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#184 AM7:30


「あるある!」と言ってしまうほど

あるあるなのに

学びもしないで繰り返す

どうにかしたい洗濯機と忘れ物


とりあえずと

ポケットに入れておいたこと

洗濯機には気をつけて

そう思って入れておいたこと

そんなことはすっかり忘れ

ズボンを洗濯機に突っ込んだ


少しすると

いつもと違う洗濯機の音がする

「ガガガ」「カラカラ」

洋服では出ないであろうそんな音


そして気づく

あの時の

洗濯機には気をつけて


慌てて一時停止

洗濯機の蓋を開けると

変わり果てたキミがいた


ごめんねごめんね

何度も謝るけれど

キミからの返事は

「謝るのは何回目?笑」


その通りです

そろそろ大人にならなくちゃ

キミを

洗濯物に入れた忘れ物にしないように

洗濯物から救出できる大人になろうと

そう誓ったAM7:30



『世界は一つの教室』を読む

創造性をつぶすことはできる

なんとも怖い言葉だが

教育方法によっては創造性をつぶしてしまう可能性があるということ


〈学び〉って何なんだろう?

学びは一人ひとりの脳のなかで生じる


学びに関連性があることで効果的となるとわかっているにもかかわらず
「分断」という正反対なことをしている教育現場

なぜ?
教室という限られた場所だけで行われるのか
なぜ?
集中力は短いのにコマに区切られた授業時間が決まっているのか
なぜ?
教科が独立しているのか
なぜ?
年齢別区分なのか

確かに考えてみると「なぜ?」が多い

同じ脳はふたつとない=学びは標準化できない

だからこそ

「いつ」「どこで」「速度」が自分で管理できるマイペース学習が必要

だと著者は述べている

教育の役割とは

いかにして学ぶかを教えること
学びたいと思わせ
好奇心をはぐくみ
素直な驚きを促し
自信を植え付け
将来まだ見ぬ数多くの問題に対する答えを探し出せるようにすること

これって
保育にも言えること

あれやこれやと
縛りがあっては学びの力は育まれない

「マイペース」こそ根本にあっていいのだと思う

著者が

世界そのものが一つの広大で垣根の低い学舎

だというように
世界が学舎なのである
通っている保育園の所属しているクラスだけが学舎ではない
もっとスケールは大きくていい

どこだって誰とだって学べるのである

同じ脳がないのなら学ぶ方法は多種多様
自分のしっくりくる学び方で学べば良い


保育の現場は少しずつ
「一斉保育」から「自由保育」に変わりつつあり
幼児は「異年齢保育」中心となる
以前より個々の思いを大切にするようにはなってきている

それでもまだまだ「一斉」がどうしても抜けきらない

習慣化したこと
植え付けられたことを
変えていくにはなかなか大変であり
試行錯誤

それでも

発達のスピードも
興味関心のある事柄も
得意不得意も
それぞれ違うのだから

クラスの壁なんて無ければいいのにと思ったりする
まだできない、もうできる
そんな縛りなんてなくなればいいのにと思ったりする

単位が大きくなればなるほど
個々に対応することが難しくなる
だからこそクラス単位で
信頼関係を作り、頼れる存在を作り、個々を大切にしたい
そう思っていたけれど

それはエゴなのか、、と

頼れるのは保育者だけではない
自分の好奇心のままに
やりたいこと、学びたいことを
存分にできた方がいいのではないか
年上と一緒だから「模倣して学ぶことをする」
年下と一緒だから「模倣させて学べるようにする」

自分の心地よい場所こそ「学び」に一番適しているのかもしれない


めんどくさいと思っていた
やらされている感覚しかなかった学校も宿題もテストも

大人になって
自分のタイミングで自分の好きな分野を
自分の好きなように「学ぶ」ことができるようになって
ようやく「学び」の大切さ
「学び」の楽しさに気づいた

そういうことなんだと思う


人種や貧富、環境に関わらず平等に
いつでもどこでもマイペースに学ぶ機会があること

そして学ぶことを
誰しもが苦痛ではなく楽しめること


教室をひっくり返すように

既存の考え方を見つめ直し
ひっくり返すことが必要なのかもしれない

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