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大学へ行こう

こんなまとめを読んだので、法学部と文学部に行った話を書こうと思う。

「つぶしがきく」という理由で、経済学部や法学部に子供を進学させたがる親がいる→その価値観が内面化された結果、生まれる悲劇の話

大学に2度通う

28歳の時、大学に社会人入学した。

26歳の頃、出版社から転職したのち、とある企業の上場準備室で仕事をしていた。
毎日Ⅰの部(新規上場申請の有価証券報告書)の書類とにらめっこし、証券会社が来る前はコピー機の前を陣取り、朝から晩まで印刷し続ける。特段悪い会社ではなかったのだが、自分がこの作業に合っていないことに気づくのに、そう時間はかからなかった。

就職氷河期に就職したが、転職する頃には景気も上向き、転職市場はそこそこ動いていた。しかし、第一志望の会社に就職し、そこで働いていたのに体を壊して辞めた自分には、それからやりたい仕事も見あたらなかった。

幸いにも、そのころ多少貯金があったため、まだ何かチャレンジはできそうだと考えた。
当時は自分探しをするために旅に出る、と言う人も多かった。とはいえ、知らない土地になじむのが苦手な自分には、旅はハードルが高すぎた。

そんなとき、学生時代に叶わなかった夢のことを思い出した。

「あの時、別の選択をしていたら」の呪縛

小学生の頃読んだ「枕草子」に出会って以来、平安貴族文化と、和歌や古語の世界にどっぷりとハマり、憧れた。理由はわからないけれど、古文の授業は教師の話を聞かなくても内容は大体分かった。短歌も自分で詠んでいたが、文語の文法は意識しなくても使えた。
英語はどんなに勉強してもさっぱり話せないことから考えると、言語というものには相性もあるのだろうとも思う。

進学するなら早稲田大学の第一文学部しか行きたい大学はなかった。大好きな歌人・俵万智さんの出身学部であるということと、中学生の頃から演劇娘で、第三舞台を生んだ早稲田に行きたかったことからだ。

しかし、進学のための上京には両親が強く反対した。前にも書いたが、大学進学自体が親族の中でレアケースで、「自宅(関西)から通えないところになぜ行くの?」というシンプルな理由だった。早稲田大学のことを両親はよく知らず、大学といえば東大と京大で、他は全部「その他全般」という認識のようだった。
下宿には親の同意(理解)がないと不可能だと考え、関西圏の大学に進学先を絞ることにした。

高校生の時期からすでに就職氷河期のニュースが流れていたため、進学時点で就職を考えて、自分で大学も学部も選ばなくてはならなかった。

国語の成績だけが異常に良かったので、教師あるいは新聞記者が向いているのかなと思っていた。相談する大人があまりいなかったので、職業をあまり知らなかったのだ。ただ、人にものを教えても理解してもらえないことが多く、教師は選択肢から外した。

そうなるとマスコミだが、もともと門戸が狭い上、当時は就職氷河期で募集そのものがない会社も多かった。

特に文学部の就職率は非常に悪いと聞いていた。数学が全くできなかったので、現役合格するなら私学への進学しかなかったのだが、私学のパンフレットをかき集めて就職先一覧を見て、文学部は早々に諦めた。マスコミに進学している卒業生自体がほとんどいなかったのだ。

その年、マスコミへの卒業生がいることがわかったのは立命館大の法学部だけだった。全く興味はなかったが、これを第一志望とし、合格した。

そんな理由で入学したので、何一つ興味がわかない。卒業まで大して勉強もサークル活動もせず、上京資金を貯めるためにバイトに明け暮れた。京大の短歌会の友人とつるんだことが一番の思い出というくらい、立命館の思い出はない。(これは自分にこだわりがなかったためで、一般的にはとても良い大学だと思う)

……前置きがとても長くなったけれど、そんなこんなで文学部への未練はずっと尾を引いていた。28歳の自分探しの旅として、私は社会人入学で文学部に入ることを決意したのだった。

学びたいことを学んでわかったのは「限界」だった

社会人入学と言っても、一度どこかの大学を卒業していれば「学士入学」して3年次から編入できる。編入試験のための予備校もあり、試験内容の入手のため短期間だけ通った。

大学院に行くという手もあったのだけれど、文学部出身ではないため、文学の研究のやり方が全くわからない。そんな状態で大学院でやっていける気はしなかった。

それから、学士入学試験に合格し、私は國學院大学で学生たちに交じって国文学を学ぶことになった。(残念ながら早稲田の文学部は再編され、一文も二文もなくなっていた)
会社も退職して無職になり、食いつなぐためにフリーライターを名乗った。
フリーランスになったのは、学生になって定職につかなかったためなのだが、結局そのまま10年以上個人事業主を続けているのだから不思議なものである。

はてさて、一度卒業してから入りなおした大学での経験が、その後の人生を一変させてしまった。学びたいことを学ぶことでわかったのは、自分の限界だった。

私は現代短歌の世界で、角川短歌賞の最終選考に残るなどそこそこ実力もあると思っていた。
だからこそ、大学に入って勉強したいのはやはり和歌だった。國學院はどちらかというと万葉集の研究が盛んで、あまり和歌の解釈論や物語の授業は多くなかった。
それでもようやく念願が叶い、新古今和歌集の講義を受けることができた。学生はそれぞれ担当の歌を割り振られ、その解釈を自分で行って発表するという講義だった。私は藤原定家のとある歌の担当に当たった。

31音しかない1首の解釈をするために、何冊もの解説本をかき集め、その歌の意図を丁寧に紐解いていく。同じ歌でも他の歌集にも収録されていることもあるので、そちらも引っ張り出して読む。歌によっては、別の歌集を見ると、歌が詠まれた背景がわかることもあるからだ。本によって解釈が異なったり、いくつかの説が見つかったりする。実学とは異なる研究のアプローチにはさまざまな発見があった。

それで、その担当した歌を調べて驚いた。たしか、5つ以上の歌の本歌取り(古歌を取り入れて歌を作る手法)がなされていて、引用したそれぞれの歌の背景が重なり合い、かつさまざまな歌のテクニックも使いながら、叙情的に想いを訴えていたのだ。

定家は小倉百人一首の編者でも有名だが、とにかくその知識量が半端ではなかった。和歌は政治家の嗜みであるが、定家ほどの人物は後にも先にも見当たらない。国語の教科書で「新古今和歌集は技巧的」と習った記憶はあるが、技巧的とはつまりこういうところなのかとその時ようやく理解した。
そして思った。

ああ、自分の歌はなんて薄っぺらいのか。

自分の勉強不足を恥じいるとともに、こんな先人がいる世界で歌を詠みつづけることは今後はとてもできない--心の底からそう思った。私は「知らなかった」からこそ続けられたのだ。

一応言っておくと、これはあくまでも私が自分の歌に対してそう思っただけだ。現代短歌は和歌とは異なる文化であるし、比較するようなものではない。素晴らしい短歌は山ほどあり、短歌に対しての尊敬の気持ちは今も変わらない。

大学に来て良かった、とそのとき思った。やりたかったことをやれなかった後悔を払拭させ、その上で自分に向いていることがこれではないとあきらめ、受け入れることができた。また、今までの自分にはいかに傲りがあったのかにも気づかされた。

この発見が、その後の人生の方向を定めさせるきっかけになった。従来真面目で慎重で悲観的な性格で、かなり近い関係の人としか本音で話すこともできなかったが、この頃から憑き物が落ちたかのように、正直に、明るく振る舞えるようになった。

10歳近く年下の同級生たちとの学生生活も楽しかった。何の肩書も持たない小さな存在としての自分に、学生たちは色眼鏡なく“普通に”接してくれることにも救われた。学生たちのオールの飲み会に参加してみたり、女の子たちの恋バナを聞いたりしたことなど、何もかも新鮮だった。余談だが、夫とはこの時期に出会った。大学に行かなければ絶対に接点がなかったはずだ。運命というのは本当にわからない。

お金もないけれど、何のしがらみもなく、好きなことを学び、何の我慢もなく、効率など考えずに、だらだらと一日を過ごした。30歳を目前にして、青春のやり直しをしていた。そして、限界も知った。

リセットではなくリスタート

人生のやり直しはできないけれど、青春だとか就職だとか、あるいは恋愛とか結婚とか、そういう一つ一つの項目については、別に何度やってみたっていいはずだ。

大学には私よりもっと上の世代の、定年後と思われるような方々もいた。そういう人のほうが授業にも積極的で、最前列で手を挙げて質問して目立っていた。そりゃそうだ、勉強したくて大学に来ているのだから。現役時代はとりあえず卒業できたらいいやという程度の成績だった私でも、國學院での成績はかなり良かった。

学びたいことがあるなら、取り掛かるのに遅いということはない。学びたいことがなくたって別に構わないとすら思う。自分の能力を伸ばすための材料として、必要なことだけを効率的に学ぶ、という最近の風潮は窮屈すぎる。大学に限らずだが、学ぶ場所には自分が学びたいこと以外のセレンディピティに溢れている。

今後機会があるなら、また大学に行って学びたいと思う。人生はどうなっていくかわからない。新しいスタートはいつも目の前にある。

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