聖徳をまとう_八/縁は導く(2)
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◇
正面から大股で歩き迫るのは紛れもなく因縁の男だった。
まるで意想外の邂逅であったが不思議と感情は波立たない。未だこちらの存在に気が付かない様子の男――八城の顔を私は無遠慮に見据えた。不意に私が立ち止まったため、隣でたたらを踏む雄平。もの問いたげな友人を私は黙したまま手をかざすことで制する。
ややあって八城と私の視線は交錯した。刹那、向き合う男の体躯から伸びる長い足はその場で静止した。二メートルに満たない距離を挟んで互いを凝視する暫時。路地を行き交う人の姿は少ない。通りからもたらされる車の走行音だけが嫌に耳に響いた。
「君は、藤村――さんか」
八城の問い掛けを受けて私はことさらゆっくりと顎を引いた。傲慢で鼻持ちならない自信家の目は猜疑心に満ちて泳いでいる。
「こんなところで奇遇ですね、八城さん」
慣れない不敵さを演じつつそう返す私は一刻も早くこの鉢合わせの意味を内心読み解く必要に迫られていた。どうしてここに八城宗光がいるのか。偶然が通用するような都会の雑踏ではない。たまたま通りがかったとは考えにくかった。ここに現れた彼に目的があったとすれば――。平塚もえぎ、か。
「君こそどうしてここに」
「こう見えて読書家なんですよ。そう、雰囲気のいい古書店があってふらっと入ったら店主とじっくり話し込んでしまいました」
八城の目尻に刻まれた皺が歪んだ一瞬を私は見逃さなかった。当て推量の牽制に動揺を見せたということはそれは探られたくない腹に私の手が届いたということ。
「この路地の先にあります。愛想のいい女性店主でした」
しかし、横谷香苗の事件に八城本人あるいはその取り巻きが関係していたとして、どうして平塚もえぎを訪ねる必要があるのか。八城にとって彼女は仲間ではない。むしろ彼のグループにとっては裏切り者であるはずだ。一体どうしてここに八城が。
「時間があるようなら寄ってみてください」
振り返り、私は来た道を慇懃に手で示す。彫像のように固まっていた八城は鼻で息をつくと、疎ましげに頬を引きつらせた。
「君の交友関係をどうこう意見するつもりはないが、ともかく余計な詮索はしないほうがいい。これは私からの忠告だ」
責め立てるような鋭い眼光。硬い声音は怒気を含んでいた。
「肝に銘じておきますよ」
鼓動の高鳴りを押さえながら平静を装う私は口角を上げて応じた。
「急いでいるんだ。そろそろいいかな」
そう吐き捨てると八城は私と雄平のあいだを強引に押し開けて、そして足早に去って行った。
「あれが八城宗光か。テレビで一回くらい見たことあるかな。ようわからん」
件の男の小さくなっていく背中を目で追いながら雄平は下唇を突き出した。
「しかし、しゅうちゃん。さっきのやり取りは何やったんや。こっちにも険悪な空気が伝わってきたわ。やっぱり八城は香苗の事件に関わってんのか?」
緊張から解放されたばかりの私は雄平の言葉を反芻しながら首をまわした。
「関わっているかどうか、か。まだ確信は持てない。でも、あと少しかな。いや、どうやろう。よくわからない」
そう言って頭を掻く私を見ながら苦笑する雄平。
「なんや、それ。まぁ、ええわ。ほな、帰ろうか。それとも、どっかで一杯やってく?」
「悪い。僕はこれから太子町に行くよ。推古天皇陵に――、いや、小野妹子廟へ」
「ん、ああ。そういや、平塚さんのところで香苗の――」
一瞬、眉を持ち上げた雄平はすぐに得心した様子を見せると、
「俺も付き合うわ。そうと決まったら暗くなる前にさっさと行こか」
眩しそうに苛烈な陽光の降り注ぐ空を睨めつけた。
◇
地下鉄と近鉄線を乗り継いで貴志駅から路線バスに飛び乗った。日曜の夕刻。乗客はまばらだったが、私と雄平は通路を挟んでそれぞれ一人がけの座席を選んで座った。やがて定刻になるとバスは気怠げに走り出す。ちらと一瞥を投げると雄平は既にいびきをかいていた。目当てのバス停までは十五分程度だろうか。私にも相応の疲労感はあったが、揃って寝過ごすわけにはいかない。バスは大和川水系の石川にかかる橋を走行中だった。窓越しに見える河川敷で遊ぶ子供らに目をすがめて、私は平塚もえぎとの対話を思い返す。
――そういえば、あなたたちはみんな同郷なのよね。横谷さんも美月も
首肯する私にもえぎは続ける。
――太子町だっけ。そういえば横谷さんと話したことを思い出したわ。キャッスル・インフィニティの勉強会でマネジメントやリーダー論をテーマに意見を交わしてたとき。彼女ね、自分は推古天皇のことが好きなんだって言ったの。確かに日本で最初の女性リーダーとも言えるよね。そのときは珍しい考えを持つ人だなと思ったけど、まぁ、そういう縁のある土地の出身だって聞いてみるとちょっと納得やね
横谷香苗は推古天皇になりたかったのか。声に出さずそう独り言ちたとき、車内アナウンスが次に停車するバス停の名を告げる。
「次は、推古天皇陵前。次、停まります」
雄平を起こしてバスを降りた。古びたベンチに申し訳程度の雨除け用の屋根が設置されただけの小さなバス停。その背、左右に伸びるガードレールの向こう側には緑色の稲が整然と並んだ田圃が視界一杯に拡がる。時刻は十七時半。夏の陽はまだ高いが、地表を微かに染める橙色が黄昏時の近いことを教えている。
「で、どうするんや。推古天皇陵、見ていくか。どうせ平塚さんの話から連想したんやろう」
起き掛けの雄平は生欠伸をかみ殺している。バス停の名前からは至近のようだが、実際には府道を数百メートル南に下った場所に御廟はある。昨日、私は歩いたばかりの道だ。
「いや。このまま小野妹子廟、いもこさんに行こう」
「ん、――そうか」
雄平は怪訝な顔をしたが、
「まぁ、じきに暗くなるしな。俺は今日は実家に停まってもええけど、しゅうちゃんは帰らなあかんこと考えたらそのほうがええか」
恬然とそう言って私の意見に応じた。
小野妹子廟までは一キロ強の道程である。落ち着いた佇まいの住宅が建ち並ぶなかをとぼとぼと歩く。やがて一日半ぶりに訪れた古廟はひっそり閑としていた。陽は傾き始めており、暮色の世界のなかであたりの木々が風に揺られてざわめいていた。
「昨日もここで会うたんやったな」
拝所に伸びる石段を前に頑健そうな腕を組んで雄平は仁王立ちになっている。その隣で両膝に手をついて息せき切っている私。
「しゅうちゃん、運動不足やな」
「否定できへんわ」
苦笑いするしかなかった。
「俺は昨日登ってないからな。上まで行くけど、しゅうちゃんは行けるか?」
「ああ、もう大丈夫。行くよ」
目顔で答えた雄平は既に石段の登り口に足を掛けている。筋骨たくましい友人は隣接する科長神社の鳥居を手水舎の屋根越しに仰ぎ見た。
「あと一月もしたら今年も祭や。それまでに全部落ち着いてたらええな」
石段を登りきると、滲んだ闇を湛えた塚が私たちを静かに迎えてくれた。四方からは蝉時雨が間断なく降り注ぐ。見渡す限りあたりに他の人の姿は無かった。
「ここで香苗は――」
塚を巡る瑞垣の土台にあたる擁壁の前、雄平は立ち尽くし足元に視線を落としている。
「うん。僕も肇から聞いただけやけど」
――ちょうどこのあたりで仰向けに倒れていたそうです。胸にハンティングナイフが突き立っていて
――無かったんです。歯が。上の中切歯、つまり真ん中の歯が二本とも無かったって。遺体のまわりからは見つかっていないんです。歯は生前に折られていたようですが、もしかしたら何者かに持ち去られたのじゃないかとも言われてるそうです
「そうか。かなわんな、ほんま」
そう言って手を合わせて瞑目する雄平を見ていると、飲み下しきれない感情が肺腑を重たくする。塚の前に佇む雄平が昨日の肇の姿に重なった。
バス停を降りてから小野妹子廟に着くまでに見た景色はすべて私にとって昨日の繰り返しのようだった。前に進まない繰り返しは嫌いだ。停滞した思考のまま昨日と同じ景色を眺め続けるのを厭い、せめてもと推古天皇陵だけは訪れるのをやめにした。
繰り返しの景色。繰り返しの毎日。思えば仕事をやめて地元に帰ってきた日からそうだったのだろう。繰り返す後悔の味。飽きてなお舐め続ける苦渋。そろそろ前に進まないといけない。そう、前に――
ことさら意識をして一歩を踏み出した。広場の周縁に設置された石柵に沿って足を運ぶ。自らの歩みを確かめるよう、靴と土の擦れる乾いた音にさえ耳を澄ましながら。広場の西側にまわりこむと、斜面に密生する木々の向こう側に暮れゆく河内平野が望めた。やがて景色は黄昏色に染まるだろう。
「王陵の谷やな」
いつの間にか隣には雄平がいた。デニムのポケットに両手を差し込み、西の空を漫然と眺めている。
「しゅうちゃん、知ってる?」
「ん。何が」
「どこかで読んだわけやなくって、昔、誰かから聞いた話なんやけど。ここってさ、ほんまに小野妹子の墓か疑義があるんやって」
「うん、天皇陵も含めて古墳なんて大抵そんなものやろうけどね。埋葬者についてはっきりとした記録が残っているケースはかなり少ないらしいよ。極端な話、時代とともに研究が進んで僕らが信じてた説が変わってしまうことだってあるわけやから」
「歴史は必ずしも真実やないって誰かが言うてたな。それでな、このあたりはお偉いさんの墓が多いやろ。古墳時代、飛鳥時代の天皇――」
「叡福寺には聖徳太子の墓もある」
「そう。にも関わらず、ここは、小野妹子廟はまわりに比べてひと際高い丘の上に作られてる。お偉いさんらを見下ろす場所にあることが不自然なんやってさ。不敬なんやと」
どこからか鴉の声が聞こえ、あたりに弛緩した空気が流れた。
「小野妹子さんには悪いけど、そんなところに墓が作られるわけがないって」
こめかみの奥で鋭い刺激が走った。茫漠としていた何かが瞬時にして焦点を結ぶ感覚。それは手を伸ばしたら掴めそうな。
「そうか、そういう――」
「ん。どうした、しゅうちゃん」
「――だったなら、そんなこともあったのかもしれない」
突如、身震いした私の顔を雄平が不審げに見ている。
「急にどないしたんや」
「――ごめん。ここで解散でもいいやろうか。もう少し考えたいんや、ひとりで」
雄平の切れ長の目が困惑の色を帯びて見開かれている。
「今日はしゅうちゃんに振り回されっぱなしやな」
そう眉をひそめつつもすぐに悠然とした笑みを浮かべた。
「ええわ。ほな、俺は今日はこのまま実家に泊まることにする。しゅうちゃんはもう少しここに残るんやな」
「うん、そうするよ。勝手で申し訳ない」
「不義理の代償、わかってるな。連絡待ってるで」
やおら踵を返した雄平の大きな背に私は言葉を投げる。
「連絡するよ。祭までに」
友人は振り返らないまま片手を振って応えた。
◇
灰色の雲をたなびかせた夕陽が彼方の街にかかる頃。それまで耳をつんざく勢いで響いていた蝉の声がぴたとやんだ。静寂の訪れを合図のように私はショルダーバッグの底をまさぐる。やがて、私の指先には一枚の紙片――あべのハルカスのレストランで受け取った渡辺茂の名刺があった。元医師の資産家。そして、八城澄子の父である。連絡先は神戸の自宅のようだった。
スマートフォンでコールすると年嵩の女性の声が応じる。妻の咲子だった。私が名乗るや、彼女の戸惑う様子は電話越しにも伝わってきた。聞くと夫の茂は外出中だと言う。少し確認させてもらいたいことがあると告げると、
『どんなことでしょうか』
胸中の不安を隠さない細々とした声が返ってきた。
「澄子さんのことです」
『娘のことで――』
「はい。無礼を承知で端的にうかがいます。澄子さんは美容整形をしているのではないでしょうか。一年半ほど前に顔の手術を」
渡辺咲子の息を呑む音がスマートフォンから漏れ聞こえた気がした。これは演繹的な推理ではない。帰納的とさえ言えるかどうかわからない。これまで積み上げた情報や状況といったピースを並べて、そうであれば諸々の辻褄が合うという仮説だった。
「手術にはお金が必要だったでしょうから少なくともご両親に相談はあったはずです。ただ、どこまで澄子さんが詳らかにその内心をおふたりに明かしたのか私にはわかりません。彼女は――」
渡辺澄子は夭逝した河下美月の顔を欲した。その細く高い鼻筋、その涼やかに弧を描くアーモンド型の瞳を。彼女は生まれ変わりたかったのだ。澄子にとって美月の仮面をまとうことは目的であり手段でもあった。
娘から手術の相談を受けた両親はその願いに応じたのだろう。金銭的な援助だけでなく、茂は元医師の人脈を活かして腕の立つ外科医を娘に紹介したのかもしれない。そもそも澄子の顔立ちが多少なり美月に似通っていたとすれば、それはまさに僥倖だったと言える。でなければ澄子は計画を思い立つこともなく、始めからすべてを諦めていただろうから。
計画は実行に移されたものの、言うまでもなく美容整形は魔法ではない。手術を経てなお、澄子はけっして河下美月とうり二つとまでは言えなかったはずだ。私が最近の美月の顔を見たのは雄平のスマートフォンに記録されていた画像のなかでだけ。そう、雄平から指摘されていたとおり、ふたりの女性の相似は私の主観による印象に過ぎなかった――。
しかし、私の誤認を招いた確たる背景は実は他にある。娼婦としてユミと名乗っていた澄子はその容姿を近づけるだけに留まらず美月の年齢、出身地といった略歴までを自分のそれとして客や同僚に騙っていたのだ。美月の属性ごとその身にまとう。被っていたのは生半尺な仮面だけではなかった。澄子の自死を知って以降、不明瞭な自責の念に狂わされていた私の主観が彼女の騙りによって大きくミスリードされたことは否めない。
『ど、どうしてあなたにそんなことを』
「突然の電話でお聞きするような内容でなかったことは自覚しています。本当に申し訳ありま――」
短い電子音が私の声を遮った。電話が切られたのだ。投げつけた仮説は私自身にとっても半信半疑なものだった。しかし、渡辺咲子の反応は言葉以上に万事を物語っていた。重畳だ。
澄子の計画から始まり、そして関係者にとって想定外であった私という異分子の行動が絡み合うことで今回の不可解な一連は生じたのだという想像は今や確信に変わりつつあった。
沈黙したスマートフォンを一度耳から離して、汗ばむ指で画面を操作する。コール音が鳴るのを確かめてから再び耳にあてた。四回目のコールで相手は出た。
「藤村やけど。今、いいかな」
その人物の応諾を得てから手短に私は要件を切り出した。明日の午後、時間を取ってもらいたい。
『■■■』
「そう、事件のこと」
『■■■』
「いや、事件を解くのは警察の仕事やよ」
私に出来ることは物語ることだけ。
『待ち合わせ場所は?』
その人物からの問いに私は少考した。
「そうやな――」
――あと一月もしたら今年も祭や。それまでに全部落ち着いてたらええな
「じゃあ、科長神社の境内で」
なかば一方的に通話を終えて顔を上げる。古人を祀る丘から見渡す空はいつからか闇を思わせる藍色へと変わりつつあった。
――続(九/✕✕✕✕✕(一)へ)
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