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聖徳をまとう_三/地を這う(1)

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  ◇

 四肢の関節の痛みに耐えかねて目が覚めた。頭上から差し込む薄明かりが二日酔いの脳髄を刺激する。仰向けのまま、あたりに視線を巡らせた。ハスラーの車内だ。エンジンはかかっていない。私は後部座席のシートに手足を曲げた窮屈な姿勢で横になっていた。

 頭を起こして窓外をうかがうと、ジビエ料理店の外観が見えた。瓦屋根の上には白々とした朝ぼらけの空。どうやら昨夕に停めたコインパーキングから動いていないらしい。ということは、店で酔い潰れた私を車内に運び込んでくれた人物がいるということだ。うっすらと事情が飲み込めてきたところで、運転席を見やると、傾けたシートの上で横谷肇が寝息を立てていた。

 スマホで時刻を確認すると五時だった。肇を起こすのもしのびないが、かと言ってこのまま出て行くと車のキーが開け放しになり不用心だ。どうしようかと逡巡していると衣擦れの音にでも反応したのか、肇が上体を捻って後部座席にしかめ面をのぞかせてきた。

「秀太さん、もしかしてずっと俺が起きるの待ってました?」

 眠気が抜けないのだろう。目をしばたたかせながら両腕を上げて背筋を伸ばしている。

「いや、僕も今起きたところやよ。それより申し訳なかったね。僕がつぶれたからここで待ってたんやろ、住所も言ってなかったし。香苗さんは帰ったの?」

「はい、姉ちゃんは終電で」

「そうか。僕も失礼するわ。駅も近いからここで別れよう。改めて昨日はありがとう。楽しかった」

「いえ、こちらこそ。僕はこのままもう少し休んでから帰ります。バイトは夜からやし」

 言うや、ヘッドレストに頭を預け、肇は既に目を閉じている。

「じゃあ、また」

 車を降りて、冴え冴えしい朝の空気を吸い込んだ時、

 ――姉ちゃんのことお願いしますね

 昨夜の記憶が蘇る。背後から肇の声が聞こえた気がした。

  ◇

 近鉄古市駅の上り線ホームに降り立った。閑散とした駅構内の様子を見て今日が日曜の朝であることにようやく思い至る。この時間ではコンビニはともかくスーパーもまだ開いていない。とりあえずアパートに帰って寝直そうか。そう算段しながら何気なくスマホを見ると、起きがけに時間を確認した時には気がつかなかったが、不審なメールが届いていた。受信は昨夜だ。

 そのタイトルは――

『ご予約ありがとうございます』
 続く日付は今日。六月二十三日。反射的にタップしていた。

 ライフ&ビジネスコンサルタント
 キャッスル・インフィニティ
 ご予約確認メール
 藤村 秀太 様

 下記コースおよび日時にてご予約を承りました。お客様とのご縁をスタッフ一同楽しみにしております。

 ご予約コース その他カウンセリング
 日時・会場 云々――

 まるで覚えは無いが、何らかのカウンセリングの予約を私が取ったことになっている。それも今日の午後だ。

 電車を見送ってホームのベンチに腰掛けると、メールに記載されていた主催団体らしき名称をスマホで検索する。ヒットするウェブページは多数あったが、私は上位に結果表示された会社の代表者ページを開いた。

 八城宗光。大学在籍中からCGアーティストとして活躍。卒業後、デザイン制作会社として、(株)キャッスル・インフィニティを設立。現在はデザイン制作事業のほか、アーティストとその支援者をつなぐコミュニティスペースの運営や、自身の経験を活かしたコンサルタント事業も展開。新進気鋭のアーティスト実業家としてメディア出演多数。大阪府出身。

 どこかで聞き覚えのある名だとは思っていたが、「新進気鋭のアーティスト実業家」だったとは。紹介ページに掲載されている写真の中で、八城は柔和な笑みを浮かべている。藤井寺の白亜の邸は本宅なのだろうか。東京の仕事も多そうなので、その方面にも住居を有していると考えるのが自然か。

 そして、私に送りつけてきたこのメールの意図は。迂遠なメッセージではあるが、つまりは、「来い」ということか。

 アパートには戻らなかった。上りの準急電車でそのまま大阪阿部野橋へ。「予約」の時間までは駅前のハンバーガーチェーンに居座ることにした。

  ◇

 そして、午後二時。私は空に近い場所にいた。国内有数の高さを誇る超高層ビル、あべのハルカス。そのオフィス棟二十五階にあるレンタルスペースの一室が「会場」だった。エレベーターを降りてすぐ正面の扉の脇にスーツ姿の女性が控えていた。自然と目があう。

「えっと……カウンセリングで。予約していた藤村です」

「ようこそ。お待ちしておりました。こちらにどうぞ」

 スーツの女性が慇懃な態度で押し開けた扉の向こうは一見したところ就職面接の会場のようだった。乳白色の天井と壁に包まれた落ち着いた空間は普段はセミナールームとして使われることが多そうだ。目算で三十帖は下らない。

 部屋の中央には簡素なパイプ椅子が一脚置かれている。そこから四メートルは離れて椅子と対面するかたちでスチール製の長机が設えられていた。長机の向こうでは、やはり私をこの場に招じたであろう人物――八城宗光が頬杖をつき、立ち尽くす私を三白眼で睥睨している。その隣にもうひとり。八城に寄り添うように黒髪の楚々とした女性が腰掛けていた。

 背後でゆっくりと扉の閉められる気配がした。私がその場から動かずにいると、

「そちらの椅子におかけください」

 と、八城の隣の女性が平板な声で言う。

 ふたりの背後の壁は全面ガラス張りになっており、視線を上げると大阪南部の街並みとそのはるか先の湾を望む。高い位置から溢れ広がる暖光に目をすがめながら、やむなく私は座面に尻を沈めた。

「藤村さん。来てくれてありがとう。まずは改めて――」

 部屋の主が相好を崩した。雲が晴れたのだろう、背後の全面窓からひときわ強い陽が入り、その表情に影が差す。さながら後光のようだと私は思う。

「八城です、よろしく」

 ラメの入ったブイネックシャツの上にノーカラーの麻ジャケットをマントのように羽織っている。八城は今日も黒づくめだった。

「こちらは私の秘書の岡部華くん」

 と、女性に顎を向ける。

「岡部です」

 岡部華はツイードジャケットを重ねたシャツワンピースの裾を両手で直しながら立ち上がった。年は私と同じ三十代後半くらいだろうか。切り揃えられた黒髪の下で潤みがちな瞳が揺れる。

 隣で直立する華を一瞥して、八城は満足げに喉を鳴らすと口を開いた。

「こんなかたちで呼びつけて悪かったとは思ってるんだよ。ただ、私もこう見えて多忙でね。無礼ではと思いつつも、お互いの時間効率を優先して私の仕事場に来てもらうことにした」

「八城さん、有名人だったんですね。昨日は気がつきませんでした。ところで、私の予約はカウンセリングになってましたが、もしかしてお金を取られるのですか?」

「本来なら時間あたり三十万円……と言いたいところだが君は無料だよ。私のほうが用があって呼んだわけだからね。安心してもらっていい」

「それはどうも。ちなみに正規料金で予約する皆さんはどんなことを八城さんに期待してここに来るのですか?」

 不躾な言動に取られるかと思ったが、構わない。はじめから私にとっては不本意な面談なのである。露悪的な素振りを隠すつもりはなかった。

「様々だよ。構想している新規事業について意見が欲しいと言われることもあれば、手垢にまみれた人生相談だってある。制作した絵やCGを持ち込んで私の感想が欲しいという学生もいる」

「八城さんの声を聞きたい、と」

「そういうことになる。金銭は信用の対価だからね。アーティストとして出発した私だが、支援者とのマッチングビジネスが大きくなってからは実業家としての顔にスポットを当てようとする向きも多い。まぁ、私としてはどちらでも良いことなんだが。請われればどんな分野であれ助言は惜しまないさ」

 髪を手ぐしで整えながら、八城は唇を湿した。

「託宣みたいなものでしょうか」

 皮肉まじりに言ったつもりだったが、意想外に八城は気取った感じのする苦笑いを浮かべた。

「藤村さん、面白いことを言うね。託宣か。なるほど」

 くつくつとひとしきり喉で笑うと、

「華くん、いいかな?」

 隣に立つ秘書を見上げた。岡部華は神妙な仕草で主に頷き返すと、私のほうに向き直り、くいと顎を下げた。そのまま自身の下腹に手を当て、そぼめた口で息を吐く。

 一呼吸おいた後――部屋全体を覆い包むかのような力強い歌声が朗々と響き渡った。

 耳馴れた触わりの良いメロディと詞。御神の愛をば――ポピュラーな賛美歌だ。強い情動を伴った華の清冽な唄声が張り詰めていた私の精神を弛緩させていく。つかのま、私は現実を忘れ、ただひたすらに音の世界にたゆたう。

 まさかこのような空間で――都市を見下ろす全面ガラス張りを前にして玄人はだしの生唄を聞くことになるとは思わない。出し抜けな展開に気圧された私は目を白黒させるしかなかった。他方、時間にして一分ほどの歌唱を終えた華は胸の前で両腕を抱き肩を大きく上下させている。

 暫時の静謐を挟み、八城が芝居がかった仕草で音も無く両手を重ね打った。

「どう? こんな場所で何ごとかと思ったでしょう。それがいいんだな。非日常が感性を刺激する」

 そう言ってまた含み笑いをする。

「藤村さんはカストラートってご存知かな。去勢された男性歌手たちのことさ。十六世紀から十八世紀のイタリアで一世を風靡した彼らの美声は天使の歌声と称されたそうだ。まさに天使は性差を超越するということだろう。あ、岡部くんは心身ともに女性であり、私の知る限りヘテロセクシャルだよ。何を言っているのかって顔をしているね。つまり、天使のような――容姿ではなく才能を持った人物が私のもとに集まってくれて、私はとても彼らに助けられているということを言いたかった」

 華はそそくさと座り直すと、隣にいる八城を羨望のこもったまなざしで見つめている。その口元には凪のような微笑。

 八城は悠然と両手を組んでその上に顎を載せた。困惑する私を気にする素振りは見せない。

「さて――本題に入ろう」

  ◇

 八城宗光のまなじりから笑みが消える。私は膝上の拳を握り生唾を飲んだ。

「昨日は取り乱して失礼した。混乱していたんだ。わかってほしい。何しろ妻のことだからね。そのうえで、私が君に望むことはひとつだ」

 刹那の静寂さえ嫌うように華の空咳が室内に響いた。

「君にとってはつらいことかもしれないが義理の両親に君の口から妻の自殺の真実を伝えてもらいたい」

「義理の両親。つまり、ユ――いや。澄子さんの両親ですか」

「そうだ。妻とは少々不仲な時期があったものでね。義両親は家庭内不和の行き過ぎから私が妻を精神的に追い込んだというふうに思い込んでいる。誤解されているんだよ。実際は、藤村さん、君の不埒な行為が――」

「それだって本当かどうかは――」

「君がやった。君がやったんだ」

 私の言を遮り糾弾する男の表情は真に迫っており、その口ぶりはよどみない。気圧され二の句を継げない私を前に八城は続ける。

「冷静に考えてほしい。君にとってはそれほど悪い話じゃないはずだよ。近年、ストーカー行為は非親告罪になったが、とはいえ、実際が明らかになったところで今となっては君を何らかの罪状に問うことは極めて難しい。それくらいわかっている。ただ、罪の意識を吐露してもらいたい。それだけなんだ。私と、私の家族のために」

「もし断ったら――?」

 脇の下にじっとりした汗を感じる。

「私の影響力と発信力はもう理解してくれているはずだが」

 八城は憂い顔でため息をついた。

「罪に問えないとしても世間に喧伝することは出来るだろうね。君の、愚かで浅はかな行為を。そのほうが君はつらいだろう」

 窓外の陽が陰るとともに八城の彫りの深い顔立ちが暗く沈み、そして愉悦の色が浮かんだように思えた。

「お願いします! 藤村さん」

 突如、八城の隣に控えていた岡部華が凜とした声を発した。引き結んだ唇が緊張のせいかわなわなと震えている。

「八城さんのことを理解してください。どうかお願いいたします」

 突きつけられる彼我の差。八城と私とでは、社会的地位が違う。格が違う。徳が違う。これは、いわゆる、詰み――罪なのか。私は目を瞑り、息を細く吐き、そして顎を引いた。

 そう、これは善行なのだ。決して威嚇に屈するのではない。ユミ、すなわち澄子の自死に対して直接の責任こそ私は認めたわけではないから。いや、そもそもこれが威嚇ではと感じ受け止めること自体、私の邪推なのかもしれない。

 私は、私の行為と澄子の自死との因果関係を認めていない。しかし、私の行為が他者の家庭に痛ましい変化をもたらす契機のひとつになった可能性までは否めない。その意味合いで幾分かの自責の念は抱いている。よって、これは――愛する妻の死に煩悶するひとりの男と、その家族に向けた善行なのだ。

「――わかりました」

「ありがとうございます」

 俯いた華の肩口から黒髪がこぼれた。八城は隣席の秘書の様子を一瞥すると、 

「理解してもらえたようで嬉しいよ」

 と浅黒い頬をほころばせた。

「澄子の両親とは近々に会食の場を設けるから藤村さんもそこに同席してもらいたい。またすぐに連絡するよ」

 全身を重たく感じながら私はゆっくりと首肯した。


――続(三/地を這う(2)へ)

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