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聖徳をまとう_五/女王の墓

  ◇

「六角堂?」

 肇が唐突に私に問いかけてきたのは石段を降り始めて奇しくも六段目に足を掛けた瞬間だった。

「はい、六角堂です。秀太さんは知りませんか?」

「聞いたことはないな」

「京都の六角堂です」

 平坦な声でそう繰り返す肇を見返しながら、私の脳内ではその名のとおり六角柱の時代がかった御堂の姿が像を結んでいた。

「寡聞にして僕はそれを知らないけど、どうして今それを?」

「今だからですよ。まぁ、それは後で説明します。六角堂――寺名は頂法寺ですが――は聖徳太子が建てたと言われる古刹で、その初代住職は小野妹子です」

「ほお」と、思わず私は嘆声をもらした。

 曰く、用明天皇の時代。四天王寺建立のための材木を求めて聖徳太子は京都を旅していた。道中、池で沐浴をしていたところ、持参していた念持仏が太子に語りかけたという。この地に留まり人々を救いたい、と。太子は念持仏に言われたとおりその池のそばに御堂を建て、同行していた小野妹子をその住職とした。以来、千年以上の時を超え、六角堂――頂法寺は現在も京都のオフィス街の中心部で静かに民を見守っている。

「ああ、なるほど。小野妹子が仏前に花を供え続けたことが華道の起こりになったという逸話の舞台――それが六角堂なわけか」

「そのとおりです。木の根が六つ出ていたところに柱を立てたから六角形の御堂になったと伝承されているそうですが、江戸時代に補修されるまで実際には普通に四角形の建屋だったそうです」

「じゃあ、どうして六角堂と呼ばれていたんだろう」

「本尊の如意輪観世音菩薩像が六臂――六本腕であるからとの説や、観音が六道輪廻の迷宮から衆生を救うことを表しているとの伝えもあるそうです。まぁ、はっきりしないということですね」

 肇の懇切丁寧な解説が一区切りするのを待って、私は口を挟んだ。

「よくわかったよ。もう一度聞くけど、で、どうして今それを?」

「僕たちが今まさにいるここは小野妹子廟です。小野妹子といえば聖徳太子。それに、姉ちゃんが聖徳太子の縁起に関心を持っていたと言ったのは秀太さんですよ」

 香苗の名を持ち出した一瞬、肇が目尻の皺を深めた。私はそれに気付かない振りをする。

「確かにね。でも、聖徳太子と小野妹子はそもそも同時代の有名人なわけやから、必然、ひとつの逸話に両方の名が現れることは特別なことでもないやろう」

「それはそうなんですけど……」

 言い負かすつもりはなかったのだが、肇はバツが悪そうにわしわしと頭を掻いた。

「それに去年だったかな。姉ちゃん、その六角堂に行ったって言ってたんです。だから――思い出したんです」

「へぇ。それで香苗は何か言ってた?」

 風に揺れる梢がサワと音をたてたかと思うと、木陰が肇の目元に差した。

「やっぱり臍はいいね、と」

「は?」

「臍って、中心って意味です。六角堂の本堂前にはへそ石と呼ばれる六角形のパンケーキみたいな石があるんですが、その石が京都の中心と言われているんです。真ん中に丸い窪みがあって。本当のところは、平安遷都前の本堂の礎石のようですが」

「六角堂が――へそ石が京都の中心だから、いいね、と」

「そんなことを言ってました、姉ちゃん」

 それ以上の言葉が見つからないのか締め括るかのように肇は塚を振り向き見ている。

「そう。臍――中心はいいね、か」

 湿り気を帯びた風の回り込む音が耳に響く。私は自身の腹部にそっと掌をあてた。

  ◇

 石段を降りきると右手に科長神社の鳥居が悠然と聳え立っている。ふと見やると鳥居のそばにガンマンがいた。テンガロンハットを斜に被り、ウエスタンシャツとデニムパンツの上下。西部劇の世界から飛び出したかのような出で立ちだ。純和風の景色にはまるで似つかわしくない。

 ガンマンの横顔を認めた私は「あっ」と声を上げた。

「もしかして、雄平?」

 振り向いたガンマンはハットのつばを持ち上げ、目を見開いた。

「おー! しゅうちゃんやん。それと、肇? 横谷肇か?」

 大声をあげるガンマンは田辺雄平だった。

「オフの日は随分、奇抜な格好やねんな」

「いやいや。こんなもん大したことないで。日本人はもっと個性出してかんと」

 そう言って雄平はニッと薄い唇を横に伸ばして笑う。私も自然と笑みが溢れた。

「天王寺で飲んで以来やな。で、今日は何でここに――ってそれも野暮か」

 私の言葉に雄平は苦笑して、肇のほうに向き直った。

「肇、ひさしぶり。最後に会ったのは去年の祭りのときやから一年近くぶりか。香苗のことは気の毒やったな」

「いえ。もうだいぶ落ち着きました。葬式にも来ていただいてありがとうございました。バタバタでお礼もちゃんと言えてませんでした」

「そんなの気にすんな。それより、あんまり無理すんなよ」

 雄平は肇の両の二の腕を挟み込むように力強く叩いた。

「じゃあ、雄平も香苗のことがあって今日はここに?」

 横から私がそう問うと、

「ああ。平日はなかなか来られへんでな。ようやくや。俺もさっき塚の前で手を合わせて、今は科長神社を詣っていたところ」

 肩越しに親指を鳥居に向ける雄平。

「そうや。ちょうど良かったわ。しゅうちゃん、今から時間ある?」

「え? あぁ、大丈夫やけど」

「こないだ、しゅうちゃんと飲んだときさ、河下美月のこと話したやろ。俺も気になったから、あの後、色々調べてみたんや。そしたら、ちょっと引っ掛かることが出てきた。聞いて欲しいんやけど、立ち話もあれやし、今から俺んち来れる?」

 ここに来て河下美月の名が出てきたことに運命的なものを感じた。ちょうど今しがたまさに彼女の死亡事故現場での――コンビニ駐車場での香苗とのやり取りについて肇と話していたところなのだ。

「うん、時間はあるよ。そっか、雄平の実家はこのあたりか」

「良かった。肇はどない?」

「僕は……、すみません」と、肇は腕時計に目を落とす。

「実は、このあとバイトなんです。今日から復帰。そろそろ日常に戻って行かないと。すみません」

「いやいや、かまへんかまへん。元気出してな。また、飲み行こう!」

 雄平がサムズアップした拳を肇の眼前に突きつけた。

「肇は自分の車で帰るんやな。ほな、しゅうちゃんは俺の車乗ってこ」

  ◇

 田辺雄平の実家は奈良との県境に近い町の南端部にあった。小野妹子廟から車で十分もかからない。金剛山系に連なる二上山の麓――平成に開発の進んだ町内においても田畑の多く残る地区だ。

 私を助手席に乗せた雄平のフィアットは乾いた砂埃の舞う駐車スペースに乱雑に滑り込むと音を立てて停車した。

「こんな田舎、盗っ人も来んわ」と、雄平はキーもかけずにそのまま木造二階家の玄関に向かう。

「ご両親は在宅?」

「いや。奈良の兄貴のところに二人して行ってる。俺しかおらんからもてなしは期待せんといてや」

「ああ。お構いなく」

 よしずを立て掛けた縁側に通された。舗道を挟んだ向こうの景色は一面に広がる深緑の田地だ。青々と立ち上がる無数の稲がさざ波となって風に揺れている。まもなく穂が付き始めるのだろう。

「インスタントコーヒーもなかったわ」

 頭上から声が振ってきた。

「よっこらせっと」

 テンガロンハットを被ったままの雄平は私の隣に腰を下ろすと、上品な漆塗りの盆を押しつけてきた。盆の上には湯呑みが二つ並んでいる。

「まあ、飲んでや」

「ありがとう」

 両手で湯呑みを包むと思いがけず掌にひやりとした感触が伝わる。中身は氷でキンキンに冷やされた緑茶だった。

「いいね」

 氷ごと一口啜るとどこか懐かしい疼痛が側頭部に走った。緑茶は恐らくペットボトルから移しただけのものだろうが乾いた喉には最高のご馳走だった。

 二人揃って湯呑みを空にしたところで雄平が先に口を開いた。

「河下美月やけどな。事故にあう前から――こういうの何て言うんやろう、グループというかコミュニティに入れ込んでたらしい」

「誰から聞いたの?」

「伝手から伝手を辿ってね。まぁ、俺も顔が広いから」

 こともなげに言う雄平。私は称賛の意も込めて深くひとつ頷き返した。

「健全なコミュニティなら別にいいんやないの。それともそうではない? 例えば、ネットワークビジネスって言い方だと合法なんだっけ。ネズミ講やってるとか?」

「いや。そんな感じではなさそうやったけど。ビジネスの勉強会みたいな。河下美月に誘われたやつがおんねん。井上――天王寺で写真見せたやろ。河下と一緒に写ってたもうひとりの女や。河下と井上は塾が長いこと一緒やったから社会人なってからも連絡取り合ってたらしいわ」

「――ビジネスの勉強会、ね」

 先んじて成功した実業家やコンサル会社が
フリーランスや独立起業を志す若者向けに主催するようなものだろうか。この手の催しは一方的な講義だけでなく、参加者同士の交流の時間を設けていることが多い。人脈形成に繋がることをウリにするのだ。

「そう、まさにそんな感じ。で、その井上はイベントの窓口やってる女性を河下から一度紹介もされたって。結局、義理で話だけ聞いて参加はせんかったらしいけど。岡部って言ってたかな」

「岡部――」

 ――こちらは私の秘書の岡部華くん

 ――岡部です

 網膜にあべのハルカス上層階からの眺望が蘇る。ガラス張りの白いセミナールーム。黒髪の下の潤んだ瞳。そして、その隣で足を組む――

「八城宗光」

「え、どうした?」

 立て続けに単語だけを発する私の顔を雄平が訝しげに覗き込んでくる。

「キャッスル・インフィニティ」

 今度は目を合わせて一際はっきりと発音した。雄平の両目が見開き、引きつっていく。

「それ! 主催団体の名前。なんでしゅうちゃんが知ってんの?」

「いや。僕も今聞いて驚いたんやけど。香苗がさ、その八城って男に入れ込んでたんや。キャッスル・インフィニティっていうのは八城が代表の会社。雄平の話を聞いてて何となく様相が似通ってるからもしかしたらって」

「なるほどなー」

 考え込むときの癖なのか、雄平は顎にコツコツと拳を当てている。

「八城――か」

「ちなみにちょっとした有名人。メディアにもちょくちょく出てる」

「そうなんや。俺は知らんな。あとでネットで調べとくわ。ともかく――偶然、では無いわな。河下美月は事故にあう前、その男に傾倒してた。それに、香苗もか。横谷香苗」

「香苗は八城との繋がりを黙っていた。あえて吹聴していなかっただけかも知れへんけど、僕は肇から聞かされて初めてそのことを知った」

 自分と八城との不名誉な因縁は今はまだ伏せておくことにした。いずれ明かさざるを得なくなるような予感を抱きながら。

「警察は当然そのことを知ってるんやろ?」と、雄平。

「もちろん、香苗との関係はね。ただ、一年以上前に事故死している河下美月のことまで今回の事件と積極的に関連付けているかどうかは」

「そりゃ、そうか。河下の事故はもう済んだことやもんな」

「だけど、無関係では無いかもしれない」

 独り言と思われただろうか。隣人に向き直ると、雄平も私を直視していた。

「――わかったよ。しゅうちゃんはもう少し知りたいねんな」

 ガンマンは帽子のつばを上げて苦笑と共に大きく息を吐いた。

「この手のコミュニティっていうのは必ず人間関係で揉めて離脱するやつがいる。井上が知ってる人間を糸口にしてもう少し探ってみるわ。でも、あんま期待せんといてや」

「悪いね――」

 いつの間にか随分と話し込んでいた。気が付くと、朱色の薄雲を纏った陽が西の空に沈みつつある。両親の帰宅をここで待つと言う雄平に礼を述べて私は辞去した。

  ◇

 黄昏色に染まり始めた世界をとぼとぼとバス停を目指して歩いた。さて。着いたとてこの時間にバスはあるだろうか。気を遣わずに雄平に駅まで車を出してもらうべきだったかもしれない。そんな今更言っても詮無いことに思いを巡らせながら人家もまばらな府道を行く。

 やがて田園風景の只中に佇む黒い大きな影が目に飛び込んできた。宵闇にぼんやりと浮かび上がるその様は遠目には着陸中の巨大な宇宙船のようにも見える。突如表れた異界に、しかし私は動じることはない。他ならぬ地元である。私はこれを知っている。黒い影は鬱蒼たる森が闇夜に見せる姿――森は、女王の墓。

 聖徳太子の叔母であり、また太子が摂政として仕えた日本最古の女帝――推古天皇が眠る地。一辺約六十メートルの方形墳、その高さは十メートルを超える。推古天皇陵は、伝承によると女帝とその子――竹田皇子との合葬陵であるとされる。賢王として伝わる推古天皇は、民衆が飢えているのに、自らの死後に豪奢な墓は望まない、ただ我が子と共に埋葬して欲しいと願ったという。しかし、その思いに反して、当時として立派な陵墓が築かれたのは、権力を誇示せんとする蘇我氏の思惑によるものと言われている。

 バス通りでもある府道から東に向かって田畑を貫くように、ゆるやかな坂になった参道が伸びている。右側に参道が現れると思案することもなく自然に足が向いた。徐々に北向きに湾曲する坂道を昇り切るとそこは石垣で作られた拝所である。鉄扉、瑞垣が遮る先に木製の鳥居が構え、その奥には幽然と茂る無数の樹木が暗幕を形成していた。

 拝所は周囲より高さがあるため見晴らしが良い。広大な農地が足元から彼方まで続いている。東を向くと果てには影となった山々の尾根が見える。千々に乱れる思考をまとめようと、私は暮れ行く田畑の景色を眺めた。

 私にとってそもそもの始まりは日本橋のホテルで出会った娼婦、ユミだった。一月前、彼女は藤井寺の自宅で首を吊り自ら命を絶った。それは本当に、いわゆる身バレ――秘めたる売淫の露呈を憂慮した末の行動だったのか。つまり、ユミの自死は私の忌まわしい追跡――ストーカー行為に起因するものなのか。ユミの本名は、八城澄子。夫は実業家の八城宗久である。

 そして、河下美月。八城澄子のプロフィールを辿った先で現れた女性。私の同窓生だ。河下美月は、外見を含めてそのあらゆるパーソナルな情報が八城澄子のそれと酷似している。これは偶然なのか。いや、偶然であることが道理とも言える。何故なら、美月は一年半前に太子町郊外のコンビニ駐車場で事故死しているから。美月が死後も幽霊となって――八城澄子と名を変えて身体を売っていた。そして、私という同窓生への身バレを苦に今度は自死というかたちで二度目の死を迎える。そんなことはあり得ない。幽霊がこの世に存在しない限り。では、八城澄子と河下美月の関係は一体――。

 横谷香苗は、私の幼友達である。河下美月の事故現場を訪れた際に再会し、旧交を温めたのだ。そのわずか数日後に永遠の別れになるとはつゆほども思わずに。香苗は小野妹子廟で変死体となって発見された。現在、警察の捜査では事件性が疑われているという。横谷肇によれば、彼女は八城宗久の薫陶を受けていた。肇に言わせるとそれは打算的かつ共依存的な歪んだ関係性のようであったが。ただ、八城は香苗の事件に直接関係しているとは言えない。皮肉なことに私が八城の事件当夜のアリバイを証明しているから。

 もし、香苗の死が他殺だとすればそれは誰の手によるものなのか。何故、香苗の歯は折られ死後現場から消えたのか。河下美月の事故現場で私が踏んだものは本当に人の歯だったのか。そして――

 ――あたし、噛みつき魔やから

 二の腕の歯形と共に香苗が私に遺した歴史の謎かけ。千年前、聖徳太子の歯は何故その陵墓から盗み出されたのか。彼女自身が当事者となった現在の事件との相似は、これも奇妙な偶然に過ぎないのか。

  ◇

 静止した景色のなか、視界の片隅で突如動くものを捉えた私は思わず息を呑んだ。

 既に陽はその大半が地平に沈み、あたりは夜の帳が降りつつある。遠くに見える農地の一隅、田畑の畦に沿って農作業用とおぼしき掘建て小屋がトタン屋根を傾けて頼りなさげに立っていた。その陰に潜み隠れるように佇立する人物の半身がのぞき、ゆらと揺れたのだ。

 距離があり、その姿は米粒ほどにしか見えない。顔も服装も、男女の別すらつかない。しかし、何故か私にはその人物がこちらを伺い見ているように思えてならなかった。

 暗がりにじっと目を凝らす。そのとき――。背後で弾けるような乾いた羽音が降り注いだ。見上げると、陵墓の森から無数の鴉が藍色の空に飛び立って行くところだった。

「――帰ろうか」

 誰にともなく声に出した。

 振り返ると、既に小屋のそばの人影は消えていた。漠とした不安が胸中で積もり溜まっていく。それは鴉の濡れ羽色で――。急かされるように私の足は参道を下り、バス停に向かっていた。


――続(六/笛と電話)へ


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