聖徳をまとう_四/いもこさん(1)
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◇
音の無い漆黒の世界。海の底で深海魚を見上げる夢を見た。身をくねらせて泳ぐうつぼのような生物の腹をじっと見ている。私の目には僅かな光源を増幅させる反射板が入っているのだろう。
文字どおり、三日三晩はアパートで何もせず横になって過ごした。たまの水分補給を除けば、ろくに食さず、一言も発さず、入眠と覚醒をただ繰り返すだけ。日ごと、すえた匂いが部屋中に充満していく。
人間の生命力あるいは活力の源はカロリーや栄養といった生物学的な要素を別にすれば最も大切なものは自尊心だという説を聞いたことがある。だとすれば今の私の有り様は自尊心を打ち砕かれた結果なのかもしれない。そう表現すれば詩的で多少は響きが良いが、砕かれたのが自尊心であれ矜持であれ、そもそもそんな高尚なものがあったのかと自身の内から嘲る声が聞こえてくる。
自らに向ける侮蔑と嘲笑はやがて反発を招く。それは当人が望む望まざるを問わない。生を志向する生き物の本能がそうさせるのだろうが、気まぐれな本能のサインは見逃されがちだ。底を割って果てまで沈むか再起浮上するかは、ままならない現実に叛逆せんとする本能のサインに気がつくかどうかにかかっている。人生の浮き沈みにいちいち折り合いをつけることなど、突き詰めればただそれだけのことなのだ。
私の本能のサインを把持したのは、着信を告げて繰り返し震動する枕元のスマートフォンではなく、昼日中からアパートの扉を延々と叩く重低音だった。
――うるさい
あまりにも煩くそして執拗でとても寝ていられない。寝癖頭と下着のまま居室を出て、猫の額ほどの通路の先の扉を開けると、スーツ姿のふたりの男性がノブを掴んだままの私を睨みつけていた。
「インターフォン。何度も鳴らしたんですがね。聞こえなかったですか?」
「――すみません。壊れたまま放置してました」
角刈りの似合う丸顔の巨漢と、リムレス眼鏡をかけた痩身の男。まるで捜査中の刑事のようだと思ったところで、
「藤村さん、ですね。私たち、こういう者なんですわ」
と、角刈りの巨漢が内ポケットから黒革の手帖を突きつけてきた。
「あ。刑事さん……ですか。本当の。何かあったんですか?」
「外だと人の耳もありますから。差し支えないようなら少し中でお話しさせてもらえませんか?」
「今日はちょっと忙しいんです。手短にしてもらえると助かります」
寝癖と脂まみれの頭で言ってみる。嘘や見栄は社会人のマナーだ。むろん意味は無い。
三和土と続きになっているサンルームに座布団を敷いて刑事らには座ってもらった。氏名と連絡先を問われるがまま答えたあと、私は率直な疑問をぶつけた。
「警察が私に用事って、何でしょうか? まるで心当たりはないんですが」
角刈り男は富田林署の赤田と名乗った。
「詳しいことは細木から」
厳めしい表情でそれだけ言うと、応じるようにリムレス眼鏡が、
「細木です」
と眉根を揉みながら手帖を開いた。
「実は――横谷香苗さんが亡くなりました。事件性が疑われていて現在捜査中です。藤村さんは横谷さんのご友人ですよね?」
「――は?」
――横谷香苗さんが亡くなりました。
我ながら酷薄が過ぎると自覚するほどに冷静だった。細木なる刑事が発した言葉を一言一句正確に理解し咀嚼してもなお。三日三晩何も食さず何も思考せず過ごしたからだろうと自分を納得させた。新鮮な脳はいかなる情報もスポンジのように素直に吸収する。空き容量が充分な記憶媒体は、受け入れがたい現実を拒絶してシャットダウン――目の前が真っ暗になることも、オーバーヒート――感情が激烈することない。
「驚きました。そうです。友人です」
私の返答を受けた刑事らの顔に滲む感情を読み取る。安堵と感心、そしてわずかな驚きと警戒。均等なブレンドだった。
「大丈夫ですか? このまま続けても」
「はい。大丈夫です」
細木はレンズの奥の目をすがめた。
「先週の土曜日。六月二十二日です。藤村さんは横谷香苗さんと彼女の弟の肇さんと三人で食事をされていますね。羽曳野市のお店です。その三日後、二十五日の夜に彼女は亡くなっています。食事をされたときの香苗さんの様子に不自然なところはなかったですか?」
「いえ。特におかしなことは無かったと思います。あの……彼女はどこでどんなふうに亡くなっていたのですか?」
「すみません。今は我々の質問に答えてもらえますか? 報道はされていますので後で新聞なりご覧になってください」
細木は眼鏡のブリッジを中指で押し上げながら続ける。
「ちなみに、二十五日の夜ですが藤村さんはどちらに?」
「火曜日ですよね。えっと……食事をしていました。知り合いと」
「知り合いとは? お気を悪くしないでください。念のためです」
刑事ふたりの視線が私の眉間を捉えて離さない。言うまでもなくアリバイを確認されているのだろう。が、起きがけの脳内で直感が告げていた。カマをかけられている。
「ちょっとした有名人なので憚られるのですが――アーティストの八城宗光さんです。彼の義理のご両親――渡辺さん夫婦と一緒でした。確か、茂さんと咲子さんだったと思います」
「ほう。八城さんとはどういうご関係で」
「八城さんの奥さんの友人でした。少し前に彼女が亡くなったと聞いて弔問にうかがったらご厚意で食事会に誘われました」
咄嗟の判断だったが大筋で嘘はついていない。
「食事はどこで? 時間も教えてください」
「あべのハルカスのレストランでした。高層階の。六時に待ち合わせて九時過ぎくらいまで」
細木が手帖にペンを走らせている。
「食事の途中で誰かが長時間席を外すとかはなかったですか?」
「いえ。それぞれトイレで席を立つくらいはあったと思いますが不自然なほど長く不在だったような記憶はありません」
「そうですか。なるほど。とても参考になりました」
角刈りの赤田に一瞬目配せをして細木は手帖を閉じた。
「ありがとうございました」
ふたりして二、三度頷くや、スーツの裾を翻しながら刑事らは颯爽と立ち去った。私にとっては突如訪れた嵐のようだった。扉の閉まる音が響き、再び静寂が室内を支配する。扉の横に視線をスライドさせると窓の外は白い光に満ちていた。どうやら快晴のようだ。布団から出るには良い日かもしれない。
◇
居室に戻り、万年床の上に転がっているスマホを拾い上げると、着信履歴の画面は横谷肇からのそれで溢れかえっていた。
悪いことしたな――
コールするとすぐに肇は出た。
『秀太さん? いったいどうしてたんです。何度も連絡したんですよ』
「本当にごめん。ちょっと地べたを這っていたら底が割れちゃってさ。浮上して来るのに時間がかかった」
『よくわかりませんが、もう大丈夫なんですね』
「ああ。大丈夫。光と音かな。天気が良くて。そんな日にわざわざ刑事が起こしに来てくれた」
『刑事! それって――』
「うん。香苗さんのことは今聞いた。まず、肇くんは大丈夫?」
『はい。ようやく徐々に気持ちが落ち着いてきています』
電話口の向こうで鼻をすする音がした。
『警察のことで少し遅くなったんですが、昨日ようやく葬式が出来て――ひと区切りなのかもしれません。でも、まだ何も事件のことはわかっていません』
「事件のこと、聞いていいの?」
『もちろんです。うまく説明できるかわかりませんが』
横谷肇によると、香苗は六月二十五日の夜半前に死亡していたらしい。遺体の発見された場所は大阪府南河内郡太子町。町内唯一の式内社である科長神社南側の丘の上に位置する伝小野妹子墓――その塚の前だった。近所を散歩中の住人により翌二十六日の朝に発見された。現場検証の末、警察は事件性ありと判断。現在に至るということ。
『俺、あの晩も言ったじゃないですか。姉ちゃんが男から悪い影響を受けてるって。八城っていうんです。時々やけどテレビにも出てる。だから、姉ちゃんがあんなことになって、俺、犯人がいるなら八城が怪しいって警察に言ったんです!』
電話越しでも肇の息づかいが伝わってくる。激する口吻が見えるようだった。それほどの熱量。
「なるほど。ただ、怪しいとは単純に言っても、それより香苗が殺されて利益を得る人物かどうかとか、つまり利害関係が――って、八城?」
『そうです。八城宗光』
「そうか。よくわかったよ。刑事らは僕に八城のアリバイを確かめに来てたんやな」
澄子の両親である渡辺夫妻は身内にあたる。食事会にいた唯一の他人は私だったのだ。
『どういうことですか? 秀太さん、八城と知り合いなんですか?』
「いや、それはね――」
当然そういう疑問を抱くだろう。
「八城の奥さん――最近亡くなったんやけど彼女と僕は知り合いやったんや。弔問に行ったら食事に誘われてさ」
結局、刑事たちにしたのと同じ説明を繰り返した。そして、他ならぬ私が八城のいわゆるアリバイを保証していることも。
『そういうことやったんですね。アリバイは完璧ってことか。しかも秀太さんがその証人。じゃあ、八城は姉ちゃんの死とは無関係なのかな。でも、秀太さん、八城の奥さんとはどこで知り合ったんですか?』
私のしかめ面は電話口の向こうの肇には見えない。
「その件は後で話そう。とりあえず。肇くん、仕事は? 時間これからある? 良かったら会えないかな」
『時間ありますよ。バイトは夕方からですし。じゃあ、車で迎えに行きます。秀太さん、アパートどこでしたっけ?』
テレビ台の上を見やると、埃まみれになった置き時計の針は十一時を指している。思い出したかのように腹の虫が鳴いた。シンク下の収納にインスタント麺くらいはあっただろう。腹ごしらえの時間を加味して正午に貴志駅前での待ち合わせを提案した。
――続(四/いもこさん(2)へ)
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