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実家の商売の思い出

 写真は黒電話だが、実家の店の電話は、長い間ピンク色だった。最初、黒電話だったが「電話を貸してくれ」と言ってくる人がよくいて横に10円玉が積まれていた。たまに払わない人もいたので、昔タバコ屋なんかに置いてあった公衆電話のように、お客がお金を入れるタイプの電話に変えていた。昭和にはスマホがなく、うちの近所に公衆電話がなかったので、長い間、需要があった。

 実家が商売を始めたのは、私が小学校に入学した5月だった。
 母はその店を居抜きで買った。父は当時プラスチック成型の会社で営業をしていたが、同族会社で役職も給料も頭打ちで、母は若い時に貯めたお金もどんどん無くなり、洋裁の内職も微々たるもので、今だったらネットの「ママリ」でみるような夫婦喧嘩が絶えず、何とかしようと悩んでいたらしい。「店が売りに出たのを見て、買おうと思った」と母は、後に、こともなげに言った。

 母自身は若い時、警察の事務員をして電話番や写真の現像などもしたという。ある時、職場に流しの占い師が来て、「あんたは店に座っているのが見える。将来、商売をするよ」と言われ、母の実家は兼業農家で母の両親は教員だったから、『何を言うてんねや、この人』と思ったと言う。商売をし始めてから、「あの占い師にもう少し占ってもらえば良かった」とよく言っていた。
 警察の事務員だから地方公務員だったのだが、当時、女性の年金は退職時に一時金を貰って終わりだったという。
 父は商売が軌道に乗るまで会社勤めだったので、電話の名義も、商売の名義も、店の家の権利書の名義も、家を売り払う最後まで母のものだった。

 文具屋とは聞いたが、最初入った時はどう見ても駄菓子屋だった。仕入れの卸屋が松屋町にあり、菓子卸も文具卸も並んでいるからだと聞いた。
 前の老夫婦は七輪で煮炊きし、流しはタイルだった。母は台所を改装し、ステンレスの流しを入れ、都市ガスを引いた(どういう訳か、中華料理屋の前から分岐させたため、そちらが工事でガスを止めるとうちのも止まった)。

 最初の頃はお正月も店を開けていた。閉めていても戸を叩いて、花札やトランプなどを買いに来るからだ。お年玉でプラモデルを買いに来る子もいた。しかし、「正月から商売するんか」と近所で嫌味を言われたとかで、さすがの父も正月1日は閉めた。
 お正月で嫌だったのは、棚卸しだった。子供の頃、冬休みに読み上げを手伝ったが、あまり分かっていないのでよく叱られお役御免になった。大学に入ってからは、記帳しろと言われ、父の読み上げを書き留めて行ったが、興味がないのでうたた寝してしまい、途中から字がのたくっていて、叱られた。

 父は蘊蓄の好きなタイプだったので、私に領収書に店名の判子を捺させるなど、仕事をさせながら、いろいろなことを教えた。
 曰く「白紙に印鑑を捺してはいけない。何故かわかるか?」
 曰く「社名の印刷や印鑑は、(株)〇〇、株式会社〇〇、〇〇株式会社、は別のものだ。間違えたら丸損で、こちらが被らなければならん(印鑑や社印、印刷の取次もしていた)」
 曰く「社名印を捺す時は、真っ直ぐか、斜めなら縁起を担いで右肩上がりにする。印鑑も字が右肩上がりになるように捺す」
 母は、「銀行渡り」の判子を捺しながら、小切手の仕組みを教えてくれた。しかし、当座預金の仕組みがイマイチ納得できなかった。

 両親からは、「家族4人(父母妹と私)の中で商売に一番向いているのは、お前だ」と言われたが、小学校の時から足し算・引き算の数字が全然合わない(笑)ので、両親は早くから私に商売を継がせるのは諦めた。個人商店は、大規模商店やコンビニが発達したバブル期に、壊滅的に斜陽化したので、助かったと思う。

 店を改装した小学校三年生頃から、店番をさせられた。一人店番だとトイレにも行けないからだ。母は買い出しに行き、料理を作るし、父は会社を辞めてからは外回りをしていた。だから、父母は大体一人で店番をしていた。
 店番の時、父曰く、「別に売らんでもいいから、盗られないようにせぇよ。見ているだけでいいから」
 実際、近所で玩具屋を女手一人で商っていた店は、ちびっ子ギャングの逆恨みに遭い、集団万引きで潰された、と聞いた。玩具も文具も利が薄く、良くて7掛け、普通8掛けで仕入れる。損益分岐点もなかなか超えないのだが、それ以前に盗られたら丸損になり、赤字になる。
 学生のころは、他の店の防犯が気になり、つい上を見てしまう(鏡や防犯カメラがある)ので、不審な客として、よく店員に付き纏われた。ハイブランドや高級店では同じ所作をしても全然付き纏われない。親が言うには、ベテランなら、買う客かそうでないか、盗る客かどうかは入ってきた瞬間に分かるそうだ。

 小学校に入るまでは会社員の娘だったから、なかなか「いらっしゃいませ」が言えなかったが、小学校四年ぐらいなら、「金封はお葬式なら黒白、法事なら黄白です」ぐらいのことは客に説明できるようになった。が、説明する前に「大人を出せ」と言われることもあった。大体、年寄りの男性だった。

 妹が後に百貨店勤めをすることになって、研修に行き、「みんな、『いらっしゃいませ』が言われへんねんで」と驚いたように言ったが、「アンタも最初、言われへんかったやんか」と言い合って、笑った。妹は引越した当時4歳だったが、それでもやはり小学生くらいの時は「いらっしゃいませ」に苦労していた。物心つく頃から実家が店でも同じなんだ、と思ったことだった。妹は就職してから「家が店で良かったと思えたのは『いらっしゃいませ』が苦労せずに言えたことやわ」と言った。

 小学校六年ぐらいから中学時代は時々、近所の会社に納品に行った。「毎度、内田商店です」と言うように親から言われ、当時テレビでやっていた「丁稚どん」のコントみたいだと思い、格好が悪くて、松竹も吉本もずっと嫌いだった。しかし、これは大阪人としてはマイナスだった。今でも芸人系の流行り言葉が全くわからない。
 ともあれ、「内田商店です」と言って会社の中にズンズン入って行くことに慣れたので、二十年後には、教員として、生徒の就職先開拓のため会社回りをするときに役立った。懐かしくもあったし、あまり心理的ストレスがなかったから。

 人生に、万に一つの無駄もない、と言う。いろいろ嫌なことも苦労もあったが、そういうことにしておこう。


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