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たたかうより難しいこと

ままならないことはたくさんある。
仕事でも思い通りにいかないことは無数にある。
ただ、自分の努力でなんとかなることなら、まだ救いがある。もしできないなら、もっと努力するか、あきらめるか、そのいずれを選ぶのかを決断すればいい。

今まで出来うるかぎりの挑戦はやってきたと思う。それでもダメだ、とあきらめたこともある。あきらめて再挑戦したこともある。

今まででもっともままならず、なおかつあきらめることもできず、もがき苦しんだ時期がある。

私にとってのそんな「最悪期」は、第一子の出産とともに訪れた。

人生の「予定外」

大学に通っていた時期を経て、結婚、妊娠、出産までは怒涛の日々だった。
大学を卒業したら再就職しようと安易に考えていたのだが、再就職を待たずして妊娠したのだ。
妊娠は喜ばしいことではあるが、予定外のことでもあった。そもそも子どものいる人生なんて考えたこともなかったし、当然ながら産後のキャリアプランなど考えもしなかった。

10年前、メディア業界の女性といえば独身が大半で、子どものいる記者はほとんどいなかった。
私の場合、出産前にフリーランスになっていたため、会社員を続けていたら子どもが1歳になるまでもらえたはずの育児休業給付金が出なかった。そのため、出産手当金が切れる産後3か月以降はお金がなく、貯金を切り崩し、半年後には精神的にも金銭的にもかなりナーバスな状態に陥ってしまった。
(なお、このときの辛い経験が、その後フリーランス協会で活動したいと考えた動機になる)

夫は新卒社員で、家族3人暮らしていける稼ぎもない。加えてブラックな働き方をしており、連日残業、たまに夜勤もある激務で、家庭のことはまるで関わらなかった。
しかも、夫も私も親は遠方住まい。暮らしたことのない県の郊外に引っ越したばかりで、知り合いもいなかった。

子どもを誰かに預かってもらうという選択肢もなく、産後半年は髪を切りに行くことすらできなかった。自業自得とはいえ、出産するだけでこんなに苦労することになるとは想像もつかなかった。

たとえかつてキャリアがあったとしても、一度出産してキャリアが途切れると、転職市場では「専業主婦」として取り扱われる。今ならWarisさんが「ワークアゲイン」という取り組みをしているが、こうした企業が出てきたのはここ数年のことだ。

転職市場は無職にシビアだった。

自分に向いているであろう仕事はやはりメディアだろうと自己分析していた。とはいえ、編集職の仕事経験は短く、このスキルで就職するのは難しそうだった。
経験が多少あった記者職だが、こちらは基本的にはイレギュラーなスケジュールの中で働く仕事だ。残業は当たり前。あちこち出張があり、スケジュールは毎日のように変わる。突然の出来事に対応して、急に原稿を書かなくてはいけなくなることもよくある。

そうなると、現実的にネックとなるのが保育園の送り迎えの時間帯だ。

マスコミというのは、朝はやや遅いが夜も遅い。保育園というのは朝は7時、夜は19時までが基本だ。保育士のみなさんもまた女性が多く、家事育児を担っている家庭が大半なのである。

19時以降も子どもを預けることが可能な園もあるが、都心でバリキャリが多いエリアならともかく、郊外には0歳児を夜間に預ける家庭は当時ほとんどなかった。当時の自宅からは都心まで通勤時間で2時間近くかかる。19時のお迎えに間に合わせるためには、定時が17時の会社で、かつ定時ちょうどにダッシュで帰らせてもらわなければならない。

私が経営者なら、わざわざそんな人を雇わないし、マスコミにはそもそもそんな定時の会社はほとんどない。

元の世界には戻れそうもなかった。
絶望した。

でも進まなくてはいけなかった。

余談だが、慎重に考えれば、今日本で働いている女性が何の制約もなく働き続けたいと思うなら、結婚しないほうが合理的に正しい。それは今もそうだと思う。

制限の中の「目いっぱい」

こうして私が選んだのは、中堅出版社の派遣社員だった。
派遣社員であれば、マスコミでも残業がないという条件の仕事があることに気づいたのだ。

加えて、その出版社がホワイト企業であることは以前どこかで聞いたことがあった。しかも、勉強したいと思っていた編集職での募集であった。

まだ面接を通ってもいない募集段階で、保育所を探さなくてはならなかった。派遣社員というのは「すぐ来てほしい」と言われるものである。面接で「子供を預ける場所はこれから探します」では受からないだろうと考えたのだ。

片っ端から近所の保育所に電話をかけると、0歳児枠が来月たまたま空くという小規模な認可外保育所を見つけた。

当時から待機児童問題はクローズアップされつつあり、どの認可園にも何十人もの待機者がいた。そんな中、空きがある保育所を見つけるとは、なんとラッキーなのだろう!と、状況的には最悪もいいところの私は思った。仕事が決まってもいないのに、来月から入所したいと申し出た。

たぶん、待機児童問題のある自治体に暮らしている働く親は、みな似たような体験をしているだろうと思う。本当に、必死なのだ。

仕事が嫌いなら、他に手があったかもしれない。夫は今も、「仕事がつらくて家で愚痴を言うくらいなら、仕事なんかせずに家にいてほしい」と言っている。

でも、「仕事をしていれば夫よりもっと稼げるはずなのに、どうして私の方がキャリアを諦めなければならないのだろう?」という思いはつきまとった。
正直に言えば、私は単純に悔しかったのだ。自分の生きたいように生きていけない人生に。

再就職は一筋の光であった。私は面接を通過し、派遣社員としてメディアの世界に戻ることになった。

残業がしたい

派遣先は、富裕層向けの会報誌を作っている小さめの編集部だった。

編集経験は多少あったが、アートディレクターのいるデザイン事務所にお邪魔したり、ライターさんやカメラマンさん、イラストレーターさんにお願いする仕事をまともにやったのはこのときが初めてだった。新しい世界に踏み出せた、そんな気がした。

子どもはというと、とにかく私のそばを離れたらすぐに泣いてしまう子で、預けるときは本当に申し訳ない気持ちでいっぱいだった。こんなに泣くのは、早くから保育所に預けたからかもしれない、と日々思い悩んだ。(2人目育児で、それは個人差だったと判明する)

通勤時間は2時間。帰宅時の最後の20分間は、ベビーカーを押しながら暗い急坂をとぼとぼと歩いて登った。途中、子どもがベビーカーに乗るのが嫌だと泣けば、10kgを超える子どもを抱っこ紐で抱え、ベビーカーに通勤バッグを乗せて歩いた。雨が降る日は特に陰鬱な気分になり、とぼとぼと歩きながら夜道で泣いた。

ただ、職場はいい人ばかりで、会社に通うことは本当に楽しかった。保育所からの呼び出しの電話があっても、「すぐ行ってあげなさい」と送り出してくれた。

当時の編集長に、「なぜ私みたいに条件の悪い人を取ったんですか」と聞いたら、「条件がいい人はいたんだけどね、なんかあなたを取ろうってことになったんだよね」と笑いながら話してくれた。この編集部の人たちには、未だに感謝してもしきれない。

実は息抜きに会社に行っていた、と言ったら叱られてしまうかもしれない。でも、私にとっては仕事より育児や家事の方がずっと苦手だったから、仕事は本当に趣味以外の何物でもなかった。もっと残業したかったし、出張にだって行きたかった。 

100%の体力と時間を仕事に費やすことはできない。だからこそ、50%の体力と時間でどこまで仕事の質や量を100%に近づけることができるのかを常に考えるようになった。

私の中の「優先順位」 

ただ、会社なら私の代わりは見つかるが、子どものお迎えの代わりはいなかった。

それを思い知ったのが、東日本大震災だった。

子どもは1歳を過ぎ、ようやく歩き始めた頃だった。その日は、子どもが周囲でもまったく流行っていないおたふく風邪にかかっていて登園停止になっており、たまたま仕事を休んでいた。

子どもと家にこもっていたら、東日本大震災が起きた。

夫はこういうときこそ家に帰れなくなる職種であるため、子どもを守るのは私しかいない。余震も怖いし、原発の様子も恐ろしかった。でも、子どもには私しかいなかった。

テレビには、帰宅難民の人たちの列が映っていた。もしこの日会社に行っていたら、私が子どもを迎えにいけたのは翌日の朝だったかもしれない。帰宅難民に混じって、とぼとぼと歩く自分の姿を何度も想像した。

派遣先の計らいで、その日から2週間は給料をいただきながら自宅待機になった。ホワイト企業という噂が真実であったことに感謝した。

震災を機に、「悩んだら必ず子どもを優先する」という優先順位を決めた。
そんなの当たり前だと思うかもしれないが、実際にやってみると結構悩む場面は出てくる。

もしかしたらこの後とんでもない仕事のチャンスが来るかもしれない。本当に追い詰められた時、その二つを天秤にかけたら、きっと判断に迷いが出る。初めから決めておかないといけない、そう思ったのだ。

ただ「待つ」ということ

正社員の「ライン」から外れてしまい、無職、専業主婦、派遣社員、その後はアルバイト、契約社員などもやってみた。転職回数もめちゃくちゃ増えてしまい、履歴書だけで落とされる自信がある。

でも、書く仕事はその間も細々とずっと続けてきた。二人目の子を産んだあと、育休明けの雇い止めに遭いそうだった私を、編集者の知人が私を拾ってくれたことで、フリーランスとして一本立ちできるようになった。一人目の出産から6年が経っていた。

“元の場所に戻る"ために、もっとあがく方法は他にもあったかもしれない。たとえば、いっそ離婚してひとり親になり、補助の手厚い自治体に引っ越してしまうという手もあった、そんなことを考えたことは一度や二度ではない。あるいはまったく違う業界で働き始めてもよかったかもしれない。

でも、私はただ子どもの成長を待つことにした。私のキャリアがここで潰えてしまうなら、それが私の実力だと思った。手持ちのカードで最善を尽くすのだ。

待つことはあらがうこと、戦うことよりずっとしんどい。いつその状態が終わるかもわからない。本当に、トンネルの中を歩いているような、そんな気分になる。このまま人生が終わってしまうかもしれない。それでも、種を蒔き、心の準備をして、じっと待つ。いつか手持ちのカードでも戦える日が来る。

結婚して出産し、キャリアが途切れた。子どものいる人生を選ばなかった場合と比較して、どちらが幸せになったかは全くわからない。どちらにもそれ相応の幸せがあり、困難があったと思う。

ただ、自分一人でいる時よりも判断しなくてはいけない回数が増えるので、ままならないことは今の方が多いだろう。自分がやりたいことについては、「今日の晩ご飯は魚が食べたい」レベルの小さな選択を含めれば、何千何万回と自分の欲を諦めることになる。

でも、本当にやりたいことをやるために、そのときの最善の道を進み続け、来るべき日を待つこともまた選択肢の一つだと思うのだ。

私は、「輝く女性」や「女性活躍推進」という言葉に心底辟易している。女性だけじゃない。何らかの事情で自分の欲に蓋をしなくてはならない人は皆同じで、自分のやりたい仕事を続けたいと思うだけで、思うようにならない現実に対して、本当に、くたくたでへとへとになっているのだ。

「輝く女性」の裏にあるのは「輝いていない女性」だし、「女性活躍推進」の語の裏にあるのは「活躍していない女性」だ。言葉選びとして失礼だろう。やりたいことを諦めないだけで、めちゃくちゃ頑張っているのに。

現実は変えられない。でも時が経てば、前提条件が変わり、新たな道ができる日が来るかもしれない。待機児童問題とか、同一労働同一賃金とか、この10年で見れば行政レベルでもかなり変化はある。コロナの影響でリモートワークが定着した会社も多い。ずっと変わらないことは、意外と少ない。

大事なのは、結局自分で勝手に諦めてしまわないことなのだろう。自分くらいは、自分を信じ続けてあげられたらいいな、と思う。
まだ目指しているところからは遠いけれど、諦めないで進みたい。

After all, tomorrow is another day.


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