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答えは1000年の旅をする _『風の谷のナウシカ』から『もののけ姫』へ

6月26日からスタジオジブリ過去作『千と千尋の神隠し』『もののけ姫』『風の谷のナウシカ』『ゲド戦記』が映画館で上映され、週末動員数の上位を独占している。普段はIMAX上映で使われるような最大スクリーンが割り当てられ、私が観に行ったときは一席ずつ空けての鑑賞であろうと両隣(の隣)には必ず人がいるような、大変な盛況ぶりだった。映画館もさぞ収入面で助かっていることだろう。改めてジブリ過去作は今なお映画館にとってはドル箱であること、そして日本人のジブリ信仰の深さを見せつけられたような気がした。仏教よりも信仰されているのではなかろうか、ジブリ。かく言う私も例外ではなく、千と千尋、もののけ姫、ナウシカを観に行ってきて、全てに爆泣きして帰ってきた。今、この文章を書いているこの部屋にもこの3作のサントラで作ったプリリストが流れている。

私はスタジオジブリ作品の中では『もののけ姫』が一番好きだ。初めて映画館で観た映画という個人的な思い入れもあるが、キャラクター、舞台設定、物語、その構図、そして久石譲による音楽、全てが、97年に劇場公開されてから今となっても私の心を捕えてやまない。いつか『もののけ姫』について書けることがあればと思っていたが、この作品には膨大な歴史研究と民俗研究がなされていて、それらを踏まえつつ自らの答えを導くのは相当に骨が折れる。かつ、『もののけ姫』を単体で語ろうにも、私にはどうしても「前後」が必要だと思っていた。宮崎駿が何を、どのような旅を経て『もののけ姫』という作品、あの世界の仕組みにたどり着いたのか、私はそこが知りたかった。

それが、先日『風の谷のナウシカ』を劇場で観たことによって、不意に閃くものがあった。
『もののけ姫』が劇場公開されたとき、CMでは「『風の谷のナウシカ』から13年」というコピーが使われていたことを唐突に思い出した。ひょっとするとこれなのかもしれない、と思った。もはや信仰レベルの人気を獲得しているジブリを熱心に研究している人なんてごまんといるはずで、そんな人たちにとっては今更かと言われそうだが、私自身のタイミングと感覚として、ここに残しておきたい。

宮崎駿の「旅」は『風の谷のナウシカ』から始まったのかもしれない。



終末世界と中世世界 通底するテーマ

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『風の谷のナウシカ(以下、『ナウシカ』)は巨大産業文明が滅びてから1000年後の世界が舞台になっている。かつての産業文明は「火の七日間」と呼ばれる最終戦争により完全に破壊され、人間たちの文明レベル-少なくとも風の谷は-農耕を中心にした小さな村単位での生活にまで退行している。
『ナウシカ』の世界は腐海と呼ばれる猛毒の瘴気を放つ菌類の森の進行に脅かされている。この腐海が世界に広がっていくにつれ、人間たちの村や町は次々に滅びていく。潮風によって森の毒から守られているという風の谷ももちろん例外ではない。主人公の少女ナウシカは腐海の毒がいかにしてもたらされるのか、そもそも腐海とは何なのかを独自に研究し、人間と腐海、そして腐海に住む蟲たちとの共存の道を模索する。


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一方、『もののけ姫』は中世(室町)時代の日本が舞台になっている。狩猟や工芸を生業とし、本州北部で小さな村を営んでいた蝦夷の末裔アシタカはある日突如として村を襲ってきたタタリ神を退治した際、右腕に死の呪いを受ける。この呪いの根源、理由、呪いを解く術を探すため、アシタカは村を出る。そして西の果てで行き着いたタタラ場と、そこを取り巻くシシ神の森、そこに住む動物の神々との関係を知り、人間と森、そして森に住む動物たちとの共存の道を模索することになる。

以上のことから、本2作は以下の構図が一致している。

・「自然(腐海)」と「人間」という二項対立
・主人公はこの二項対立の融合、共存に奔走する



「二項対立」で済む話なのか

上記の共通点から、『ナウシカ』『もののけ姫』のそれぞれの物語にはある共通した構図がある。山場で起こる「自然(腐海)と人間の全面衝突」である。
『ナウシカ』では大国トルメキアによって風の谷に持ち込まれた巨神兵の奪還のため、ペジテ市は人為的に王蟲の大群を風の谷へ襲わせる。
かたや『もののけ姫』ではシシ神の森にイノシシ神の乙事主率いるイノシシの大群が犬神モロ一族に合流し、かねてより攻防を繰り広げていたタタラ場の人間たちを殲滅せんとイノシシ一族が大挙して襲いかかる。

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構図としては同じである。ただしここで人間側の受け止め方には真逆の差が見られる。『ナウシカ』の風の谷の人々は押し寄せる王蟲の大群に「(死が)定めならば受け入れるしかない」と反撃を放棄しているし、侵略者であるトルメキア皇女クシャナは未完成の巨神兵を目覚めさせて反撃を試みるが、巨神兵は2発のレーザービーム(のようなもの)を発射しただけで身体が崩れて死んでしまい、押し寄せる王蟲を全く食い止めることができない。この衝突は、『ナウシカ』の世界での力関係が圧倒的に「自然(腐海)>>>>>>人間」であることを示していると言えるだろう。
かたや『もののけ姫』では押し寄せるイノシシの大群に対し人間側もあらゆる武器と人力を投入して最大限の反撃に出る。大量の地雷や崖の上からも爆弾を落とし、最前線に配置された人間もろともイノシシたちを吹き飛ばす。人間側でも大量の死者を出すなど相応の犠牲を支払ったが、イノシシ一群はほとんどが死に、ボスである乙事主にも深傷を負わせることに成功している。イノシシvsタタラ場の人間の構図のみに絞るならば、『もののけ姫』での力関係は一応は「自然≒人間」に見えるくらいには、人間はまあまあ強いのである。

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しかし『ナウシカ』では人間と王蟲の全面衝突がナウシカの自己犠牲的行動によって解決され、そのまま物語は収束していくのに対し、『もののけ姫』にはイノシシvs人間の衝突はきっかけに過ぎず、「侍vsタタラ場の女たち」「シシ神vs人間」が並行して発生し、最終的には「神の暴走」という構図にまで肥大する。『もののけ姫』で描かれる衝突は同時多発的であり、かつ複合的である。そして衝突の土俵に上がる片方は必ず人間だが、対戦相手がグレードアップを重ね最終的にはラスボスは神となる。しかも本当は心優しい王蟲とは異なり神はガチの神であり、時には自らが守護し、そして守護されてきた森や動物たちをも容赦無く滅ぼしてしまう。人間はイノシシの大群との攻防から始まり、知らず知らずのうちにより大きな衝突の構図へと足を突っ込んでいく。そして迎えるのが「神の暴走」だ。
首を奪われたシシ神はそのまま首のないデイダラボッチとなり、誰彼構わず命を吸い取り、森や動物をも滅ぼし始める。こうなるとイノシシや人間、侍とタタラ場の女たちなどという二項対立たちは全く意味を成さないものとなり、人間たちはただ「生き延びる」ためだけに行動し始める。つまりは争いを放棄してひたすらに逃げるのだ。

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ここにも『ナウシカ』との違いがある。王蟲の大群を目の当たりにして自らの死を定めとして受け入れた風の谷の人たちとは対照的に、『もののけ姫』でデイダラボッチの暴走を目の当たりにしたタタラ場の人間たちはそれを決して「定め」などとは受け入れない。彼らはあくまで「生きること」に目が向いている。トキの「生きてりゃなんとかなる」という力強い一言がそれを表している。

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アシタカとサンの尽力により、デイダラボッチは首を取り戻し、夜明けとともに消えてしまう。神が湖に倒れこむとき、凄まじい風が辺り一帯の瓦礫や炎を吹き飛ばす。あらゆるものが風に飛ばされて消えたあと、動物たちが死に絶え枯山同然となっていた山、森に再び緑が芽吹き始める。ここにはもう侍も山の神々もおらず、ただ「生き延びた」人間だけが存在している。つまり、衝突の図式が一気に無効化されたことで『もののけ姫』は収束に向かうのである。

以上をまとめよう。

・2作とも「自然(腐海)vs人間」の全面衝突が発生する

・『ナウシカ』の衝突の図式は単発的である(人間と王蟲)
・『もののけ姫』の衝突の図式は同時多発的かつ複合的であり、より規模の大きな構図の衝突へと肥大していく

・『ナウシカ』ではナウシカ一人の自己犠牲的行動によって人間と自然が「和解」し物語が収束する
・『もののけ姫』では神による一方的な介入(衝突の無効化)によって物語が収束する

『ナウシカ』の人々は死に目を向ける/『もののけ姫』の人々は生に目を向ける



敵は単体ではない

次に、『ナウシカ』『もののけ姫』に登場するトルメキア皇女クシャナとタタラ場の頭領エボシを並べて考えてみたい。二人がそれぞれ作中で主張することは要約すると以下のようになる。

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クシャナ:腐海の消滅こそが人類の唯一の生きる道であり、腐海を焼き払えば人類には必ず繁栄が訪れる。
エボシ:森からシシ神、もののけを排除できれば森の力は弱まり、タタラ場はより豊かな国になる。ただしもののけ以外にもタタラ場を狙う敵は存在し、森との戦いが終われば次の敵は侍(人間)になるだろう。

クシャナは「腐海の消滅=人類の繁栄」と半ば短絡的に結びつける。対してエボシも「シシ神・もののけの排除=タタラ場の繁栄」という考えを持っているが、彼女はその上にもう一層思考のレイヤーを重ねている。クシャナが「人類の繁栄」を無条件に「素晴らしいもの」と捉えているのに対し、エボシはその「人間」がタタラ場にとっての敵になるであろうことも見据えている。エボシはタタラ場を纏め上げ、人間を生かそうと尽力する人物でありながら、その人間が内に秘める欺瞞にも気づいているのである。

つまりはクシャナ、エボシそれぞれの思考だけを抽出してみても『ナウシカ』と『もののけ姫』には大きな差がある。上述のように『ナウシカ』で起こる全面衝突が単発的であり、『もののけ姫』のそれが同時多発・複合的であるように、人物の思考回路としても『もののけ姫』にはいくつものレイヤーが挟まっている。そして、人物たちの思考が複層的であるからこそ、彼らの視野は広くなる。広くなった分だけ先を見通す力がつく。そうして彼らは敵が決して単体ではないということを知るのである。彼らが作り出す鉄は侍に狙われている。もののけたちは森を侵すタタラ場を憎み滅ぼそうと常に狙っている。シシ神退治にエボシがタタラ場を留守にすればその隙を狙って侍がタタラ場を襲う。タタラ場はいくつもの敵の中で循環している場所なのだ。

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「自己犠牲」をどこに配置するのか

『ナウシカ』と『もののけ姫』には「自然と人間の全面衝突の発生」という共通点の他にもうひとつ隠された共通点がある。ヒロインの「自己犠牲」だ。

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『ナウシカ』では王蟲の怒りを鎮め風の谷を守るため、ナウシカは幼い王蟲とともに大群の先頭に立つ。彼女は襲い来る群れに跳ね飛ばされ、一度は死を迎える。しかし、その自己犠牲的な行動により王蟲は平静を取り戻し、治癒能力のある触手で彼女を包み込むことで彼女を蘇生させる。その光景に大ババさまは「なんという愛といたわり」「王蟲が心を開いておる」と泣き崩れる。つまりナウシカの行動によって人間と自然(王蟲)は和解に至るのである。この作品において、ナウシカの「自己犠牲」はゴールなのだ。


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対して『もののけ姫』はどうだろう。本作のヒロインといえばもののけ姫と呼ばれるサンだが、彼女の自己犠牲はどこにあるのだろう。
それは山犬モロの君の発言に答えがある。
「森を侵した人間が我が牙を逃れるために投げてよこした赤子がサンだ」
彼女は見も知らぬ、最初に森にやってきた名もなき人間たちのために犠牲になったのだ。彼女は出生の時点ですでに自己犠牲的行動を強いられた人物なのである。つまりサンの「自己犠牲」はこの作品ではスタート地点にある。

彼女たちの「自己犠牲」を物語のどこに配置するかで作品の様相は全く変わってくる。
自己犠牲的行動が物語の最後に置かれるならばそれは美談となり、『ナウシカ』においては自然と人間の和解をもたらす。しかしその後のことは何も語られない。いわばおとぎ話が「めでたしめでたし」で終わってその続きが語られないことと同じだ。
しかし物語がそもそもある人物の自己犠牲から始まっていて、その上で二項対立が発生しているとすれば『もののけ姫』は時代は違えど『ナウシカ』の続きの物語になる。ナウシカが自己犠牲的行動に出て一度は和解させた自然と人間の関係を再び悪化させた世界が『もののけ姫』なのである。ナウシカが夢見た腐海と人間、蟲と人間との美しく平和な共存はどこにもなく、互いに憎み合い争いが絶えない世界がそこには待っている。宮崎駿は1000年もの時を遡り、『ナウシカ』の続きの世界を探しに行ったのだ。

・ナウシカの自己犠牲は最後に配置され、物語を美談にする
・サンの自己犠牲は前提として配置され、物語の醜さを浮き彫りにする
・『もののけ姫』は『ナウシカ』の「続き」の世界が描かれている



愛は世界を救わない

もう少しナウシカとサンの話をしよう。

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ナウシカは風の谷の族長の一人娘であり、人を愛し、蟲を愛し、風の谷を愛する慈愛に満ちた少女である。その愛ゆえに彼女は風の谷の住人誰からも好かれ慕われ、侵略者であるクシャナですら「あの娘ともっと話がしたかった」と彼女に心を寄せる。『ナウシカ』においてナウシカは人間関係では無敵であり、彼女は決して敵を作らない。かつ、愛するものたちのためなら身を投げ打って飛び出せる行動力がある。その性格と行動力が終盤での自己犠牲的行動を選ばせる。かくして世界は和解する。ナウシカ一人の尽力により風の谷は守られ、クシャナとも(おそらくそれなりに)仲良くなり、トルメキア軍は去り、平和を取り戻す。語られることはないが、風の谷はその後も穏やかに緩やかに繁栄を維持していくだろう。いわば、『ナウシカ』はナウシカ一人の愛の力でどうとでもなる世界なのである。


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サンは自らが守る大切な森が壊されていくゆえに、人間でありながら人間を激しく憎んでいる。「生きろ」と言うアシタカに「人間を追い払うためなら命など要らぬ」と切り捨てられるほどの森への強い愛、森と運命を共にしようとする強い意志を持つ。しかし彼女は「人間の生活を守るために森へ生贄として捧げられた子」であり、彼女の存在意義はそもそも彼女が憎む人間たちのためにあるという深い矛盾を抱えている。彼女自身がそのジレンマに自覚的であったかどうかは作中で伺い知ることはできないが、自分を理解しようとする人間アシタカに惹かれていく人間としての自分と山犬としてのアイデンティティとの間で彼女は引き裂かれる。森と人間との全面衝突、守り続けた神の暴走、そして世界の再生を経て、彼女が出した答えは「アシタカは好きだ。でも人間を好きになることはできない」だった。アシタカの愛(とここでは書かせてほしい)に応えてもなお、彼女は「人間」を受け入れることはできなかったのである。サンのこの一言は、努力を尽くしたところで誰か一人の愛だけでは世界はそう簡単には変わらないことを端的に示している。人間サマの愛はそうやすやすと世界を救ったりはしないのである。



セーブされる世界/リセットされない世界

では、あらゆる事象が一段落してエンドロールに向かうまでの両作を見てみよう。

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『ナウシカ』では王蟲の大群は森へと帰り、蘇生したナウシカは風の谷の人々やペジテのアスベル、クシャナと再会する。ナウシカとクシャナの歩み寄りにより、トルメキア軍は風の谷から撤退し、谷は再び穏やかに繁栄する。ナウシカは風車を回し、地下深くから清浄な水を引き上げる。子供達は練習用メーヴェで風に乗って飛ぶ練習をする。アスベルにはユパとともに旅に出るような描写もある。
風の谷という場所だけに目を向けよう。王蟲の大群は去り、トルメキア軍も撤退した。森の一部は胞子の放つ瘴気に冒され燃やさざるを得なくなってしまったが、エンドロールに流れる風の谷の日々は、物語が始まる前もきっとこんな生活であったのだろうと思わせるほどに穏やかだ。風の谷は物語を経ても変わっていない、もしくは元どおりになったのだ。それはトルメキア軍の選択も大きく関わっている。彼らは引き続き風の谷に留まったり協定を結んだりして風の谷を支配下に置くこともせず、ただ風の谷から撤退することを選んだ。自然(腐海)とともに暮らしてきた風の谷の人々、その自然にとっては「侵略者」であったトルメキアは自然から一度「手を引く」のである。こうして、風の谷は「元どおり」になる。めでたしめでたしの世界だ。私たちはエンドロールに流れる平和が戻った風の谷を見て、その先を知ることはない。風の谷の平和にはセーブボタンが押されたのだ。


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かたや『もののけ姫』。上述の通り森は一度滅び、首を手に入れて夜明けとともに倒れ込んだデイダラボッチがもたらした強風でタタラ場一帯も壊滅する。その上、(首を返してもらったことへのシシ神からの礼なのか)山々は驚異的な速さで回復を遂げ、植物という植物から新しい芽が伸びていく。木造の国であったタタラ場の残骸にも緑が生い茂り、決して「元どおり」とは言えない世界になってしまう。それでも生き残ったエボシは同じく生き残った数少ないタタラ場の人間たちにこう告げるのだ。「みんなはじめからやり直しだ。ここをいい村にしよう」と。
シシ神の森(自然)にとって、エボシを筆頭としたタタラ場の人間たちは紛れもなく「侵略者」だった。自然と常に戦い、たとえ何度死者を出そうともタタラ場を死守してきた人間たちである。
彼らはこの物語が動き出すまで、自らの正義を疑ったことはなかっただろう。しかし、ナゴの守を討つために放った毒礫で遠き地の少年は死の呪いを被り、その少年が森と人間との共存のため必死に奔走する姿はエボシに気づきを与える。下界から排除されてきた人間の生存、繁栄に命を賭け、生きるために鉄を作り森を侵すことを長きにわたり是としてきたエボシの価値観はアシタカの奔走や、神殺しの報い、そしてそれでも神はこの地に再び命をもたらしたことで確かに変わるのだ。今までのやり方は間違っていたのだと。

しかし同じく自然(腐海)を焼き払うことが人間の繁栄と信じていたクシャナがナウシカとの出会いによって自然(自然と共存する風の谷と読み替えてもらってもいい)から一度「手を引く」のに対し、エボシはこの場所に留まることを選択する。この地ではダメだったから余所へ移ろうというのではなく、過ちを認め、生き残った者たちだけで、なお、ここで生きようとするのだ。彼女が再び鉄作りを生業にするかはわからないが、少なくともエボシはこの地での生活にリセットボタンは押さないのである。

・『ナウシカ』は最後にセーブボタンを押して物語を終え、時間を止める
・『もののけ姫』はリセットボタンを押さないまま物語を終え、時間は続いていく



双方の不断の努力なくしては

長くなった。そろそろ最後の章を書いて終わりたいと思う。

最後に、両作が持つベクトルの違いについて残しておきたい。
冒頭に、私は『ナウシカ』においては自然と人間の力関係については圧倒的に「自然>>>>>人間」であると書いた。しかしこれは必ずしも人間が全くの無力であるということではない。
むしろ逆なのだ。『ナウシカ』においては主人公ナウシカの行動が全ての事象を左右する。彼女はしばしば人の世界に迷い込んだ蟲を助け、森へと帰す手助けをする。トルメキアの捕虜になることも受け入れ、旅の途中に襲撃をかけてきたペジテのアスベルも彼女が助けることになる。そして行き着くのがエンドの自己犠牲だ。ナウシカは物語の全てに関わっており、全てを解決に導いていく。ナウシカは人間と蟲とは分かり合えるものと心から信じており、それが彼女の行動の動機となり、蟲たちもそれに応えてしまう。それはつまり結局のところ「人間の行いで蟲の行動の全てが左右される」ということであり、この物語において上位に立つのはあくまで人間なのだ。その働きかけもまた一方向的なものに過ぎないと言える。

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対して『もののけ姫』については自然と人間の力関係は「自然≒人間」で人間はまあまあ強いと書いた。『もののけ姫』と『ナウシカ』が決定的に違うのはここだと私は思う。この物語において、人間は自然に対し決して上位に立っているわけではない。人間の行いは森の営みを全く左右しない。アシタカがどんなに誠意を尽くしても森と人とが分かり合えない部分をきちんと残し、分かり合えないことを人間たちに納得させているのだ。その上で、分かり合えないことを互いに承知した上で、彼らは共存を選ぶのだ。
それは、「アシタカは好きだが人間を許すことはできない」と言ったサンへのアシタカの返事に表れているように思う。
「それでもいい。サンは森で、私はタタラ場で暮らそう。共に生きよう」
アシタカはサンに人間世界への合流を決して強制しない。サンもまた、アシタカが好きだから彼も森側の立場にいてほしいとは願わない。しかし、それもまた共存なのだ。どちらかが一方的に働きかけ、上位に立つような世界ではなく、あくまで対等な立場で、対等な誇りを持って互いに隣人として生きることが共存なのだ。共存とは、双方の不断の努力なくしては決して成立し得ないものである。サンとアシタカ、タタラ場と森は、相互に働きかけ、歩み寄り、これからも問題を解決していかなくてはならない。それは一方的にこれだと押し付けるよりはるかに難しい作業だ。しかしそれでも彼らはそうして生きていくのである。宮崎駿は1000年後の『ナウシカ』の人々よりもさらに難しい課題を『もののけ姫』の人々に課したのだ。

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・『ナウシカ』は一方的な働きかけでも成り立つ世界
・『もののけ姫』は双方の不断の努力のもとに成り立つ世界



世界はうまくいかないけれど

『風の谷のナウシカ』なくしては『もののけ姫』という作品は生まれなかっただろうと思う。『もののけ姫』は『ナウシカ』の世界構造にさらに何層ものレイヤーを重ねて作られた世界だ。終末世界から中世世界へと時を遡り、1000年前の物語の方が多層的であるのは面白い。宮崎駿は13年の間に1000年の旅をしたのだろう。そして結果的に、『ナウシカ』よりも複雑で生きるに難しい世界を作り上げた。

今や、誰か一人の尽力だけでは世界はなかなか変わらないことを誰もが理解している。ナウシカのように自然のためなら自らの命をも差し出せるような全き聖人は存在しないし、環境破壊の抑制に声をあげる人々に石を投げる人間だって存在する。そうしている間にも現代を生きる私たちは日々、気候変動の災害に直面したり、人種差別や女性差別に忙しい。『もののけ姫』が訴えた「共存」が忘れられようとしているのを感じる。

それでも、力を振り絞って生きなくてはならない。矛盾に満ちた世界でも、うまくいかない世界でも、不断の努力を決して止めてはならない。

「アシタカは好きだ。でも人間を許すことはできない」
サンの出した答えは未来への希望でもある。憎むべき大きな対象のどこかにも、愛せる人は存在するのだ。憎みたくなる、投げ出したくなる世界にも、愛するに値するものは存在するのだ。その存在を信じ、固く握りしめて、日々を生きていくのが私たちの存在意義なのだ。

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この世は素晴らしい。
戦う価値がある。
(アーネスト・ヘミングウェイ)






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