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【architect】建築家とは…陰翳礼賛に学ぶ

『陰翳礼賛』


1933年出版谷崎潤一郎著

私が大学生の頃は、建築家になりたいのであれば陰翳礼賛は読まなければいけないとよく言われたものだ
いわば建築意匠におけるバイブル的な書である

noteには現役の建築学科の学生さんがたくさん投稿されているが、今の学生さんも陰翳礼賛は読まれているのであろうか?

また陰翳礼賛は照明デザインやインテリアデザインを志す方にとっても大きな影響を与えていると聞いている

私も学生の頃もちろん読んだ
しかし正直に言うと、いまいち心に突き刺さるようなリアリティをもって読めたわけではない

最近、ふと思い出したように再び読んでみた

これが文学と言うものなのかもしれないが、普段SNSなどで文章を端的に分かりやすく表現することに慣れている人には非常に読みにくい
文の改行が著しく少なく、語尾の言い回しもくどい感じがある

今回再読にあたり、気になった文章はメモを取りながら時間をかけて読み進めた
すると繊細な文章から情景が頭の中で浮かび理解が深まった

それにしても90年近く前の戦前に書かれた書物とは思えないほど現代に通じる内容である

しかし、なかなか要約するのは難しい
日本人はその風土や伝統から深い庇のもと、暗い場所に居場所をつくってきた歴史がある
これは必然であり、西欧の建築の成り立ちとは異なる

西欧の文化を取り入れながら、日本の伝統をのこすような試みを素人なりにしてみるのだが、返っておかしくなってしまう様がまず描かれている

障子にガラスを使いたくないから
内側を紙貼り、外側をガラス張りにする
本物の紙障子のようなふっくらした柔らかみがなく、嫌味なものになりがちである
そのくらいならただのガラス戸にした方がよかったと、やっとその時に後悔するが、他人の場合は笑えても、自分の場合は、そこまでやってみないことにはなかなかあきらめが付きにくい。

この暗がりの中での暮らしは好き好んでそうなったのではないが、日本人はその暗がりを普段の生活の中で美へと昇華させて来たのだと

暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に添うように陰翳を利用するに至った。事実、日本座敷の美は全く陰翳の濃淡によって生まれているので、それ以外に何もない。

その過程では、蝋燭による光が揺らめく光には障子の紙の素材や、床、壁の天井、床の間、掛け軸に至るまで全てが呼応するように建築されている
そこに日本人的な感性があるのだと

特に厠についての考察は秀逸である

母家から離れて、青葉の匂いや苔の匂いのしてくるような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想にひたり、または窓外の庭のけしきを眺めるきもちは、なんとも言えない。

そうしてそれには、繰り返していうが、ある程度の薄暗さと、徹底的に清潔であることと、蚊の呻りさえ耳につくような静かさとが必須の条件なのである。私はそういう厠にあって、しとしとと降る雨の音を聴くのを好む。

さらば日本の建築の中で、一番風流に出来ているのは厠であるともいえなくはない。

私の母の実家も厠は離れにあるのでよく分かる
昔は何で外にわざわざトイレがあるんだと思ったし、夜中に行くのは正直怖かった

でも朝方朝日を浴びながら用を足すのはなんとも心地よいものである

しかし、この頃西洋からの文化が入ってきて日本の陰翳を打ち消すような照明やタイルなどの材料が入ってきていた
それらは明るさや掃除といった実用面では優れているのでこれからますます受け入れられていくだろうと著者も述べているが、言わずもがなそのようになってしまった

しかし、結びに著者はこのような言葉を残している

私は、われわれがすでに失いつつある陰翳の世界を、せめて文学の領域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の檐を深くし、壁を暗くし、見え過ぎるものを闇に押し込め、無用の室内装飾を剥ぎ取ってみたい。それも軒並みとはいわない。一軒ぐらいそういう家があってもよかろう。まあどういう工合になるか、試しに電灯を消してみることだ。

文学の世界に閉じ込めたこの思いは、90年近く経った今でも日本人の心の中にも生き続けているように思う

私が考える『small design』にも通じるところがあるように感じた
質素であるが、わずわかな光をいかに美しく扱うか
人間の五感を丁寧に紐解くことで、小さくとも質素でも豊かな暮らしが出来ることを意味しているのではないだろうか



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