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20年前、中学生だった僕は、京都の男子校で吹奏楽の"部活"をしていた

2002年、今から20年前、僕は京都の中高一貫の進学校、洛南高等学校附属中学校に入学し、その中学の3年間のうち多くの時間を吹奏楽の”部活”に費やした。

楽器はユーフォニウム(ユーフォニアム)。当時の「洛南」はまだ男子校で、女性部員が多いイメージの吹奏楽部も、もちろん男子だけの部活だった。

吹奏楽部で過ごした時間は1日1日が濃密で、進学校で学ぶどの授業より自分にとって有意義で大切な時間だったし、今でもその気持ちは変わらない。でも、中学を卒業して吹奏楽をやめて受験勉強に向かっていった高校時代、そして、大学から東京に来て、そのままそこで就職するまでのあいだ、どういうわけか、そのときのことが自分の中で恥ずかしいことのように思えて、無意識のうちにそのときのことを記憶の奥底にしまって見ないようにしていた。当時の人的なネットワークも、維持することもできたはずなのに積極的につなぎとめようとはせず、今となっては周囲に話せる人が誰もいなくなってしまった。

でも、20年経った今、突然、自分のなかであのときのことが懐かしく思い出されて、当時の演奏が入ったMDをどうしても聴きたくてたまらなくなって中古でMDプレーヤーを買ってまでして聴き返していると、当時の記憶がとめどなくあふれ出てくるのを止められなくなった。そんなわけで、中学生だった自分の目から見た2000年代前半の京都の吹奏楽シーンの一端をどうしても書き残したい、そしてそのことで、自分の中学生時代を、もっと言うと自分のこれまでの来た道を言葉として刻みつけたい、そんな気持ちになって、こうして筆をとっている。

2000年代初頭の当時、ケータイはもちろん今でいうところの「ガラケー」でezwebやi-modeは現役、当時は2つ折りになる機種が出てきたばかりで、「写メ」の機能が衝撃だった、そんな時代。バックストリートボーイズやヴァネッサ・カールトン、アヴリル・ラヴィーン(Girl FriendではなくComplicatedやSkater boyの時代)の音楽が京都のFMラジオ、α-STATIONから流れていて、当時僕はコンポでそれをMDに録音し、小さなリモコンで曲名を一文字ずつMDに記録しては聞き返し、ちっちゃい字で曲名を並べた紙をつけた「ベスト盤」を自作していた、そんな時代。

吹奏楽をやっていた当時の僕には、ブルーハーツやミシェル・ブランチの曲も、ラフマニノフやストラヴィンスキーの曲も、同じくらいかっこいいものとして、まったく同列に響いていた。そこにジャンルの優劣はなかった。吹奏楽の先輩も同じように、大塚愛の「love punch」のジャケをケータイの待ち受け画面にしながら、部室ではエルガーの「威風堂々」を演奏していた。

吹奏楽をしていたのは2002年から2005年、年齢にして12歳から15歳まで。あの吹奏楽の経験は自分にとってなんだったのか。僕はあのとき何を考え、何を話し、どう行動したのか。

それほど記憶力のいい人間ではないので、細かいところは正確に思い出せないのですが、おぼろげになった記憶を辿りながら、中学1年の入部から中学3年の卒業までを、20年後の32歳になった自分が振り返ります。


1-1_入部:「純」から「鈍」へ

世にあるあらゆる吹奏楽部の年間スケジュールは夏の吹奏楽コンクールを頂点として構成されているにちがいない。

そして、その時に練習した曲の「運指」はおそらく生涯、何も見ずに自動的に反復できるほど何度も何度も練習をする。でも、その春に奈良の田舎の公立小学校からはるばる京都市内の進学校へやってきた自分に、そんな知識は持ち合わされていなかったし、そんな覚悟もなかった。

どうして数ある部活のなかから吹奏楽を選んだのか、自分でもよく思い出せない。もしかすると、入学式で校歌を演奏していた吹奏楽部がかっこよく思えたのかもしれないし、小学校のころ気になっていたあの子が吹奏楽部に入ると言っていたのをどこかで覚えていたからかもしれない。きっかけはそんなところで、深く考えて選んだわけではない。三年も続けるつもりもなくて、一年くらいやってちょっと吹けるようになれば辞めちゃえばいいかと最初は思っていた。

入部して最初に決めるのは楽器だ。部活訪問の日、そんな用意もなく吹奏楽部の部室に向かった僕は、もう誰だったか忘れてしまったけど、そこにいた先輩に「なんの楽器に興味ある?」と聞かれ、なにも考えていなかったもので、とっさにトロンボーン、と答えた。なんとなくあのスライドを前後させたい、という軽い気持ちで。案内されたトロンボーンの2年生の先輩に「くちびる、ブルブルふるわせんの、できるか?」と聞かれ、ブルブル、とやってみせたら、「できそうやな」、と言われ、やってみることになった。

金管楽器には「マウスピース」(通称「マッピ」)というものがあり、そこにくちびるの振動を伝えるところから音は発生する。僕はマッピのことだけでなく、金管楽器にはC(ツェー)管とB(ベー)管というものがあるという基本的なこともなにも知らなかったけれど、ほとんどの入学生は音楽の素養も吹奏楽に関する知識もないのが普通で、そのことに特別なハンデがあるわけではなかった。

* * *

中学の部活の話をしようとすると、どうしても「顧問」の存在に触れなくてはならない。どの部活でもそうだと思うが、「部活」における顧問の存在は圧倒的で、あらゆる記憶に先行してその存在が頭に浮かんでくる。

当時の吹奏楽部の顧問は池内先生という方で、当時、京都で吹奏楽をしていた人なら、その顔だけでなく、癖のある性格も含めてありありと思い出せるにちがいない。

木の指揮棒で譜面台を叩きながら拍子をとって指導するのだけど、気の抜けた演奏をしようものなら、その棒が(比喩ではなく)飛んでくる。
あるとき、お土産でもらったというよく「しなる」指揮棒をもってきて、「これ、ええやろ」と言いながら、なにもしていないのにかわいがっている部員に「おっと、手が滑った」とか言ってしなる指揮棒を投げつけるということもあった。(もう20年も前の話ですよ!)

またあるときは、ミスする部員に頭を抱えながらその指揮棒を縦にもって部員に向け、
「これ吹き矢にならへんかな」
とニヤニヤつぶやくこともあった。
でも、こんな冗談を言っているときはまだ機嫌がいいほうで、本当に真剣なときはそんなことは言わず、ひたすら同じところを何度も何度も演奏させてしごく。

もちろん、こういうこともふだんからの関係性があってのことなのだが、顧問は一度食いつくとなかなかしつこいところもあって、部員たちはできるだけ目立たないように話を振られても「そうっすね」と笑ってごまかすのがうまい処世術だった。

さて、僕はというと、当時、3年生の打楽器をやっている先輩に同じ苗字の「西田先輩」がいたために、僕は下の名前で呼ばれることになって、いつのまにか、僕があまりに鈍臭いので、「純(じゅん)」ではなく、偏を変えて「鈍(どん)」と呼ばれることになった。

顧問も同じように、

「おい、鈍!」

と僕のことを呼んだ。


1-2_初舞台:”御影供”は別行動で

吹奏楽部の部員としての初舞台は”御影供”だった。

洛南高校は弘法大師空海が創立した「綜芸種智院」をもとに創立された(と言われていた)真言宗の仏教学校だ。そのため、仏教関係の授業や行事が行われている。

空海の命日(正確には「入定(にゅうじょう)」された日)である毎月21日は「御影供」(みえいく、と読みます)といって、授業はせず、全校生徒で校長先生の話を聞いてからそれぞれの教室で作文を書き、そのまま下校する日となっていた。

「御影供」では、集まった全校生徒はまず、仏教歌「三帰依」(さんきえ、と読みます)を斉唱する。その後、校長先生の講話を聞いて、仏教歌「四弘誓願」(しぐせいがん、と読みます)を斉唱、続けて、「校歌」を斉唱して、お開きとなるのだが、吹奏楽部にはその3つの曲の「伴奏」という仕事が待っていた。

吹奏楽部の部員は「ふつう」の生徒とは別行動で、前日から演奏場で練習をし、本番は、同じクラスの生徒を横目に伴奏を務め、吹奏楽部の席で楽器片手に校長先生の話を聞くことになる。楽器を部室にしまう時間があるので、作文を書く時間には間に合わず、途中から教室に入ることになる。でも、その「特別感」にはすこしだけプライドがくすぐられるものがあって嫌いではなかった。

* * *

4月に入部した僕たち1年生も、早速4月21日の御影供で初舞台を踏むことになった。

入部してまだ半月も経っていないのだけど、ありがたいことに最初に演奏する「三帰依」は、

ブッダーン、サラナーン、ガッチャーミー
ダンマーン、サラナーン、ガッチャーミー↑
サンガーン、サラナーン、ガッチャー↓ミー

という同じ節を3回くりかえす、同じ音程の音を伸ばすだけの演奏しやすい曲で、これははじめての自分でも演奏できたことを覚えている。

こんな感じの曲です。(YouTubeから)

「四弘誓願」は短調の「渋い」曲で、

「しゅーじょーおーむーへーんーせーいがーんんどー(衆生無辺誓願度)」

という低く重厚なメロディーからゆっくりと始まる音楽的にも豊かな曲だったが、フルートのメロディのソロがある以外、これまた金管楽器としては同じ音を伸ばすだけで演奏しやすい曲だった。

こんな感じの曲です。(YouTubeから)

演奏していて楽しいのは断然校歌だった。

「名にし負う山吹丘に〜」
からはじまる校歌らしい軽快なマーチ調で、2番と3番のあいだの間奏も華やかで気分が明るくなる曲だった。

こんな感じの曲です。(YouTubeから)

ただ、仏教音楽のように長音を伸ばしていればいいわけではなかったので、もちろん、入部してまもない自分にはとても吹ける曲ではなかった。
顧問や先輩からは

「吹けへんとこは楽器構えとくだけでええから」

と言われていたので、最初はマウスピースに口をつけるだけで、三帰依のさわりのところを少しだけ吹いた記憶だけが残っている。その後、少しずつ吹けるようになっていって、1年生の最後にはひととおり吹けるようになっていた。


1-3_パート変更:TbからEuへ

吹奏楽でも人気の楽器というのはあって、入部した人がそれぞれ自分のやりたい楽器を選ぶとなるとどうしても偏りが出てしまう。

僕ら1年生でいうとそれはトランペットで、5人もいた。でも、部の方針であえて偏りを是正することはせず、各々が自分のやりたい楽器をやっていた。

例年春に京都の中学校5校合同(たしか北野、梅津、西ノ京、洛北中学校と洛南)で演奏会をしていて、それが終わったあたりから部を辞める1年生が出てきて、そうすると楽器の偏りはいっそう激しくなる。打楽器をしていた1年生が辞めて、2人いた打楽器が1人と手薄になったとき、チューバをやっていた近藤(1年生)が打楽器にパート変更になった。

合同演奏会が終わった6月あたりは折しも夏のコンクールに向けて体制を考えないといけない時期で、僕ら1年生の代では、フルートとチューバ、そして「ユーフォニウム」に欠員が出ていた。

* * *

吹奏楽をやっていたことを人に話すと、なんの楽器やってたの?と聞かれるのだけど、ユーフォニウム、と答えてわかってくれた人に僕は会ったことがない。吹奏楽部にやってきた当時の僕ももちろん知らなかった。

吹奏楽とオーケストラ(略して「オケ」)は楽器の編成が異なり、オケの中核を担う弦楽器はコントラバスを除いて吹奏楽では編成に加わらず、代わりにサックスとユーフォニウムが加わる。

「オケ」の曲を吹奏楽で演奏するとき、バイオリン、ヴィオラ、チェロのパートは編曲でほかの楽器に割り当てられるが、おおざっぱに言って、バイオリン、ヴィオラのパートはサックス、チェロのパートはユーフォニウムとして編曲されることが多い。

サックスがポピュラー音楽でもよく使用されて、誰でもその形状や音色を思い浮かべることができる楽器であることを思うと、ユーフォニウムは「きわめて吹奏楽的な楽器」と言える。

といって、ユーフォニウムがチェロのパートの代替をやるだけの日陰者というわけではなくて、特に吹奏楽曲となると、対旋律だけでなく、時には主旋律を担ったりもして、ユーフォニウムがないと吹奏楽は始まらない、と言ってもいい。

2002年当時、僕たちが夏のコンクールで選んだ「課題曲」は「4番」の「吹奏楽のためのラプソディア」という曲で、この曲はユーフォニウムとピッコロのソロパートから始まって、トップのユーフォニウムは終始メロディーを引っ張っていくきわめて重要な役割を担っている。

そして、当時ユーフォニウムの3年生だった先輩は、音楽的に豊かなだけでなく技術も確かで、めちゃくちゃ上手かった。本人はこう言われるといやがって否定するだろうけど、顧問含めてそこはみんな一目置いていて、だからこそこの課題曲が選ばれたのだと思う。

しかし、こういう曲を選ぶと、トップがメロディーラインを奏でるので、セカンド以下のユーフォニウムが中低音をしっかり支えないといけないのだが、2年生は1人でさらに1年生に欠員が出ているとくると、実質、スカスカという状況になっていた。

* * *

そんなわけで、いつごろからか、合奏場で顧問が

「誰かユーフォニウムやるやつおらへんか?」

と問いかけるようになった。
だけど、誰も名乗り出ない。

そこで顧問はこういう条件をつけた。

「ユーフォニウムやってくれるやつはコンクールに出したる。ほんで、コンクール終わったら元の楽器に戻したる。だから、誰かやらへんか?」

ということだった。

ただ、その条件がつく前から、僕は内心ドキドキしていた。

トロンボーンの1年生は僕ともう一人の宮本(Tb)の2人体制だったのだが、宮本の方が僕よりも音楽的な才能に秀でていることに早い段階で気づいていた。僕はどうしてもトロンボーンがやりたかったわけではなかったし、鈍臭かったので、スライドを前後させるのもあまりスムーズにできなかった。

幸いなことに、トロンボーンとユーフォニウムはマウスピースの形状が同じで、どちらも中低音の楽器であり楽譜は同じ「ヘ音記号」で書かれていて、パート変更の負担もそれほどなさそうだった。それに、音楽的に優れた同級生と比較されながら同じ楽器をやるのはそれほど面白いことではなかった。

そんなわけで、コンクールに絶対出たかったというわけではなかったのだけど、合わなかったらそのときはそのときで辞めちゃえばいいや、という気持ちで、

「やります」

と手をあげることにした。


1-4_京都府大会:2年前の「スカ金」

吹奏楽の夏のコンクールは京都府大会が7月下旬に実施されて、そこで勝ち上がった3校が8月に実施される関西大会に行くことになる。

吹奏楽をしたことのない人には驚かれるのだけど、吹奏楽コンクールではすべての出場校を金賞、銀賞、銅賞で表彰する。(なので、金賞が1位、銀賞が2位、というわけではない)そして、金賞をとった学校のうち3校が京都府代表として関西大会に進むことになる。そんななか、金賞は金賞でも、代表になれない金賞のことを、うちでは「スカ金」と呼んでいた。

当時の3年生が1年生のとき、つまり2年前の2000年、我が校は京都府大会で「スカ金」を獲った。その前年、洛南附属中としてはじめて挑戦した京都府大会でいきなり京都代表となり、ストラヴィンスキーの「火の鳥」を自由曲として関西大会で銀賞まで獲ったことを思うと、残念な結果に終わった。

当時の自由曲はラヴェルの「ダフニスとクロエ」。あとで当時の音源を聞かせていただいたけれど、とてもスカ金とは思えない演奏で、それだけに部員たちにも、そして顧問にとっても、相当に応えた経験だったんだろうと容易に想像できた。

当時の自分にとって、3年生にはその2年前の「スカ金」の記憶の影がどこかしら感じられるところがあった。気を抜くと関西大会へ行けない。誰も口に出して言わないけれど、そんな緊張感を背負っているように感じた。どんなことを顧問から言われようとじっと耐えて練習を続けていて、表面上はクールに見えても、3年生のコンクールにかける思いはひしひしと感じられた。

僕なんかは「楽器運ぶんめんどいわー」とか思いながらダラダラ動いていたのだけど、どうして3年はあんなにちゃっちゃと動けるんだろうと不思議に思っていた。その気持ちは3年生になるとよくわかることになる。

* * *

京都府大会は、基本的に3年生と2年生のチームで出場し、1年生は補助で数人が演奏するだけだ。(打楽器の人手が足りないと、シンバルをたたくためだけに1年生が舞台に立つこともあった)コンクールには50人の定員があるのだけど、京都府大会では枠を余らせてだいたい40人弱で出場する。

ある日、こんなことがあった。
全体練習が終わって、コンクールに向けた練習をするので1年生は先に帰っていい、となったのだが、僕(Eu)と宮本(Tb)で部室に残って自主練習をしていると、先輩がやってきて、合奏場に入れ、と言われた。

怒られるのかなとどきどきしながら合奏場に入ると、顧問から

「お前ら、うまいやんか。」

と思いがけないことを言われた。パート変更をしたのでコンクールには出してもらえるということになっていたけど、思いがけず演奏が評価された、という事実がうれしくて、こんなことをここまで引っ張り出してくるのはかっこわるいんだけど、今でも覚えている。

* * *

京都府大会に向けた練習はきつい。全体練習は週に数回あるのだけど、大会が近づくと合奏がない日も自主練習にくる人が多くなる。それに、授業を受けながら放課後に練習をするので、十分な時間がとれるわけではない。

大会直前ともなると、練習が遅い時間まで続くことはしょっちゅうあって、授業終わりに合奏場で練習して、そのあと、学校の体育館に移動して全体練習を続ける。

体育館へ楽器を運ぶのがひと苦労で、譜面台なんかも含めて運ぶとなるとそれなりに時間もかかる。金管楽器は演奏しているうちに楽器の中に「つば」がたまるので、楽器に設置された専用の「穴」からその水分を抜き取る作業(つば抜き)が必要だ。そんなこともあり、体育館の床に傷がついたり汚れたりしないように、ゴムのシートを敷くのだけど、毎度毎度シートを敷かなきゃいけないのが本当にめんどくさい。

そして、エアコンもない中で汗をかきながら延々と合奏を続ける。それが、今思い出してもほんとうに「延々」と感じられるくらい、長くてつらい。

でも、当時顧問はこんなことをよく言っていた。

「お前らは恵まれてる方や。昔は合奏場なんかなくて、体育館の隅でずっと練習やってたんやからな。せやろ?」

と3年生に話を振ると、「そうっすね」と答える。

3年生が1年生のころ、つまり、「スカ金」をとったころ、吹奏楽部には楽器をしまう部室はあっても、合奏場がなくて、そのためにいつも体育館で演奏していた、とのことだった。

吹奏楽部がそれほど人気ではなく、部員も数少なかったころから吹奏楽部の顧問として少しずつ大きく育ててきて、ようやく人数が揃って最初に参加したコンクールで関西銀賞にまでなったその歴史を、顧問は僕たちによく語った。唯一、2年前の「スカ金」の記憶を除いて。

* * *

京都府大会が開催されるのは、地下鉄東山駅から少し歩いたところにある、「京都会館」。平安神宮が近くにある歴史ある会場だ。

トランペットや木管楽器と違って、大きめの楽器であるユーフォニウムは持ち歩くわけにはいかないので、コントラバスや打楽器と一緒にトラックに乗せて会場まで運んでもらうことになる。楽器を自分で運ぶ部員は、めんどいから、ということでタクシーで現地まで行くのだけど、手ぶらなので僕はよく電車で会場に向かった。

現地でトラックから楽器を降ろしたあと、部員全員と顧問とで今日はがんばろな、といった話をして、裏口から会場に入ってステージに向かうのだけど、ステージまでの階段が急勾配で狭くて暗くて、楽器を持ちながらそこを上がっていくのは3年生の最後まで怖い思いをした。

コンクールでは、決められた4曲の「課題曲」のうちから選んだ1曲と学校の裁量で選べる「自由曲」を演奏する。ウチの学校は、課題曲は4番の「吹奏楽のためのラプソディア」、自由曲はリムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」を選んだ。

1年生としてはじめて踏んだ京都府大会の舞台。どんな演奏をしたか?今となってはもう覚えていない。そんなに緊張した記憶もないけど、緊張していたかもしれない。あっという間に演奏時間が終わり、結果発表となった。

京都府大会は2日間かけて実施する(たしか)。その結果が2日目の最後に会場で発表される。演奏順に、学校名と賞が発表される。金賞の場合、「金賞、ゴールド」と「ゴールド」という言葉が追加される。当時は金賞を讃えるためだとおもっていたけど、今検索すると、銀賞と聞き間違えないように、金賞、ゴールドと言っていることがわかった。

さらに京都府代表となる学校はその後、個別に発表される。

* * *

さて、その京都府大会で、僕らは金賞をとることになった。

結果の発表後、当時の3年生の部長(サックス)が顧問とともに本当に嬉しそうな顔をして僕らのもとにやってきて、代表として関西大会へ行くことになったことを報告した。

3年生は、2年前の「スカ金」の呪いを払い、先輩の仇を取ることができたのだった。


1-5_夏の合宿:「みくに館」で過ごす集団生活

京都府大会が終わると学校も夏休み期間中で、吹奏楽部は関西のコンクールに向けてみっちり練習をする。

夏休みには恒例の「夏の合宿」がある。場所は滋賀県、マキノ高原にある「みくに館」という合宿場で、この物覚えの悪い僕が今でも名前を思い出せるくらいだからどれほど強烈な体験だったかは言葉にするまでもない。期間はたしか1週間くらいだった気がするが、正確なところは思い出せない。

僕自身は小学生のころ、特段、集団生活というものをしたことがなかったので、ご飯からお風呂の順番まで争奪戦になる「合宿」という文化に面食らってしまった。

合宿では野球大会が恒例行事になっていて、合宿場から少し離れた場所にあるグラウンドにバスで行ってチームに別れて野球をやるのだけど、負けたチームは残ってグラウンドのトンボ引きをやって、さらには合宿場まで歩いて帰らないといけない。野球なんてやったことのなかった僕は慌ててグローブを買ったはいいけど、まったくやったことがなかったので、そりゃ、うまくいかない。いくはずがない。そんなこんなでそのときが近づくと暗い気持ちになったことを覚えている。でも、差し入れで誰かがもってきてくれたスイカは、美味しかった。

* * *

この夏の合宿は関西大会に向けた追い込みに位置づけられていて、合宿が終わると数日、部室で練習したらもう本番、というスケジュール感だった。練習もそれだけ熱を帯びた。顧問の逆鱗に触れると、「みくに館」の前に広がるマキノ高原を1周走らされることになる。(もう20年も前の話です)

「下手くそ!」と顧問がよく怒号を飛ばしていたのが金管楽器だった。特にトランペットが標的になっていた印象がある。当時の3年生は木管楽器のサックス、クラリネット、フルートの先輩がめちゃくちゃ上手くて、そこと比べてしまうとどうしても金管楽器は目をつけられがちだった。(木管楽器の先輩がいかにすごかったかはのちに語ることになる)

自由曲にリムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」を選んだのも、そうした木管楽器寄りの編成を意識したものだと顧問は語っていた。コンクールでは時間制限があるので、自由曲はカットしなくてはいけないのだけど、結果としてⅣ楽章のような木管楽器のソロパートが続く部分が残され、金管パートは容赦無く切られた。(最終的にはI、Ⅳ、Ⅴ楽章を演奏することになった)

でも、今から思うと、顧問が金管楽器の先輩に感じるもどかしさのもとには、一つ上の代の先輩の偉大な存在があったような気がしてならない。というのも一つ上の代、つまり2001年の洛南附属中の金管楽器はスタープレイヤー揃いだったからだ。どれだけすごいかというと、金管7重奏で挑んだアンサンブルコンテンストで京都府代表となったばかりでなく、関西のアンサンブルコンテストで金賞まで獲ったというレベルだった。なにかの機会にそのときの演奏を目の前で披露してもらったことがあったのだけど、特にトップのトランペットの先輩がとにかくめちゃくちゃうまかった印象が強烈に残っている。

2001年のコンクールの課題曲は1番の「栄光をたたえて」という曲が選んだのだが、この曲はトランペットに自信がなければとても選べない曲で、当時の顧問の金管楽器への信頼のほどがわかる。顧問にはその残像があったからこそ、3年生の金管楽器をもどかしく感じていたんじゃないか、と思うのだが、それでも、先輩たちは文句も言わず、もくもくとパート練習をしていた。

* * *

さて、1年生の話。関西のコンクールでは1年生も参加して演奏する。しかし、当時、50名定員のコンクールに出るためには、2、3名の1年生が涙を飲むことになる。そこで、オーディションが行われることになった。

課題曲、自由曲のあるパートを全員が見ている前で吹くことが求められる。2年生でもうっかりしていると、お前も参加せぇ、と顧問に言われて1年生に混じってオーディションを受けなければならなくなる。

ありがたいことに僕は一人だけのユーフォニウムだったということもあって、余裕をもってオーディションに臨むことができたのだが、こうなるとつらいのが1学年に5人いるトランペットだ。

オーディションの結果、トランペットの吉尾(Tp)とホルンの上田(Hr)がコンクールに出られないことになった。ふたりとも、すごく悔しそうにしていて、僕らとしてはかける言葉がなかった。ふたりの名誉のために先に言っておくと、二人とも3年生の最後まで部活を辞めずにやり切った。どうやって立ち直ったんだろうか。そこにはまた二人の視点から見た吹奏楽部の物語があるはずだ。

* * *

練習して、野球して、温泉に入って、あれもこれもして、最後、3年生はみんなの前で、自分の思いを話す時間が設けられている。顧問はそのとき、その場から姿を消す。

3年生は一人ひとり、自分の思いを下級生に向けて語る。ふがいない自分のことを謝る先輩もいた。おちゃらけた先輩もそのときだけはしっかり自分の思いを話していた。

そんな夏の合宿が終わり、僕たちは関西大会に挑むことになった。


1-6_そして関西大会へ

関西大会は兵庫の尼崎のアルカイックホールという会場で行われた。

ある日、みんなで事前の下見に行ったとき、顧問がそこで手を叩き、
「ほら、響きが全然ちゃうやろ」
と言うので、手を叩いてみると、たしかに音が反響して、きれいに響くことがわかる。

京都会館は古いホールだったこともあって音が響かず、息を出した分しか音が出ない。そのため、息継ぎをするタイミングをしっかり調整しないと音がぶつ切りになってしまう。顧問は京都会館で演奏するときはそのあたりのブレスの位置はかなり細かく指定して、切れ目がないように調整していたけれど、アルカイックホールが舞台となると、そのあたりの心配はなさそうだった。

* * *

合宿が終わったあとも、残り少ない時間をいやになるまで課題曲と自由曲を演奏した。最後の方はもういいじゃんと思っていた。

そんな僕にとってはじめての関西大会は「銀賞」だった。

実は、偉大な金管楽器メンバーを持つ一代上の先輩たちの2001年のコンクールは、ヒナステラの「エスタンシア」を自由曲として関西で「銅賞」だったので、その先輩たちを超えたことになる。そのメンバーの一人として演奏できたことが自分も嬉しかった。

このときのことも本当に覚えていない。せっかくの経験なのになんだ、というところなんだけど、夢中でやっていて、楽しかった印象はある。そういえばクラリネットの同級生が自由曲の冒頭で「リードミス」をしてしまって「ピー」という音が響いてしまったことで落ち込んでいたことを覚えている。そこにも別の物語があるのだろう。

* * *

コンクールが終わって、僕は顧問にあのことを聞いた。

「コンクール終わったら、トロンボーンに戻してくれるんですよね?」

顧問は言った。

「お前以外、誰がやんねん」

そんなわけで僕は、ユーフォニウムを続けることになった。
でもそのときにはすでにユーフォニウムへの愛着も生まれていて、そう言われて内心、ほっとしたのも事実だった。

(続く)


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