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人生の「目的探し」をいったんやめた話。

"What is your Life Purpose?"

「あなたの人生の目的は何ですか?」
「最終的にはどうなりたいんですか?」
こんなふうに聞かれて、即答できない自分にいつもモヤモヤしていた。

生きがい・目的・ゴール

そうした箱の中に収めようとすればするほどなんか違う、そんな行き場のない小さな喜びだけでは人生を存分に味わうには不十分だと言われているような気がした。
箱を覗いてみるたび実感として現れるからっぽの空間が、まるで自分の心にまでvoidを生むような気がしていつもそっと蓋を閉じた。


生きる目的となる「何か」を実体のない、ぼんやりとした方法ですら捉えることのできない自分は、傍から見れば目的なく人生を送っているように見えるのだろうか。
それなら、目的とも生きがいとも呼ぶに値しない、でも紛れもなくリアルな私の中の喜びを一体どう捉えたらいいのだろう。

例えば、こうして文章を書いているときの心の昂ぶり。木々の中でする呼吸にしっとりと満ちていく気持ち。沈む夕日を、我を忘れるほど夢中で目に焼き付けているあの瞬間も。これらの感情は、目的や生きがいという箱に入れてみるには少々おおげさで、ミスマッチのように感じたりもする。


人生の目的は?生きがいは?ゴールは?三年後どうなっていたい?
そんな質問を投げかけられる度、何か実体のある答えとして言語化したそれを他人に証明しなきゃいけないような気に勝手になった。
でも、私にはそんな大それた何かが自分の中にあるなんて到底思えなかった。
「ゴールから逆算しないと」と言われても、見えない「何か」を無理くりゴールという箱に閉じ込めてそれらしく見せることになんの意味も見出せなかった。
その場をやり過ごすためだけに強いられ設定した虚構のゴールは、次第に輝きを失った。
だからと言って、血眼になって人生の目的となる「何か」を探し出すことにそれほど興味も湧かなかった。


目的ある人生を生きている人は、たしかに美しい。
イキイキとした表情からは、「今、まさにこの瞬間のために自分はこの世に生を受けたのだ」という自信がみなぎっている。
そんな無敵の自信をとんでもなくeffortlessに体現する姿はキラキラとまぶしく、まるで「生きがい」そのものが内側から発光しているかのような錯覚すら覚える。

でもきっとそこにある生きがいは、いわゆる「頑張って見つけた」ものともちょっと違う。
なんとなくだけど、彼らを観察しているとそんな気がしてならないのだ。
日々を過ごす中で感じた喜びや、見過ごせない何か。そうした瞬間の中にキラリと光るそれを「たまたま」見出してしまった。そして「気付いたら」夢中になっていた。
彼らの背後に共通して見えるそんな軌跡には、どうしたって偶然という言葉では片付けられない何かを感じとってしまう自分もいる。


そう考えると、いま私の中にある感情や喜びは、やはり目的生きがいという名前のついた箱に入れるには取るに足らない些細なものなのかも知れない。
でも、確かにそこには私の感じるイキイキとした喜びがある。
たとえその感情に輪郭を与えることが出来なくても、言語化して他人に証明できなかったとしても。

そして私は、そんな小さな小さな喜びを積み重ねて生きる人生が嫌いじゃない。
今なら胸を張って、静かに自分にこう言える気がする。


一つの大きな目的を追い続けることで得るあのブレない情熱は、今の私にはないかもしれない。でも、自分の中にある感情の機微や嘘偽りない感動を、まだ見えもしない目的を探す道中でぼんやりと見失いたくないと今は本気で感じている。



こうして私は、今も「人生の目的」という空箱を抱えたまま生きている。
この事実は依然として変わらないし、この先この箱が埋まる日が来るのかもわからない。けれど一つだけ以前の私と違うのは、その箱の中を覗いても、もう心にvoidは生まれないということ。

何か大きな目的がなくとも、日々自分の中に湧いてくる感情と向き合い、呼吸し、ゆっくりと歩を進める。

そんな毎日を人生と呼ぶことに、今は何の後ろめたさも感じていない。


Peace.



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