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聖徳をまとう_六/笛と電話

 ◇

「三十一のリコーダーアンサンブルや!」

 担任の島脇先生が黒板の前で気炎を上げている。

「三十、いや、三十一人、みんなで心をあわせて吹くことできっと気持ちは六年生に伝わる。夏休みもあるし、秋まであまり時間は無いからな」

 卒業を控えた六年生との交流行事の一環で私たち五年生はソプラノリコーダーの合奏を贈ることになっていた。楽曲は「ラヴァーズ・コンチェルト」。ザ・トイズによるポップスのスタンダードナンバーだ。

 島脇先生の隣では横谷香苗が自身のリコーダーを胸もとに構えたまま立っている。今まさに私たちクラスメイトを前にしたソロ演奏を終えたところだ。その表情からはいまだ微かに緊張の余韻がうかがえる。

「やはり横谷はバランスがいいな。みんなにも参考になると思って手本として吹いてもらった」と、島脇先生は満足そうだ。

「いいか。まずは姿勢。しっかり脇を締める。そして、腹式呼吸、ロングトーン。タンギングも忘れるな。孔を押さえる運指はとにかく反復練習、指の腹まで意識して。時間があれば自宅でもどんどん練習して欲しい」

 黒板の前の香苗は所在なさげな様子で俯いている。一刻も早く皆の注目から逃れたいのだろう。時折、キョロキョロと泳がせる視線が一定の間隔で同じ方を向く。視線の先には、ひとりの男子――樋口か。何でもそつなくこなす一方で対人関係では見えない壁を常に感じさせる物静かな少年だ。

 窓際後方の席に座る私はため息とともに頬杖をつく。熱弁を振るい続ける島脇先生から目を逸らし、カーテン越しの運動場を見るともなく見下ろした。

「こら、秀太! よそ見するな」

 すぐさま飛んでくる怒声。

「横谷はもう席に帰っていいぞ――ってお前、リコーダーの吹口を噛むなっていつも言ってるやろう!」

 藤村秀太――小学五年生。好きな食べ物。海老フライ、ハンバーグ、苺。得意なこと。ドッジボール、スケボー、格闘ゲーム。苦手なこと。けん玉、逆立ち、そして――リコーダー。

 ある日の下校時、私は急いでいた。当時、夕方に放送されるアニメが大のお気に入りで、どうしても放送開始時間までにテレビの前に居座りたかったのだ。ホームルームが終わるや一番に教室を飛び出して昇降口に駆けつける。スチールの下駄箱を開けると、薄汚れたスニーカーの上に置かれたパステルカラーの洋封筒が目に飛び込んできた。封緘には光沢のあるハート型のシール。

 周囲を見渡し人目の無いことを確かめてから、手に持っていた布バッグに封筒を押し込む。そして、バタバタと靴を履き替えると、脇目も振らずに自宅まで走り帰った。兄と共有の子供部屋に駆け込み、ランドセルも下ろさないまま封緘用のシールを爪で引っ掻いて剥がした。中には三つ折りにされた花柄の便箋が一枚。開いて、斜めに目を走らせる。そこには、私が期待したとおりのメッセージが小さな丸文字で綴られていた。

 ――好きでした

 ――ずっと気持ちを伝えたかったです

 ――もしよかったらこれからも

 頬が上気する。便箋を持つ手に力がこもる。まだ幼かった私にとって、生まれて初めて抱く羞恥と昂奮とが入り交じった複雑な感情。それを押さえつけるだけの自制心が備わっていなかったのだと思う。未熟、いや、幼稚だったのだ。そして、頭の中は真っ白だった。

 気が付くと、便箋は真っ二つに破り裂かれ、カーペットの上に枯れ葉のごとく無造作に広がり落ちていた。その様を目にして私は思わず息を呑む。どうしてこんなことを――。反射的に。発作的に。狂気的に。

 世界が歪み、潤む。涙が溢れてきた。次から次へと止めども無く。体中の水分が出て行くかのようだ。足元の便箋に降りかかる涙滴がペシペシと音を立てた。膝をついて、視線を落とすと破れた便箋の片割れに書かれた文字は否応なく視界に入り込んで来る。そこには、

 ――樋口くん へ

 予期せぬ事態にただ動揺したのだと思う。手にしてはいけないものを手にしてしまったことへの畏怖、そして罪悪感。一刻も早く目の前からこれを消し去ってしまわなければ。私の中の邪な無意識が、そう判断を下したのだろう。破り裂いたところでこの世からこの手紙が消えて無くなるわけでもないのに。

 落ち着いて考えればどうということもない。下駄箱は五十音順。樋口の下駄箱は、私、藤村の下駄箱の真上である。要は、差出人が封筒を入れるべき下駄箱を誤ったのだ。小学生である差出人にとって、それは、直接手渡す場合ほどではないにせよ、勇を鼓する行動だったろう。入れる瞬間を友人に見られるかもしれない。差出人もまた焦燥に駆られていたのだろうから。

 そうであればなおさら私が取るべき行動はシンプルなはずだったのだ。黙って封を閉じ直して、学校へ戻り、樋口の下駄箱に私が、差出人に代わり、入れ直してあげればそれで良かったのだ。

 それだけで。それなのに――。

 翌朝。朝のホームルーム前に私は手紙の差出人を廊下に呼び出した。

「なに?」

 差出人は――横谷香苗は小首をかしげて私の正面に立つ。

「俺、香苗ちゃんに謝らないといけない」

 香苗の目を見られなかった。じっと足元を向いたまま、私はポケットから封筒と、裂かれた紙片を束ねて小さく折り畳んだ便箋を取り出すと、無言で香苗に差し出した。

「どうして――」

 一瞬、虚を突かれたように眼前の少女が絶句する。

「俺の下駄箱に入ってた。開けて、手紙を読んでから人違いやって気が付いたら、こんな内容やし、なんか頭が真っ白になって。それで、俺、どうしたらいいかわからなくて。なんでこんなことしてしまったのか自分でもわからへんのやけど――」

 我ながら支離滅裂な釈明だった。しかし、嘘は無い。事実、あのときの私はさながら人事不省に陥っていて、何故あのような行為に至ったのかまるで合理的な説明が出来なかったのだ。自分が手にするべきでない、あの手紙を目の前から消し去りたかった。きっと、ただ、その一心で――。

「言い訳はせえへん。とにかく、本当にごめん!」

 両腕を身体の横につけて頭ごと深く腰を折った。大人の世界の謝罪を意識したつもりだった。五秒。十秒。頭上からようやく声が降ってきた。

「ええって。もう、やめて。恥ずかしいし」 

 顔を上げると、腰に手を当てた香苗の口がへの字に曲がっていた。

「でも。本当にごめん」

「だから! ええって。いいの。あたしも下駄箱、間違ったんやし。しゅうちゃん、そのこと初めに言わんかったやろ。あたしのせいにせんかった。なんか謝らせてこっちが悪い気になってくるわ」

 手紙を破いたことについて、香苗は私を責めなかった。私は、彼女のその鷹揚とも言える態度に不思議な気持ちでいたことを覚えている。

「それに――、手紙が届かなかったってことは、そもそも縁が無かったんやろうし」

「そんなこと無い! また、出し直したらええやんか! いや、破った俺が言うのも変やけど」

「違うの。もう下駄箱には入れられへんの」

「え? どういう――」

「樋口くん、横浜の学校に転校したから。昨日の登校が最後。もうこの学校には来ない」 

 そう言って、香苗は自嘲的な笑みを浮かべた。昨日、島脇先生は何も言っていなかった。そんなことってあるのだろうか。

「本人のね、強い希望でクラスのみんなには秘密やってんて。あたしは少し前に樋口くんから直接聞いた。実は、あたしたち仲良かったの。樋口くん、壁作るやん。でも、あたしはそんなの関係なく結構しゃべってたから、たぶんクラスで一番」

「そう――やったんや」

「転校の予定を秘密にしたいってこと、学校側も困ってたらしいわ。でも、結局、親の意向でもあるって言ったら島脇先生も最後は折れたって」

 島脇先生の渋面が目に浮かぶ。

 ――三十、いや、三十一人、みんなで心をあわせて

 なるほど、あのときの言い間違いはそういうことか。交流行事のときには、クラスの人数が今より減ることをわかっていて思わず口をついて出た。

 廊下に面した教室の窓から私は樋口の机を見やった。昨日と変わらずにそれはまだある。が、主の姿は無い。八時五分。いつもなら既に樋口は登校して来ている時間だった。

「だから、もう来ないって」

 私が教室内の様子に目を凝らしていると、顔の前を遮るように香苗の掌がひらひらと広げられた。

「このあとのホームルームで先生から説明があると思う」

「――そう」

「本当はね、タイミングとしてはちょうど良かったの。最後の登校日、樋口くんが家に帰って手紙を読んで。あたしの気持ちに気付いてもらって。大阪と横浜で、もう離ればなれやけど」

 ――もしよかったらこれからも

「手紙でやり取り出来たらって」

「ごめん。俺が先に取らなかったら」

 再び謝罪の言葉が口をついて出た。

「だから違うって。昨日、仮にしゅうちゃんが樋口くんより後に下校してたって、あたしが手紙を入れる下駄箱を間違えていたことに変わりは無いんやから。手渡そうとしなかったあたしがバカやの。だから、どのみち、あたしの気持ちを乗せた手紙は樋口くんの手には渡らなかった。まさか、別人に破られるなんてことは予想もしなかったけど」

 幼友達は自虐的に微笑んだ。郵便で手紙を送ったらどうか――とは、言えなかった。そういうことではないと思ったから。直接思いを伝える勇気をどうしても持てなかった香苗は、その代わり、二度と共有することのない学び舎でわずかでも自分の体温の宿る手紙を受け取って欲しかったのだ。

「樋口くん、カッコ良かったよね」

「ああ、そうやね」

「本人は癖を隠してるつもりやったみたいやけど、よく爪を噛んでた。あたし、それを見るのが好きやってん。変わってると思う?」

「いや、別に」

 どう言っていいのかわからずに私は香苗から目を逸らせた。

「――そんな落ち込まれたら、なんかあたしのほうがしゅうちゃんに悪いことした気分やわ」

「そんなことは、ないけど」

 予鈴が校内に鳴り響いた。廊下を行き交う生徒たちが続々と教室に駆け込み始める。依然、黙り込んだままの私に愛想を尽かしたのか香苗は教室に戻ろうと踵を返した。その背中に、

「香苗――ちゃん!」

「なに? どした?」

 振り向いた香苗は面食らった顔でぽかんと口を開けている。

「お願いが――あります」

「え? 今このタイミングで?」

「さっき。香苗ちゃん、言ったやんか。あたしのほうが俺に悪いことした気分やって。だから」

 香苗は大袈裟に鼻を鳴らして、そして口の端を歪めた。だが、その瞳は優しさを湛えていて。

「聞くだけ聞いてあげる」

「俺に、――僕にリコーダーを教えてください!」

 香苗は表情を変えない。言葉も発しない。ただ、試すようにじっと私を見ていた。

「リコーダー、苦手やねん。もうすぐ六年生との交流会やんか。だから」

「――いいよ。個人レッスンしたげる」

 ニカッと白い歯をのぞかせる香苗。

「放課後、お家に行くわ。おばさん、いるよね。さ、先生来るよ。教室入ろう」

 スカートの裾を翻して香苗は私の手を引いた。その柔らかい手の感触と温もりは今もはっきりと覚えていて。そして――

  ◇

 そして――

 太子町から富田林の自宅アパートに戻った私は極狭のユニットバスに身を縮ませてシャワーを浴びている。髪を流しながら目を閉じているあいだ、昔のことを思い出した。小学生の頃。まだ幼かった自分の苦い記憶。夏の朝。生ぬるい空気が漂う学校の廊下で横谷香苗と握り合った手。

 ユニットバスを出て、タオルで身体を拭いていると居室に置いていたスマートフォンが着信を告げている。濡れた髪もそのままに通知画面を見ると、田辺雄平からである。

「もしもし」

『ああ、しゅうちゃん。いま、大丈夫? 今日は何のお構いもせんで悪かったな。で、さっそくやけど』

 意気軒昂な声がスピーカーから響いて来た。

『いやー。さすが俺ってところやから、しゅうちゃんには今からたっぷり褒めてもらいたいな』

「どうしたの?」

『もう調べはついたで。河下美月から八城グループの勉強会に誘われていたっていう井上のことは言うたやろ』

「ああ。確か河下と塾が同じで親しかったっていう」

『そう、その井上。井上に聞いたら、窓口の岡部って女の連絡先を知ってた。名刺に携帯の番号があるって言うからさ、教えてもらったわけ。で、俺、連絡したよ』

「岡部に? 電話、出たのか。それで雄平は相手に何て?」

 今回の件で、雄平の、私には無い行動力に期待している部分は大いにあった。が、それにしてもさっそくの突撃はいくらなんでも勇み足ではないか。そう訝って雄平の返事を待った。

『うん。香苗の事件のことをストレートにぶつけたわ。俺にとって横谷香苗は大事な友人やった、警察は事件のこと当然調べてるやろうけど俺は黙って待ってられないって。それで、カマをかけてやった。八城を囲むグループの中で香苗と折り合い悪かったやつがいるんじゃないか――警察も掴んでないらしいそんな噂が地元で流れてるけど、いいのか、と。俺の人脈ならすぐにわかることやけど、もし、さっさとそっちから教えるなら、俺は誰とも利害関係は無いし、わかったことは報告してやってもいいって言った』

 確かに事件の関係者間においては中立でありながら地元の情報に長けた雄平の立場は武器になる。雄平にしてみれば多少疑われたところで失うものは無いわけで、乱暴ではあるが悪くないアプローチかもしれない。まず雄平のキャラクターありきの打ち手かも知れないが。

「それで、岡部は何て?」

『一回、電話をかけ直させて欲しいって言うから、まぁ、応じたわ。それから、三十分もせんうちに約束どおり向こうからかかってきた。結論から言うと、痛くもない腹を探られるのは本意ではないから多少の情報提供はする、あとは勝手に調べたらいいって。ただし、わかったことがあれば教えて欲しいと言われた』

 あの気の小さそうな岡部華だ。おまけに秘書の立場で独断が出来たとは考えにくい。十中八九、一度電話を切ったあと、八城に相談したのだろう。そのうえで、雄平の交渉に応じたということは、事実、香苗の事件については八城グループは無関係なのかも知れない。あるいは、関係していたとしても露見しない自信が余程あるのか。もうひとつの可能性としては――。

『しゅうちゃん、聞いてるか?』

「ああ、悪い。聞いてたよ」

『香苗と折り合いが悪かった、というか、これまでもメンバーとの不和が原因でグループから離脱するやつなんて特別珍しくも無いらしいけど、そのなかでも不穏な雰囲気があったって女のことを教えてくれた。平塚もえぎ。昭和町で古本屋してるってさ。で、もうそいつとも連絡がついた』

「え、もう話したの? その平塚って人と」

『うん。ホームページに電話番号は載ってたから。声は若かったな。それで、八城の悪い噂を聞いたんやけど知ってることがあれば聞かせて欲しいって言うたら、ばっちり。どうせ店は暇やから明日来てくれってさ。日曜日やし、しゅうちゃんも行けるやろ』

 無職の私は何曜日であろうと動ける。それにしても急展開だ。雄平の行動力を過小評価していたと言うべきか。ただ、私にとっては望むべき流れではある。鬼が出るか蛇が出るか、あるいは――。

「ありがとう。またお礼させてよ」

 天王寺で明日の昼に待ち合わせることを決めて電話を切った。

  ◇

 長電話の末に髪はすっかり乾き切っていた。テレビ台の上の置き時計は十時半を示している――ようだ。視界がゆっくりと霞がかってくる。瞼が重力に逆らえない。倦怠感が全身にまとわりつく。身体は顕著に休眠を訴えていた。灯りを消そうと壁のスイッチに手をかけたとき、

 ――ブブブブブブブブブ

 またしても着信だった。思わず舌打ちがこぼれた。相手によっては無視を決め込もうと想定しつつ、スウェットパンツのポケットに収めていたスマートフォンを取り出す。バックライトに照らし出されたその画面には――横谷香苗の名があった。

 全身に怖気が走った。乾いたばかりの髪が逆立つ感覚。そんな馬鹿なことが。ありえない。恐る恐る通知画面の受話の表示に親指の腹を押し当てた。

「もしもし」

 無言。電話機の向こうにいるであろう話者の息遣いすら聞き逃すまいと鼓膜に神経を集中させる。

「もし――」

『秀太さん、僕ですよ。肇です』

 肩から力が抜けた。よろよろとベッドに歩み寄ると、そのままシーツに腰を下ろした。

「やめてくれよ。どういうつもりなんや。心臓が止まるかと思ったわ」

 怨嗟の言葉が口をついて出た。さすがにこれは――、

『悪趣味でしたか?』

 電話から聞こえる肇の声はよどみなく平板だ。

『バイトで久しぶりに日常の空気に触れて、それで家に帰ったら急にもの悲しくなったんです。もう、姉ちゃんはこの世にいないんだって。仲、良かったんですよ、僕ら』

「それで、こんなイタズラを?」

『すみません。誰かが姉のことを生きていると思えば本当に姉が生きてることになるんじゃないかって。そんな妄想が頭に浮かんだんです』

「あれ、香苗の電話って現場にあったの」

『いえ、見つかってません。今の着信はSNSアプリの通話機能ですよ。僕が自分のアカウント名を一時的に変えただけです』

「そういうこと、か」

 こめかみを押さえながら吐息をこぼした。

『こんなことして許してくれそうなの、秀太さんくらいしか思いつかなかったから』

 肇の弁解を聞きながら、寂とした部屋の中を漫然と見まわした。窓に映る自分は苦虫を噛み潰したような顔をしている。

「とにかく、気持ちはわかったよ。いちおう忠告しておくけど、他の人には同じことしないほうがいいよ」

『わかりました。ところで――今日の昼間、僕と別れたあと、雄平さんと一緒だったんですよね。どんな話をしたんですか。姉の事件のこともあったんでしょうか』

 一瞬、言葉を呑み込んだ。どこまで詳細に伝えるべきか。私がいくら気の置けない先輩だとしても、香苗の名を騙る悪戯は度を超している。今夜の肇の様子が尋常とは思えず、これ以上、香苗の話題を続けることは躊躇われた。

「いや、そういうわけじゃないよ。雄平は顔が広いから、もし八城グループのことに詳しい人が見つかるなら少し話を聞いてみたいってそんな相談をしただけ」

『いもこさん――小野妹子廟であったことを調べているわけではないんですね』

「それは警察がやってくれるやろう」

『そう、ですね』

 名状しがたい違和感が耳朶の後ろあたりをすり抜けたような気がした。すぐさまそれを捉えるべく手を伸ばすが、しかし、押し寄せる眠気が容赦なく私を微睡みの世界に引き込もうとする。限界だった。

「ごめん。つかれた。もう、肇も休んだほうがいいよ。おやすみ」

『――おやすみなさい』

 放り投げたスマートフォンがシーツの上で小さく跳ねた。軋むベッドに身体を横たえ、目を閉じる。

 たゆたう意識の底で、私は香苗からリコーダーを教わる夢を見る。

 いつかの放課後だろう。私の実家の子供部屋にいるふたりは小学五年生の姿だ。広げた楽譜のプリントを前に私がリコーダーを吹くあいだ、香苗がつま先立ちで表に面した腰高窓を開け放った。夕刻の夏空に向けて、たどたどしい「ラヴァーズ・コンチェルト」のメロディが立ち昇っていく。


――続(七/愛は多面的に)へ


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