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「デビと陽菜ちゃんは先に降りて祭り行ってて、うちは車停めてきちゃうから」
市街地から少し離れた道路脇に荒々しく車を停めると、まゆは後部座席の二人へ言った。
新緑の銀杏並木が立ち並ぶ道路の向こうからは、既に賑やかな音が陽菜たちのところまで微かに聴こえていた。
長い時間を待っていたとばかりに聴こえる笛や太鼓の協奏曲は、照り付ける日差しを浴びて高いところで響いている。
まゆは助手席に散らばった大学の資料やファイルに気付くと、エンジンを切る事もせずに隣へ体を曲げた。
シートベルトを外すことなく体を曲げて席の下を漁るまゆを、デビは少し心配そうに目を潤ませ見守っている。
首輪を繋がれたまま届かない餌へ駆け寄る動物の様に、まゆはシートベルトの圧に時折「うっ」と声を漏らした。
先日のまゆの部屋での食事を陽菜は思い出す。たぶん、まゆさんは何か一つの事に集中すると他の事が見えなくなるんだ。
鳴り止まないエンジンの規則的な振動を受けながら、陽菜は畑を荒らすモグラの様なまゆを見つめていた。
「デビ。コウエンの、マエの、レンガ色の、ハコ。あそこね。」
文章をみじん切りにした様な話し方で、まゆは日本語の連弾をデビへ投げつけた。
一向に顔を助手席にうずめたままの声は揺れる車内では、油断すると聞き逃してしまう。
相手に届くかどうかを気にせずに発射されるまゆの言葉は、湯温を誤ったシャワーの様に容赦が無かった。
レンガ。箱。陽菜は、まゆの発した奇妙なパズルの様な言葉に反応できずに隣のデビへ顔を向けた。
嵐の様な女に選ばれた男の眉毛は、たくましく、そして凛々しく炎節の息吹に揺らいでいた。
「カシコマリマシタッ」
二人だけに理解できる合言葉なのか。歯切れ良くデビは答えると、安心しろ。とばかりに陽菜に向け親指を立てた。
お笑いトリオの定例の冗談のように、デビは陽菜と目が会う度に雑念の無い清々しい笑顔を作る。目線は決して外そうとしない。
眠れない夜にコンビニでコーヒーを注文した日、ラーメン屋の挨拶の様に「かしこまりました」と声を上げた彼を陽菜は瞳の中に思う。
さぁ、行こうというデビからの熱視線を否応無く受けた陽菜は急かされる様にまゆの車から飛び降りた。
次いで降りる直前にデビはまゆへ何かネパール語で声をかける。まゆは意地でも張っている様に未だ顔を沈めたまま手を振って見せた。
「まゆさん、早めに車、動かしてくださいね」
まゆの性格が突然心配になった陽菜は、届くかどうかを置き去りにした声を車に向けて放った。
というのも、市内のこの状況だ。取り締まる仕事をする連中の車と幾度かすれ違った事を陽菜はふと思い出していた。
彼女は大丈夫だよ。と、デビは言うまでも無くいきなり陽菜の手を掴むと、自らの信じる進む方向へ彼女を導いていた。
緑のカーテン越しに差し込むステンドグラスの様な日光が陽菜たちの駆ける姿をキラキラと照らし出す。
映画のワンシーンなら少し魅力的であったが、恋人がいる男性に手をひかれる状況は罪の意識を感じざるを得ない。
風を受けながら前を走るデビの体からは、陽菜が作るベジカレーの欠片の様な香りがほのかに漂ってくる。
陽菜は数メートルの疾走の後に繋がれた指先の力を抜くと、デビの片手からなるべく自然に離脱し、その歩を緩めた。
急に離された感覚に気付いたデビは、おや。と、駆けていた足を止め後ろの陽菜へ向き直った。
車内ではよく見ていなかったが目の前に立つ彼の姿は、陽光を浴びて悠然と聳え立つ大木の様にどっしりとして見えた。
週に三回は夜のコンビニでデビを見ていたはずなのに、人間の印象という物が如何にいい加減かを陽菜は感じた。
「ダイジョブ、デスカ」
少しスピードを出しすぎたかな。若干の強引さを詫びる様にデビは少し離れた場所の陽菜へ歩み寄った。
「うん、だいじょうぶ。すこし、ゆっくり。おねがいします。」
陽菜は異国の紳士へ向け、先程のまゆの会話を真似するように言葉を切って話しかけた。
自分の意思を伝えようと思った瞬間、陽菜は初めて自分からデビの目をちゃんと見つめた様な気がした。
意識をしていた訳では無かったが、見た目や言葉が違うだけで必要以上に距離を取ろうとしていた自分がいたのだ。
ちゃんと伝わっただろうか。目の前にいるのに国際電話でもかけているような距離感を拭えず陽菜は不安になる。
デビは、口角を少し上げると「カシコマリマシタ」と温かみのある笑顔を添えた言葉を陽菜へ返した。
たぶん今まで聴いてきた中で一番優しい「かしこまりました」だな。と、陽菜は密かに思った。
完全に自然とまではいかないが、陽菜は少しだけ砕けた表情を作りデビへ微笑みを返す。二人は再び歩き出した。
歩道を縦横無尽に歩き回る鳩達は、そんな二人のやり取りに興味があるように足元を着いて回っていた。
大通りまで出てくると封鎖された中央道路の真ん中を、巨大な山鉾が法被を着た担ぎ手達を纏いながら列をなして行脚していた。
山車の上には巨大な大黒天や獅子などがに盛大に飾られており、連なる巨像達の光景は神々の行進の様だった。
連綿と続いてきた仙台の歴史絵巻を表現するように、勇ましい甲冑を来た武将姿の人々や槍や鉄砲を持つ兵隊の様な姿も見える。
紅白のコーンバーで囲われた道路沿いには胡坐をかいてカメラを構える人々が蟻の様に密集していた。
デビはその光景を見ると子供の様に一瞬で顔に花を咲かせると、人々の真似をして手拍子をしながら群衆に飛び込んでいった。
「あっ、ちょっと」
陽菜は急いでデビの後を追う、彼は指笛をピューと鳴らすと集団の後方で声を上げていた中年男性へ話しかけていた。
「スミマセン、アレ、ナンデスカ」
デビは山鉾の間を埋めるように集まって軽快なステップで舞う人々を指差しながら男性に聴いた。
陽菜もデビの言葉を聴き目を向けると、顔に特徴的な化粧をした男女が両手に持った扇子をくるくると回しながら踊っていた。
「あぁ、ありゃあ雀踊りってんだ。ちょんちょんって跳ねながら踊ってんだろ。雀みてぇに。」
男性は少しだけ酔っ払っているのか熱さのせいなのか頬を赤らめながら答えると、デビの顔を二度見した。
「なんだ、にーちゃん外国人か。スズメ、トリ。ワカル?あぁ、バードっつうのか、バード。バードダンス。オッケー?」
半分小馬鹿にする様に男性は笑いながら英語を交えると、両手をパタパタひらつかせ鳥の姿をデビへ模して見せた。
「アァ、トリ、ヤキ!アレ、トリヤキ、デスネ」
「おいおいちげーよ、それはヤキトリ。トリ、ダンス。ダ。ン。ス。」
男性の英語がよほど聴き取れないのか、デビは頑なに「トリ」というワードにのみ笑顔で反応し手を叩いた。
全く会話が噛み合わないにも関わらず男性はまぁいいかというようにデビと一度ハイタッチをすると「エンジョイ」と叫んだ。
外国人に話しかけられようものなら一瞬で萎縮してしまう様な空気感は二人の間には存在していなかった。
目の前で響き渡る小気味良い祭囃子と華麗な演舞に夢中になるデビを微笑ましく陽菜は見つめていた。
ふと、陽菜はまゆの言っていたレンガの箱を思い出し、太鼓のリズムを肩で刻むデビへ近づき肩を叩いた。
「デビ、さん。 あの、まゆ、はなした。ハコ。どこ」
先程の工程を踏まえた切った語調で陽菜はゆっくりと、しかしはっきりした声で話す。
デビは電気でも流されたように一瞬体を震わせ、オゥと叫ぶと本来の目的地を理解したようだった。
「スミマセン。コチラ、デスネ。」
陽菜に対しエスコートするように片手で進行方向を指してから、デビは再び歩みだした。
この日の市内は5月にしては珍しい夏日で、デビと陽菜は人々の熱気もあり少し汗ばんでいた。
普段空調の効いた部屋で寝転がっていた陽菜は、勝手が分からずに意気込んでした化粧の具合を少し後悔していた。
こんなことならまゆを真似して前髪を結ぶくらいすればよかったと同時に思ったが、似合わないな。と諦めた。
それよりもまゆさんはちゃんと車を停めることができたのだろうか。彼女の行動は突拍子も節操も無い。
路上駐車で口論になり警備員に中指を立てるまゆの姿を歩きながら陽菜は妄想した。それだけはやだな。
道路が封鎖されている為、信号を待つことなく快調に歩を進める二人は、大型商業施設が立つ十字路の前に到着した。
と、デビはまたしても突然と何かに向かって走りだしてしまった。後姿は玩具を見つけた少年そのものだ。
陽菜の目の前には、レンガ色の、箱。成程。それは古風な電話ボックスだった。
ファッション雑誌の巻頭の一ページを切り抜いた様に、その横にまゆは凛と佇んでいた。タバコの煙を燻らせている。
と、その隣には見るからに岩石の様な巨大なモヒカン男が、舐めるような視線を放ちながらまゆへ何かを話しかけていた。
しかし、まゆはまるで野鳥の囁きや川のせせらぎを耳にするように彼の存在を横に流しつつ、走り寄るデビに向け手を振った。
髪の毛の両サイドを鋭角に刈り上げた岩男は、駆け寄るデビとまゆに対し一瞥をくれると鼻をフンと鳴らして離れていった。
「まゆさん、今の人、、大丈夫ですか」
デビの後を遅れた陽菜は額の汗をぬぐって駆け寄ると乾いた声をかけた。
「あぁ、あいつさぁ一回話すたびに鼻息すげーんだよね。酸素独り占め。うざ。」
路上に吐き捨てられたガムを見るような目でまゆは苦笑しつつ答えた。
デビが少しだけ強張った表情を自分へ向けているに事に気付いたまゆは、ネパール語で安心させるような言葉を発した。
その言葉を受けたデビは氷が解けるように緊張を解くと、確かめ合う様にまゆと微笑み合った。
道中の熱波に根負けしたのか、まゆはシャツをたくし上げ、胸の少し下辺りで結びめを作り風を通していた。
時間経過と共に増える肌の露出に、陽菜はまゆに対し声をかける男性の気持ちと心配する気持ちの半々を胸に抱いた。
よく見ると腰の辺りに花を模した様なアートが刻まれている事に気付く。陽菜はデビと笑いあうまゆの顔を見つめた。
「あっちの公園でさ、なんか色々やってるみたいだよ、いってみない?」
そう言うと、まゆは陽菜の返事を待つことなくデビを引き連れて、人の溢れた十字路へずんずん踏み込んでいった。
もしも今この場所が突然巨大な密林に変わったとしても、彼女は迷わず獲物や水源を探しに進むだろうと陽菜は確信する。
横断歩道を渡り公園内に入ると、様々な出店が所狭しと立ち並んでいる光景が目に入る。ラムネの瓶を握りしめた子供が隣を駆けて行った。
園内の様子を見渡していると、まゆとデビの姿が見えない。二人に早々に置き去りにされてしまった事に陽菜は気付く。
ここが密林の中ならば絶望でしかなかったが、幸い周りにいるのは週末のイベントを満喫する人々なので陽菜は安堵する。
石造りの階段を降りて、最初に見えた店先を覗くと県内の市町村の名前であろう地名が書かれたプレートが天井にぶら下げられている。
店の横に備え付けられた案内板の中心には、もてなしとは、土地土地の旬の食材を自ら調理し、振舞うことである。と毛筆で豪快に綴られていた。
どうやら仙台を統治していた武将が残した言葉のようで、各自が地名の札を下げるのはそういうことか、と陽菜は自身で納得する。
「おねえちゃん。どうだい。おいしいよ。」出店の横で立ち尽くしていた陽菜に背後からお店の主人が声をかけた。
声のする方向へ体を向けた陽菜は身震いをした、そこにぶら下げられたプレートには地元山形の文字があったのだ。
県内の物ばかりだと考えていた陽菜には嬉しい誤算であった。名物!玉こんにゃく!の文字に吸い寄せられるように陽菜は店先へ足を向けた。
と、視界の横、数メートル先にまゆたちの姿を見つける。目の前の玉こんにゃくは惜しかったが食べ物は陽菜を置き去りにはしない。
後ろ髪を引かれる思いではあったが陽菜は、一先ずまゆ達が足を止めている出店の前へ駆け出した。
「おぉ、陽菜ちゃん、どこいってたの」
まゆは串に刺さった焼き魚を頬張っていた。デビは串のままでは食べにくいのか店の人に「オサラ、クダサイ」と日本語で話しかけている。
まるで今さっき川で捕まえてきたかのようにまゆは、手にした串焼きの魚を嬉しそうに食べていた。デビは使い慣れた片手で身を解しながら食べ進めている。
美味しそうに食べている二人を見ていると先程諦めた玉こんにゃくが恋しくなり、陽菜はまゆへ少し待ってて欲しいと声をかけようとした。
「え、まって、ゴリランジェロじゃん。おーい、なかちー!」
まゆは突然群衆の中へ大きな声を投げつけた。突然の声にデビは驚いて目をくるくるとさせている。
陽菜もまゆの声の矛先に体を向けると、カーキ色のくたびれたシャツに下駄を履いた男性が煙草を加えて立っていた。
まゆは串に残った食べかけの魚を口に入れるとその男性の下へと駆け寄る。陽菜も後を追った。
少しづつ相手との距離が縮まる中で、陽菜は男性の縦に長い顔を見て動物園のマンドリルと重ね合わせていた。
「なかちーも来てたんだね、え、つか、今日も下駄履いてんのウケる」
呆然と立ち尽くすデビと陽菜を尻目にまゆはマンドリルへ言葉のラッシュをかける。男性は陽菜とデビをちらと観てから煙草の煙を吐いた。
「あのなぁ、小峰、いい加減俺の名前をちゃんと呼べよ。ゴリラでもなかちーでもない。中崎先生、だろ。」
中崎と名乗った男性は、メスに餌を横取りされたオスの様に、目線を下に向け分かりやすく肩を落として言った。
若さの象徴の様なまゆとは対照的に50代半ばに見える彼は、何かを悟った様な"いなたい"空気を漂わせていた。額の深い皺が目立つ。
「つかうちさ、先生の講義ヤバいじゃん。なんとかなんないかなー、テングのイエとかで」
「それを言うなら文殊の知恵だろ、意味も使い方も合ってないし。大体お前はいつも俺の話を」
「あー、陽菜ちゃん、この人はうちの大学の先生。古文とか歴史とか古臭い系の事、変な事、詳しい系!」
中崎の話しを途中で豪快に切り捨てると、まゆは陽菜に対しこれもまた豪快に彼の事を紹介してみせた。見事な太刀筋である。
自己紹介を代弁されて溜息をつきながら頭をかかえる希有な男性を陽菜は人生で初めて目の当たりにしていた。
「んでね、絵もなにげに上手いの。だからゴリランジェロ。」
まゆはこっそり話す様に陽菜の耳元で囁いた。失礼だが納得のネーミングだ。デビは会話の内容を気にする視線を三人へ向けていた。
「あぁ、どうも、東北大で非常勤講師をしています、中崎です。君らは、小峰さんのお友達かい」
中崎は陽菜へ声をかけつつ、横に居る異国の青年へ片眉を下げながら目を向ける。縄張りに侵入されたオスの様な視線だ。
「ハジメマシテ、ワタシ、ギミレデビプラサドトモシマス。ヨロシクオネガイシマ。」
「ほぅ、日本語できるんだね。わたしは、ナカザキ。です。よろしくおねがいします。」
デビの日本語を聴き、中崎は握手を求めて片手を差し出すとデビは嬉しそうにその手を握り返した。
中崎は吸い終えた煙草を携帯灰皿に押し込むと、また新たに一本の煙草を取り出し口に銜えた。
デビの自己紹介に先を越され少しだけ面食らっていた陽菜は自分の紹介が済んでない事に気付き口を開いた。
「露木といいます。まゆさんとは、同じアパートに住んでて」
「あー、そうだそうだ。なかちーさ、陽菜ちゃん今ね、小説。だっけ。モノガタリを書いてるんだよ。」
会話を切り足りないのか、まゆは再び見事な太刀筋で陽菜の言葉を真っ二つにして魅せた。
中崎はまゆの言葉に、おっ。と声を上げると水を得た魚の様に、否、バナナを前にした猿の様に目を輝かせた。
「露木さん、小説とは素晴らしい。ジャンルはなんだい。現代だと"ラノベ"、、だとかが流行してるようだが」
使い慣れてない単語を訝しげに使いながら、中崎は顎の下に手を添えて陽菜へ尋ねた。
「それがまだ、ちゃんとテーマが決まってなくて。」
口ごもる陽菜は苦手な科目の授業で立たされてしまった生徒の様な頼りない顔をして、まゆを見つめた。
「えーっと、ミタラシさんだっけ。陽菜ちゃん好きな人いたよね、仙台のこと書いてるんでしょ」
まゆの出した助け舟は、陽菜の大好きな小説家を文字通り団子の姿にしてしまい、陽菜は思わず笑みがこぼれる。
この場所へ向かう道中に陽菜が話した内容は、やっぱり、というかほとんどまゆの頭からは消えているようだった。
「ミタラシ。。もしかして水無月先生のことかい。」
中崎は毬栗の食べ方を閃いた猿の様に目を丸くし、顎に付けた片手から人差し指をまゆへ向けた。
「あ、そ、そうです。水無月コウタロウ。」
「やっぱりそうか。実はね」
そこで話を区切ると中崎は陽菜へぐっと顔を寄せ声を落す。
「近々、新刊が出るそうなんだよ。まだ表立って発表はされてないが。」
中崎の意外な言葉に陽菜の胸はグンと高鳴った。既に頭の中は新刊の妄想が大渋滞を起していた。
新作はやはり舞台を仙台に選んだのだろうか。ミステリー、サスペンス。いや、短編集。ナポリタン。
散漫なままで陽菜の脳内の単語達は、水無月コウタロウへの関連性を求めて我先にと浮かんでは消える。
「シン。カン。デスカ。」
デビはその四文字を新しい生き物を見つけた学者の様に難しい顔をしながら口から漏らした
すかさず隣のまゆが、ネパール語でその言葉の意味を彼へ解説している。会話の中身は分からないがまゆのネパール語は丁寧に思えた。
陽菜はそんな二人を目の隅に入れながら中崎へ話しかける。
「あの、中崎さんって、先生、ですよね。どうしてそんなことご存知なんですか。」
「うん。さっき非常勤講師と話したと思うがね、実際の本業は民俗学者。時々物書きをしたりするもんで出版社に知り合いがいるんだ。」
そう言うと、中崎は根本より少し手前で煙草を携帯灰皿へ押し込むとぎこちなく笑ってみせた。
「へぇ、すごい。中崎さんも、本とか出されてるんですか。」
陽菜は未知なる世界への興味が沸騰する湯の様に湧いてくるのが止まらなかった。
照り付ける日差しで溶けかけた体を守るように、中崎は下駄を鳴らしながら木陰へ動き出したので陽菜もそれを追う。
まゆは他の何か気になる出来事を思い出したのか、デビへ照準を定め話しを続けていた。
「今日の青葉祭りも例年足を運んで見ているんだ。毎年、こんなに賑わっていて気持ちいいよ。」
陽菜の質問に応えない代わりに、成長する我が子を遠い目で見るように中崎は雀踊りの行脚を見つめて言った。
「昔は将軍へ納める様な食べ物を庶民が食べられるような事は無かった。今は幸せな時代だよ。」
県内のみならず東北各地の名産品を持ち寄り、人々へもてなす行事の歴史を中崎は噛み締めている様だった。
「そうだ、まだどうなるかは分からないが、水無月先生、イベントをやるかもしれんぞ。節目の作品だしな。」
中崎は道路の演舞から陽菜へ目線を移すと、ボサボサの襟足を指先で掻きながら話した。
「せっかく若い作家さんと出会えたんだ。私の名刺、渡しておくよ。何かいい情報あれば連絡する。」
ゴリランジェロこと中崎は、本名を中崎重栄(シゲエイ)というらしい。差し出された名刺を陽菜は見つめる。
「ありがとうございます。でも、わたし、まだ作家とかそんな。」
作家、と呼ばれた事に湧き上がる気持ちを意地悪に押し込めながら、陽菜は目線を下げて中崎へ言う。
自分なんて、と思うようにペンが進まなかった時間を思い出し、卑屈な自分が中崎の綺麗な言葉を塗りつぶそうとする。
「頑張りなよ。君の経験した事が、ものづくりにきっと、生きるはずだ。」
中崎はそう言うとゴリラの様な見事な腕に巻き付けられたカシオの黒い時計に目をやる。
「もう私のみたいものは見れた。ぼちぼち帰らせてもらうよ。」
ポケットの中の潰れた箱から煙草を取り出すと口にくわえて中崎は歩き出した。
見送るような視線を送る陽菜だったが、中崎は思い出したように急に振り向いて
「月曜の講義に出たら考えてやると、小峰に伝えててくれ。」
煙草を口から話して陽菜へ言葉をなげかけると、中崎は軽く手を振ってから再び駅の方へと歩き出した。
受け取った名刺をトートバッグへしまうと、陽菜は背後のまゆ達へと視線を戻す、が、いない。
当然といえば当然なのだが、再び陽菜は独り取り残されてしまった。改めてこの場所がジャングルの奥地でない事に安堵する。
どこから探そうかと思案に暮れていると、お尻のポケットへ差し込んでいた陽菜の携帯電話が鳴った。
電話越しの声はまゆだった。声の呼ぶほうを見ると道路を挟んだ向かい側の広場で、まゆとデビが手を振っていた。
陽菜は、まゆたちの元へ向かう前に先程の玉こんにゃくを買っていこうと決めていた。



自費出版の経費などを考えています。