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私は、人の【主観】に興味がある。

先日ラジオでこんなお話をした。

きっかけは、「無名の人の個人的な話に誰も興味ない説(だからこそ初心者は万人受けするお役立ち情報からスタートせよ)」を散々目にする中で、ふと自分は興味あるぞと感じたからだ。

私は、その人の情熱や思いの詰まった主観の世界にどうしたって強く惹かれてしまうところがある。これは日常生活の中でも同じで、オタクな人であればあるほどその人への興味関心バロメーターは急上昇する。

もっというと、「みんなはどうか知らんけど【私は】こう思う」をたとえ口にせずとも自分の中に持っている人に興味があるのだ。

確かに万人受けするお役立ち情報からスタートするというのも、発信をスタートする上では一つの手段かも知れない。noteで言うところの「読まれなければ」、ラジオで言うところの「聴かれなければ」独り言同然という意見には自分も同意するところがあるので、どうしてもそこを目指す中でこうした意見に頼りたくなる心理も理解できる。

しかしここでいつも疑問に思うのは、果たしてそこには「万人受けする」お役立ち情報なんて本当に存在するのか?ということだ。

万人受けすること、より多くの人に賛成されることを良しとする社会の中に在ると、自分の心で感じたままを表現することにどこかで後ろめたさを覚えたり、無意識のうちに意思決定を多勢の意見に委ねてしまうということがあるかも知れない。そしてこれは、日常の中の「主体的に考える」「自分の意見を述べる」といった場面にもどこか共通するフシがある。

人が陥りやすい思考エラーの一つに【バンドワゴン効果】というものがある。物事を決定する上で、大多数が支持する意見=「真実」かのように認知してしまうことだ。

考えた結果、たまたま自分も多勢の意見と同意見だった、ということもあるだろう。でも、「ちょっと好みじゃないな」とか「私はそう思わないかも」ということがあったとしても何もおかしくないはずだ。そんなふうに「自分自身で考える」という工程をすっ飛ばして何となくみんなが言ってるからそうなんだろうな、という結論に行き着いた人が、例えば「○○さえすれば△△出来ます!」みたいな内容を一緒くたになって発信する雰囲気には、どこかちょっとした味気無さを感じてしまうときがある。

かくいう私もお役立ち情報にはたびたびお世話になっている一人だ。その中には、知識として知っておくと便利なもの、日常で使えるものなど興味深い内容もたくさんある。しかし、だからと言って個人の話に興味がないということは全くなく、むしろそういった内容によって視界が開けたような気持ちにさせてもらえたり、逆に「へぇー!そういうモノの見方もあるのか。でも自分はこう思うな」と、自分の意思を再確認させてもらえることがあるというのもまた事実だ。

こんなふうにして、凝り固まっていた自分自身の主観が少しずつ削り取られてまろやかになったり、逆にシャープさにちょっぴり磨きがかかったり…といった感覚もまた、人の主観にお邪魔させていただく醍醐味の一つだ。それは違う感性やモノの見方を味見させてもらう感覚にも近しく、だからこそリアルライフでは関わり切れない数の人のそれを垣間見れるオンラインの世界に面白みを感じる。

お役立ち情報満載のGoogle検索から離れ、わざわざ個人の発信を目的に人が集まってくる。それは、こうした【それぞれの世界観】に触れることが出来る点を魅力に感じる人が少なからず存在するからではないだろうか。

「私は」どう思うかな?
と考えた先に浮かんだ思いがたとえ多勢のそれと一致しなくとも、それがそのときの自分の等身大の「真実」であることに変わりはないと感じる。
心の中から湧き上がってくる思いというのは、たいていの場合嘘をつかないからだ。
それが時を経て少しずつ変化することもあるだろうし、逆に大勢の人の主観に触れる中で研磨され、自分の中の核となることもあるかも知れない。どちらの場合も、まずは自分の根底にある思いを意識してみないことには始まらない。

そしてもちろん、それを必ずしも全員がパブリックで声高に主張しなくてもいい、とも思う。
でも、もしそういうことを発信したくて始めた何かを冒頭のような「そんなの誰も興味ない」説に触れるうちに諦めている人がいたら、中には私のような人間もいるのだということを知ってほしい。

興味、あります!


Peace.




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