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ゴリランジェロこと中崎重栄からの折り返しの電話はそれから二、三週間後の夜にかかってきた。
話によると水無月コウタロウとの交流会は、本人の希望で市内のイベントホールや商業施設などではなく意外にも市の外で開催されることとなった。
個人的に著名な小説家が何かイベントを開催するとなれば、各土地土地の中でも際立って来場者の多い商業施設内などが興行的にも主流だと思っていたし、例え内々での会にしても駅前などに隣接する宿泊施設の大広間を貸しきり、テレビなどで見る如何にもな雰囲気で催すものだと陽菜は考えていた。故に中崎から開催場所を聴いた時は頭の隅で少し意外に感じてしまった。正直話を聞いて拍子抜けしてしまったのが本音だ。
水無月コウタロウの名前を聴き仰々しく考えていたが、このイベント自体陽菜が考えているような大規模なものではないのかもしれない。もともと中崎からも少数の関係者だけで催すと聴いていた事を思い出す。だとしたら一体どんな会になるのだろう。遠い目をして考えてから陽菜は腕時計の時刻に目を向けた。

午前八時過ぎ。
乗り込んだ東北本線の列車内は自分しか乗車してないのかと錯覚する程がらんとしていた。普段滅多に列車に乗らない陽菜にはこれが果たして普段通りの光景なのかどうかは分からなかったが、自分以外誰もいない空間には少し不安になる。隣の車両に移れば人がいるのだろうか。
小豆色の窓際席に腰掛けていた陽菜は、自分ひとりの空間になんだかそわそわしてしまい外気で冷えきった耳にイヤホンをいれるとポータブルプレイヤーから音楽を流した。
暖かな朝日が差し込む窓の外の風景は、時間と共に都会的なビルがどんどんと少なくなり、辺りは徐々に山々とその合間に点在する住宅地が見える穏やかな風景へ様変わりしていく。
座席下の暖房の風が足元を暖め、流れ行く景色と朝の匂いを感じながら陽菜は片手でまだ重いままの瞼をこすった。電車という乗り物はどうしていつもこう眠気を誘うのだろう、そんな事をぼんやりと考える。学生時代はよく電車で寝過ごしたりしたものだった。
車内出入り口上部に設置された電光掲示板には次の停車駅の名前が流れていた。この列車の行き先であり、今日の目的地は日本三景、そのひとつである松島だ。仙台から到着までには30分程度かかる。
陽菜は再生していた音楽のボリュームを少しだけ落として目を閉じた。




霧みたいな雨が降った夏の終わりに陽菜とりさがコラフで会話した日。
これから定期的に店に訪れるという口約を陽菜と交わしてから、りさは約束を守る形で数週間に一回はコラフに来店し作詞活動をしていた。
自分の華奢な体より大きなあのギターケースを重々しく抱えて来店したり、先程まで部屋で眠っていたかの様な無防備な服装で来店したり、その都度彼女の持ち物や身なりは実に様々だった。
しかし、あの傷ついた古風な携帯音楽プレーヤーと、糸くずの集合体の様な文字が書かれた小さなノートとペンは必ず持ってきていた。
彼女自身が言った「いつでも気になった物事をすぐに書けるように」というのは本当のようだった。

その日、りさは若者にしては珍しいビンテージ臭が顕著な漆黒のライダースジャケットを身にまとってコラフに来店していた。りさと云えばポニーテールか頭の上でお団子を作っているイメージを強くもっていた陽菜は、珍しく髪を降ろしているりさに目を奪われていた。りさは普段通り奥の席に腰掛けるとポケットから煙草を取り出し火をつけた。一息ふっと煙を吐いてから今度はノートとペンを取り出し、何かを綴り始めた。真っ赤なグロスをひいた唇。身に纏っている黒々としたジャケットと相まって、咥え煙草から上がる細い煙に強い気品の様なものを感じる。
陽菜は実際には見えない大型のバイクをりさの傍らに思い描いた。今の彼女には樹木も育たない荒れた砂地のオフロードと轟音を響かせる銀色のバイクがよく似合う。
「なに?どうしたの。」
テーブルの前で棒立ちになっている陽菜へりさは声をかけた。
あっ。という声を出してから咄嗟に目線をキョロキョロと動かす。
繰り返すことに懲りない陽菜は、もう何度もこうしてりさの魅力に目を奪われてしまっている。
注文を取りに席のそばまで行ったはいいものの、ショーケースに並べられたケーキを眺める子供みたいにりさの事をまじまじと見つめてしまう。それはりさという女性が自然に放つ魅力に引かれるのも理由としてあるが、陽菜はりさの手元の小さなノートに綴られた文字達が織り成す文章、それが一体どんな内容のものなのか自身も小説を書いている手前如何せん気になってしまうのだ。しかしそんなことをあれこれと考えて混濁した頭であってはどちらもきちんと正確に見つめることができず、結局ただぼーっとしているだけだった。
「すみません。ご注文は、、あっ、、いつもので、よろしかったですか。」
気まずそうにエプロンの端を掴みながら陽菜は言った。
「ありがとう、今日もそれでお願いします。」
りさは表情を変えずに優しいトーンで陽菜にそう伝えた。
陽菜が言った「いつもの」とは、無論りさの注文のことだ。コラフに来店した際にりさは、必ずといっていいほど一番大きなサイズのコーヒーを注文していた。その傾向を陽菜はきちんと把握していたのだ。
ただし、ミルクや砂糖の量については日によって数が違い、定まっておらず陽菜は砂糖とミルクについてはいつも少し多めにテーブルに用意するようにしていた。その日の気分によってコンディメント類の分量を変えることは陽菜も同じだったし、りさには出来る限り気持ちよく作業に集中してほしいという思いの現れでもあった。もしも自分が同じ立場なら集中している時に、砂糖やミルクの追加を頼むような事も煩わしく感じるし、そういう瑣末な事をなるべく考えたくないというのも理由のひとつだ。

「あっ、そうだ、これ。」
カウンターに戻ろうとした陽菜をりさが呼び止め、ジャケットからなにかを取り出した。
「この前話していた歌、デモ版だけど、よかったら聴いてみて。」
りさが手にしたそれは今ではすっかり懐かしさを感じられる様になってしまったカセットテープだった。学生時代の合唱コンクールの時に教室で見て以来だったので陽菜は少し予想外な光景に目を丸くした。

「なに? こういうのって、めずらしい?」
りさは陽菜の驚いた顔を面白がるように言った。面食らってしまったのは事実だが、いかにもな顔をしてしまった自分が恥ずかしくて、陽菜は口ごもったままりさを見つめ返した。
りさはふふっと微笑むと口にしていた煙草の煙を吐いた。
「わたしさ、自宅でテープに録音するの好きなんだ。部屋にめっちゃ古いMTRとゴッパーがあってそれ使ってて。勿論、ちゃんとした場所でレコーディングしたりもするし、普段はこいつで音楽聴いたりしてるんだけどね。」
りさはそう言うと手元に置かれた傷だらけの音楽プレイヤーを見つめた。
「でもねぇ、テープにはテープの良さっていうか。上手くいえないけどなんか魅力を感じるんだよね。演奏間違えたら録り直しは面倒だけどね、その不便さがまた味に感じちゃって。」
そう言ってから、りさは目の前の陽菜の手を引くと少し強引にその手の中にカセットテープを握らせた。
「今度また来た時に感想、聴かせて。」
真っ赤なネイルが眩しい細い指で陽菜の両手を包みながらりさは微笑んだ。
「あっ、はいッ。 ありがとうございます。」
反射的に返事をしてしまったものの、テープデッキなんて持ってないことを思い出して陽菜は内心で自分の発言を省みる。

陽菜にはりさのいうテープの良さというものがよく分からなかった。ちゃんとしたスタジオでレコーディングしたり、膨大な数の楽曲を納められるデジタルの携帯プレイヤーも持っているのに、どうしてわざわざそんな面倒なものを使ったりしているのだろう。
りさの話に首だけで相槌はうっていたものの陽菜にはそれが理解できないでいた。
陽菜はりさから手渡されたカセットを両手で顔のそばに寄せ、なんとなく見つめてみる。
踏んだりしてしまえば容易に壊れそうな華奢に見えるクリアパーツで組み立てられた枠の中に、小さな車輪の様なリールが二つあり、黒く細いテープがそれに巻き取られる形で納められている。この小さな黒いシートの中にりさのあの歌声が吹き込まれている。そう考えながら見つめていると陽菜はなんだかちょっと不思議に思えてくるのだった。

カウンターから陽菜を呼ぶクボの声が聴こえた。
陽菜はりさに軽くお辞儀をしてから席を離れる。
りさは片手を上げて挨拶をし灰皿の上で根本近くまで燻っていた煙草を一気に吸い込んで煙を吐くと、再び耳にイヤホンを差してノートに向かった。
(早くコーヒーを用意しなきゃ。)
カセットテープをズボンの後ろポケットにねじ込みながらカウンターへ戻ると、クボが客席から見えない位置の壁に寄りかかりながら腕組みをして陽菜を待ち構えていた。
「新人、今なにか隠したろ?見せたまえ。」
クボはそう言うと、なにかの指導員のように覗き込む視線を陽菜の後ろポケットに向けた。
陽菜がちらとクボのエプロンを見ると、うまい棒のカスが砂を撒いたようにエプロンの腹に大量にこぼされていた。たぶん、さっきの休憩の時にでも食べたのだろう。自分自身のそういう所に全然気付かない癖に、クボさんは私の事を無駄にちゃんと見ている。陽菜は急かす様なクボの視線を体に受けながらお尻のポケットに入れたカセットテープをゆっくりと取り出した。




虚ろな目で二、三回瞬きをした陽菜は電気でも流されたかのように反射的に体を起こすと電光掲示板に目をやった。オレンジ色に光る文字が流れていく。
「東塩釜」「東塩釜」
すぐ流し目に各停車駅の名前が書かれた案内板を続けて見る。
松島、松島は、、あぁ、よかった。乗り過ごしてない。。
陽菜は座席から半分腰をあげた状態でそこまでの動作を素早くこなした。瞬間的に安堵し放心状態となった陽菜の心を表すように、耳から外れたイヤホンが首にかかったまま、ゆらゆらと揺れている。
どうやら窓から差し込む日差しの暖かさと心地よい列車の揺れに後を押される形でいつのまにか眠ってしまったらしい。幸い、まだ松島には到着しておらず、停車駅の案内板によると今停まっている駅は松島の少し手前の駅だった。
目の前で丁度開いていた列車のドアから外を覗くと相変わらず海辺の近くというような印象は見受けられず、どちらかといえば山間部の町という感じだった。
陽菜は座席に改めて腰を降ろすとトートバックの中で一際重たい持ち物を取り出す。
先日の店での出来事をさっき夢に見てしまったのは多分これのせいだ。
陽菜の手の中にあるそれはクボが貸してくれたカセットウォークマンだった。その中に入っているテープは先日りさが店で手渡してくれた物で、再生ボタンを押したままで眠ってしまった為にテープはウォークマンの中で伸びきった状態で止まっていた。
シルバーとコバルトブルーの二色で彩られた本体。
きっと発売された当時はスタイリッシュなデザインだったろうが、陽菜には本体に印字された鋭角なタッチで綴られたシャープな文字達は古くさく感じるのだった。本体の側面に貼られたシールには英字で本体についての説明文のようなものが綴られているが、フューチャーとかマックスとかそういう文字達が大袈裟に並べられているのもなんだかうるさい。しかしそれ故にクボから手渡された時から説明書などを読まなくても陽菜はある程度操作ができていたのも事実だった。見た目はごつくてダサいけど、用途がよく分からない無機質なデザインの現代の物よりは分かりやすくていいのかもしれない。
親指程の大きさのボタンはウォークマンの側面に五つ並んでいて、再生、停止、一時停止、巻き戻し、早送りの記載があった。
ループ再生機能は無いんですか、という質問をしてクボに怪訝な顔をされたことを思い出す。陽菜は大袈裟に飛び出した巻き戻しボタンを押すと伸びきったテープを巻き戻した。テープの巻き戻し音とほぼ同時に列車も前に進み出したようだった。
ふと見渡してみるといつの間にか車内には人が溢れており、あちこちで会話の花が咲いているようだった。祝日というのもあり若いカップルや親子連れが目立つ。
眠る前までのがらんとした車内を考えると、列車に乗った瞬間から今までずっと長い夢を見ていたような感覚を陽菜は覚える。
再びイヤホンを耳に入れようとした、その時だ。

「あれ?!露木さんじゃないすか!」
破裂した様な声が響き、周りの乗客の視線がいっせいに声のする方へ向けられたのを感じる。
陽菜のほとんど真正面辺りから響いたその声は聞き覚えのあるものだった。
陽菜は心の中で深いため息をつく。タチバナくんだ。
返事につまっていると目の前の人物は相手の状況なんてお構い無しとばかりに隣に腰かけてきた。
「偶然っすね!どっか行くんすか。今日は店休みだし天気もいいすからね。最近は寒いし天気悪いし最悪でしたからね。てか俺今日すっげぇ逢いたい人居て、松島いくんすよ。人生初松島でむちゃくちゃ楽しみ。やぁ、でもサプライズで露木さんとも会えるなんてラッキー、てか ――」
タチバナくんはよっぽど陽菜に逢えたのが嬉しかったのか着席するなりまたマシンガンの様な喋りの独演会を始めた。今日の狙撃はいつにも増して激しいと陽菜は感じる。
喜ぶのは彼の自由だが、次第に声のボリュームが少し耳障りに感じるくらい大きくなっていく。
嫌な視線を感じて前を向くと向かいに腰かけていた老夫婦が時折顔を見合わせながらこちらを睨み付けていた。流し目で周りを見てみると他の乗客達もなんとなくこちらをちらちら見ているように感じた。
乗客の視線が集まる中、声のトーンを全く落とす様な気配も無かったので陽菜は身振り手振りで声を下げる様にタチバナくんにジェスチャーをし、瀑布の様な喋りを遮るように声をかけた。
「えっ、、橘くん、松島、、行くの?」
タチバナくんはその言葉を待っていたかのように、そうなんすよ。と、両手を一度叩いてから耳打ちをするように口元に手を添えると囁き声で話し出した。(こんな話し方する人を久々に見る)
「露木さん。俺前にめちゃめちゃ好きなライブ配信者いるって言ったじゃないすかァ。その人がね、なんと、なんと、今日松島で生配信するんですよ!普段は地元でしかやってないんすけど、時々遠征みたいなことしてて、それで今日はドンピシャ宮城県。いやぁぁ、バイトの店休日とカブるなんてこれはもう運命だし奇跡だし行くしかないって感じで、もうテンションがやばくて。」
途中からまた声が大きくなってしまい乗客の怪訝な視線に気付いたのか、タチバナくんは話し終えた後で視線を送っていた人々へ軽く頭を下げた。
「そ、そうなんだね、、よかったじゃん。。」
「うっす。そうなんすよ。だからもう今から舞い上がっちゃって。へへ。」
タチバナくんは金色の頭をかきながら苦笑した。
相席した席から離れる理由やキッカケも見つけられず、結局その後しばらく列車の中で陽菜はじっとタチバナくんの話を聴かされ続けた。さすがに周りに気を使い出したのか最後まで声のトーンを抑えてくれたのが唯一の救いだった。陽菜の頭の中で整理した話の内容はこうだ。
ネット上で誰でも動画の配信ができるサービスに熱中していたタチバナくんは、最近とても応援している女性配信者がいるらしかった。
清楚で品があるような麗らかな見た目に対し、発言や行動がどこか奇想天外という彼女のギャップがどうやらタチバナくんのハートに刺さったようだった。松島に到着するまでの間、どこで調べ上げたのか疑問に思うほど詳細な彼女の経歴なども色々と聴かされたが、もともと話に興味をもてていなかった陽菜は最初に話された事以外は殆どを聞き流していたが、彼女の突飛な名前だけは何故か頭の隅から離れなかった。

サメ肌のはっちゃん。。

陽菜は隣で話し続けるタチバナくんをよそに、窓の向こうの広い空に彼女の顔を思い描いてみるのだった。

松島到着のアナウンスを聴いたタチバナくんは、笑ってしまうほどにさっさと話を切り上げ陽菜への挨拶も奔放に足早に電車から飛び降りていってしまった。こういう勝手な所が陽菜がタチバナくんを苦手に感じる理由の一つだ。
陽菜は思う。どこかでもう何回も経験した感覚だ。こんなふうに人を強引に巻き込んで吹き飛ばしていく感じ。気づくとそんな人たちばかりが身の回りに沢山いた。クボさんもまゆさんも、そしてタチバナくん。
もしかしたら陽菜にはそういう人たちを引き付ける特殊なオーラみたいなものがあるのかもしれない。
松島まではゆっくりりさの歌を聴きながら小説の展開を考えたりしたかったのに、久々の列車はタチバナくんの独演会に振り回される結果となってしまった。
うっすらとお尻の形に窪んだタチバナくんが先程まで座っていた座席を見つめてから陽菜は深く息をついた。言葉で狙撃されている間中ずっと押し溜めていた体の中の空気を全て入れ替えるように、車内に吹き込んだ冷たい外気を吸い込む。陽菜は体にぐっと力を入れて立ち上がると列車を後にした。
プラットホームに設置された「松島」と書かれた駅名看板の上部には、青々とした海とそこに点在する島を写した写真が印刷されていた。
陽菜はその写真を少しだけ眺める。写真の横には「日本三景松島」と明朝体の文字があり、その文字と写真を見ていると景色を目当てに来たわけではないのに、陽菜はなんだかこの場所に観光をしに来た様な気分になるのだった。
駅の自動改札を抜けると、一気に視界は開けた。
観光客を乗せるバスやタクシーが普段は出回っているのだろう、今でこそタクシーは数える程度しか見受けられなかったが車の出入りがスムーズにいくように駅前のスペースはとても広々としていた。広場の中央には円柱に囲まれる形で背の高い看板が立てられていて、外国人旅行客に向けてなのだろう「歓迎」の言葉が翻訳された文字で綴られていた。
陽菜は改めてこの場所が観光地だという事を噛み締める。しかし目の前には大きな一本の道路が真っ直ぐあるのみであの青々とした海は何処にも見えなかった。仙台の様に大きなビルは無く、低い位置で立てられた個人経営の飲食店や民家の様なものがあるだけだ。遮る物がすくないせいでいつもより大きく空が見えるせいか空気も澄んでいるように感じる。
タチバナくんは行く宛てが既にあったのだろう、さっきまで一緒にいた事が嘘みたいに全く姿が見えなかった。陽菜はトートバックからいつもの小説ノートを取り出してページを捲った。中崎からの電話で聴いた目的地を確認するためだ。
「えぇと、、ふくうらばし。か。」
目指す場所を確認しノートから顔をあげた陽菜の挙動を待ち構えていた様に広場に停められていたタクシー達が一斉に口を開けた。職業病というものの恐ろしさを感じる。
陽菜は一番近い位置に停車していたタクシーに乗り込むとポマードでしっかり髪の毛を固めている運転手の男性に目的地を伝えた。
男性は無愛想という程愛想がない訳ではなかったが、タクシーに乗り込む前までの前のめりな誘い方を思うとなんだか素っ気無いように思えた。名の知れた観光地だから陽菜の目的地もきっともう何度も向かっていることだろう。陽菜は走り出したタクシーの窓からなんとなく外の風景を眺めた。

「お姉ちゃん、松島は始めてかい。」
運転手が前を向いたまま陽菜へ声をかけた。
「あ、はい。」
陽菜は窓の外の景色から目の前の運転手の方へ顔を向ける。バックミラー越しに男性と目が合った。
「駅で日本三景って看板の見たと思うけんど、お姉ちゃんが今から行くとこがその場所だよ。」
運転手は少しにこやかに話しているが、日本三景の松島に今居るというのにこれから行くという表現が陽菜にはよく分からなかった。
「三景の松島っていうのはね、松島湾って海に広がってる260個の島の事をまとめて言ってるの。お姉ちゃんが行く福浦橋がかかってる福浦島もその一つ。」
まるで陽菜の頭の中を見透かす様に運転手は付け足す形で話した。
「そうなんですね、私あまり詳しく知らなくて。知り合いがその場所で待っているんです。」
「福浦橋からの景色はすごいよ。海がびゃーっと広がってて。さっき乗せた人にそういうのパノラマっつーんだって教えらった。」
陽菜は運転手の話を聴いて頭の中でそれらを想像はしてみるものの未だに見えてこない海や島々を想像するのは難しく、すぐに諦めて再び外の景気を眺めた。
タクシーは川沿いの道をしばらく走った後、細い道路に入っていった。未だに海らしきものは見えずタクシーを挟むように道路のずっと先まで民家が軒を連ねている。民家の裏を見てみても赤や黄色に色を落とした木々が生い茂っているだけだ。気温の低い時期だというのに寝巻き姿のまま家の庭先で日光浴やラジオ体操をしている老人の姿を何人か見かけた。タクシーに揺られて同じ様な景色をしばらく見ているとなんだかまた眠くなってきそうだったので陽菜は運転手に声をかける。
「あの、海ってまだですか。」
「まってな、お姉ちゃん。もうすぐだ、もうすぐ。」
運転手はどっしりとした声で陽菜を落ち着けるように言葉少なく言った。
そしてそれはすぐに証明された。
海だ。海が見えた。
細い道路を抜けると目の前には観光地特有の混み入った道路とそこに出入りする人々、客引きの声とそして大小様々な店舗が連なっていた。急に賑わいを見せた光景を前に陽菜は自然と胸が高鳴っていた。
どうやら運転手の走ってきた道路とは別に走るこの道路が松島という町のメインストリートなのだろう。タクシーはほとんど渋滞に近い道路に入るとゆっくりと進み出す。
沿道には人が溢れ、皆それぞれ手に何か食べ物をもちながら歩いていた。
しばらくその道路を走ると車は目的地に到着した。
商店街を抜けた先は景色が再び開けていて先程までは木々や車に遮られていた海がよく見えるようになっていた。
海岸から眺める水面は日光を反射してキラキラと光りながらゆっくり揺れていて、遠くの方へ目を向けると幾つかの島々が見えた。陽菜は駅のホームで見た写真を思い出す。
タクシーを降りると「福浦島入り口」と書かれた建物が目にはいる。建物の側面には「cafe ベイランド」と書かれており、どうやら福浦橋への料金所の様な場所であることが見て取れた。少し不思議な組み合わせだがこういった施設の中にカフェがあることもなんだか観光地らしい。この場所でゆっくりコーヒーでも飲みたい所だがまずは中崎達と合流しないことには陽菜は落ち着けなかった。誰かを待たせたくないという意味もこめて待ち合わせには少し早めに現場に到着していたいのが陽菜だ。
カフェの中に入ると券売機が置いてありそこで通行券を購入するようだった。地元山形の山寺にも似たような場所があることを思い出す。
ベイランドを抜けた陽菜は目の前に広がった景色の壮大さに感嘆の声を漏らした。
福浦橋と彫られた石碑を横に目の前に朱色の大きな橋がまるで異世界へ導くかのように陽菜の足元から真っ直ぐに伸びていた。まるで地平線の向こうまで伸びていそうな橋の入り口には真っ赤な柱が両端に立てられ、神社の擬宝珠に似た青緑の飾りが上部に付けられていた。神社の鳥居を前にすると何処か神聖な気持ちになるのと似ていて、陽菜は海の上に架けられたこの橋にも人智を超えた神秘的な力の様なものを感じていた。タクシーのおじさんが言っていたパノラマというのがこれのことなのか分からないが真っ直ぐ地平線の向こうに伸びるこの橋を見ているとすぅっと吸い込まれていってしまいそうだ。木々の生い茂った巨大な岩の塊が屈強な要塞の様に橋の向こうに佇んでいる。陽菜はしばらくその光景を目に焼き付けてから福浦橋を渡り島を目指した。



地産地消という言葉を大切にする料理人が地元松島にある福浦島に、自身の店を開店させたことは地元では少し有名な話しらしかった。都内でも複数の系列店を持つその料理人は、水産資源の大切さを訴える団体にも所属しており料理だけでなくその食材に対しても意識を向ける熱心な活動家だった。
男が福浦島に開店させた店の名前は「GOISHI」
陽菜は今その店の前に立っていた。
松ノ木やカエデが自生する島の中腹にその店はあった。
今日の日の参加者らしい人々が陽菜のそばで店の主の話をしており、偶発的に陽菜はこの店の生い立ちを知るに到ったのだ。食材へのこだわりという言葉を聴いてパスタの話をしていたクボを思い出す。この店の厨房に立つ人もクボさんみたいな人だったら面倒くさいなと陽菜は思った。

「露木さん」
いつの間にか陽菜のそばには咥え煙草をしたゴリランジェロこと中崎が歩み寄っていた。
見知らぬ土地で一人だった陽菜にようやく安堵の瞬間が訪れる。
「すみませんねえこんな遠いところまで。こちらの都合で色々と立て込んでしまってて一緒にここまで来れなくて申し訳なかった。」
中崎は詫びる様に頭をかいた。夏場に履いていた下駄はさすがに寒いのか今日は紺色の革靴を履いている。
中崎はポケットから携帯灰皿を取り出すと煙草の火を消した。
「さぁさぁ、店の方には話してありますから中へ入りましょう。」
中崎はそういうと陽菜の背中をぽんと叩きGOISHIの店内へ導いた。
「あれ、中崎さん、でもあの外の人たちは――」
陽菜は自分より先に到着していたであろう数名の客人の事が気になり中崎を呼び止めた。
「ん、あぁ、彼らのことはよく知らないんだ。なんなんだろうねえ。どこか別の団体さんじゃないかな。」
中崎は我関せずとあっさりそう呟くと陽菜を置いてさっさと中へ入っていってしまった。
時刻はまだ昼前。今日の会の参加者でないなら島の観光客だろうか。それにしても島を散策するでもなく店の前でこうして集まっているのはなんだか妙だ。一体なんの団体なんだろう。
陽菜は背後の人々の存在を気にかけながらも中崎の後を追って足早にGOISHIの店内へ足を踏み入れた。


自費出版の経費などを考えています。