宛てだね。ありがとッ。郵便の人、この数字読めなかったのかな。」
そう言って彼女は宛名の数字部分を指した。
癖なのか襟足を指先でくるくると回している。
よく見るとまちまちに伸びた毛髪は先の方だけモスグリーンに染められていた。
「じゃあ私はこれで。。」
手短に事を済ませたかった陽菜は顔色を変えず一瞥し、踵を返した。
「あーちょっと、、あんた名前なんていうの?」
プライバシーという概念を吹き飛ばす強い語調。
陽菜は僅かに鬱陶しさを感じたものの険悪な関係になることは避けたかった。
「露木です。」
「ううん。そっちじゃなくて名前。苗字じゃなくてさ。。えっ。名前がツユキっていうの?」
「陽菜です。。」
「ひなちゃんか、うちはまゆ。よろしく。」
そう言うやいなや、あっ。と何かを思い出したように一声をあげたまゆは物凄い勢いでドア越しに出していた体を引っ込めた。
まゆ。嵐のような女性。たった数分の出来事、会話という会話も大してなかったが陽菜はいつの間にか両肩に重々しい疲労を抱え込んでいた。
部屋に戻った陽菜は時計を見てバイトの時間が近づいている事に焦り、重い肩を鼓舞しながら身支度を済ませコラフに向かった。
数日前、アーケードのコンビニでノートを買った陽菜は頭に響く音楽に導かれる様に田舎の食堂を舞台にした物語を認めていた。
それは陽菜が憧れる小説家、水無月コウタロウの世界に出てくるナポリタンやカレーに影響されたものに他ならなく、コラフでの勤務の傍ら、
休憩時間に文字を綴っていた。物語は世界の何処かに存在する食堂の日々。陽菜は自分が影響を受けた世界を文字にすることに自己の本懐を強かに感じた。
しかしながらカレー以外はあまり自炊をする習慣がなかった陽菜は料理の調理法や名前などの事々が足らずコラフの店長が書き認めたシミだらけのレシピノートを見せてもらうことになった。
店長自身も陽菜の物語作りに興味を示し、自分が培ってきた調理の知識が本来とは異なる形で引用されることが面白く心なしかほくそ笑んでいるようだった。
その日、陽菜は普段休憩をとる店舗内の隅の席では無く、窓際の席でナポリタンのレシピを横に広げながらノートに向かっていた。
「おもしろそうなことしとるなぁ。」クボが陽菜の座る席の後ろからノートを覗き込んだ。交換するのを忘れたのか少しボロボロになった床掃除のシートが見える。
「まだどういう物語にするかは全然決めてないんですけどね。。でも、私が好きなカレーとか、、そういうのを残したいなって。」
陽菜は根が感情思考だ。自分に備わっているものや経験はどこかいつも置き去りで居て、その瞬間に感じたものを純粋に行動に移して行く。
あの日、アーケードで耳にした路上ミュージシャンの歌声、そこで多分小さなバグみたいなものが起こって陽菜の軌跡というメモリーが解読できない行動を体に起していた。
それが果たしてなんなのかは当の陽菜自身も解ってはいない。雷が野山を焦がす様にその閃光に撃たれた陽菜はこれまで靄に包まれていた頭の中が驚くほどまっさらになっていた。
そうかこれだったんだと手放しに納得をするような面倒な所作は要らず、ただひたすらに、下手をすれば無謀、無計画な熱意を目の前の白紙に注いでいた。
「そろそろ時間だからな」クボに言われ時計に目を移す。陽菜は理解していた。時間という概念がこんなにも不透明になる瞬間が紛れも無く目の前にある事。
食堂が建つ田舎町の山々を頭の隅に押し込む。カオスという澱みの中から食器達を生還させ、また戦場に向かわせる。気付くと服に残ったクッキーの粉のように陽菜の頭からは物語の世界が毀れる。
厨房に戻った陽菜のエプロンにクボが、わしも応援しとるぞ。と、うまい棒を押し込んだ。そのとき、コラフの入り口の錆びれたベルの音が鳴った。
ゴエモンだった。今日も愛想には縁の無い表情をしている。たまたまレジの前で作業をしていた店長が声をかけ、ゴエモンとなにやら話をし始めた。
数秒の後、ゴエモンはスッスッと足音を立てずに店内を移動し、おもむろに着席した。今は店の入り口にはクローズの札が下がっている筈なのにと陽菜は思った。
「あのお客さん、料理は出せないって言ったんだけど、少しだけ休ませてほしいっていうから」店長が厨房の陽菜に声をかけた。ゴエモンは午後の市内を窓越しに見つめている。
ゴエモン。この人は本当に不思議な人だ。強く引き伸ばされた生糸の様な目。陽菜はその人物の軌跡を辿ろうとした。
クボさんが話すように喫茶コラフという場所、そしてナポリタンにこの人は目に見えない何かを感じているのだろう。
ゴエモンが好んだ料理をニセモノ、軌跡がないとクボさんは言った。しかし相反する様に窓際の武士はその料理を今日も求めていた。
しかしながら今日はもうランチの営業は終えているし、本来ならば客が席に座っている様な時間ではない。休憩。何故。陽菜はゴエモンを見つめる
今日は読書でもするのだろうか、ゴエモンはいつのまにか何かの冊子を広げ、口をへの字に閉めたままパラパラとページを捲っていた。あっ、と陽菜は小さく声をあげた。
ゴエモンが着席した席は、先程まで陽菜が物語を認めていた席。そしてゴエモンが目を通しているのは、店長のしわしわのレシピブックだった。
物語の進捗に意識を傾けていた為に、どうやらあの席に置き忘れてしまったことを陽菜は焦りながら認知した。と、そのままエプロンで濡れた手を拭きながら陽菜はゴエモンの席へ向かっていた。
ゴエモンが居る席の前まで来たものの、考えるより先に体を動かした手前陽菜は口ごもる。先に口を開いたのはゴエモンだった。
「これはきみのノートか?」信じられないぐらい低い声が響く。陽菜は応えることができず、只、頷いた。
ゴエモンは陽菜の顔を一瞥し、少し陽に焼けた指先でそろそろとページをめくった。偶然にも開かれたページにはナポリタンのレシピが綴られていた。
「きみは、りょうりを学ぶ、その類の、人、なのか」暫くジッとそのページを睨みながらゴエモンは零した。
「小説、書いてるんです。」食器を置いてきた事、店長の視線のこともあったが陽菜はあまりに簡潔に話していた。
「ものがたり、か。」小さくそう呟いたゴエモンはノートを閉じ、卓上に置くと、鈍重に滑らせながらノートを陽菜へ向けた。
「つぎは、その料理が食べられる時間に、伺おう。」重石の様な声を残すとゴエモンはぬっと立ち上がり、カウンターの店長へ会釈の様な所作をしながらコラフを出ていった。
がらんとした店内に寂れたドアベルの音が響く。陽菜は卓上のノートを手に取ると厨房に戻った。店長は少し不安げな顔をしていたが陽菜は気にしないでいいといったように再び残りの洗い物を片付け始めた。
その日は帰路につくまで陽菜は何処か心此処に非ずな体でいた。家のカギを玄関先に置いた時、クボからのうまい棒をコラフのエプロンに入れたままにした事に気付いた。
引っ越してきた当時、必要か否かも考えずに買った無地のトートバッグ。部屋の中で三年間置き去りにされたそれに、陽菜は今、ノートを入れてバイトに向かっている。
ベッド横にバッグを置くと陽菜は文字通り大の字に寝転がった。LEDの冷ややかな光が包む小さな部屋。陽菜は骸のように体を預けたまま朝を待った。


自費出版の経費などを考えています。