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京都の吹奏楽と全国の吹奏楽、ある師弟関係について

20年前、中学生だった僕は、京都の男子校で吹奏楽の"部活"をしていた。

1年生としてはじめての吹奏楽コンクールを終えた僕が見た、京都の吹奏楽と全国の吹奏楽のこと。

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1-7_淀工と洛南、そして、もうひとつの洛南

吹奏楽コンクールでは関西大会を勝ち抜くと、普門館で行われる全国大会が待っている。そして、3年連続で全国大会に進んだ学校は、次の年はコンクールに出場することができず、関西大会で招待演奏を披露することになっていた。(今はそのルールは撤廃されたようです)

関西の高校の吹奏楽の名門に、大阪の「淀川工科高等学校」(略して「淀工(よどこう)」)があって、顧問は時折、淀工はすごいんや、という話をしていたのだが、僕が1年生としてはじめて参加した2002年の関西大会は、淀工が3年連続で全国大会へ進出した次の年で招待演奏をすることになっていて、顧問と吹奏楽部の有志で高校の関西大会を尼崎まで見に行くことになった。

そこで淀工が演奏したのが、ヴェルディの「アイーダ」。あの凱旋行進曲をカットなしでまるまる一曲演奏していたのだが、僕はこのときの淀工の演奏を今でも鮮明に覚えている。(なにしろ演奏した曲名まで覚えているのだから)僕の記憶では、全員同じ舞台衣装を着て演奏していて、トランペットが立ち上がって(記憶違いでなければ2階席からも?)、凱旋行進曲のあの有名な節を高らかに吹いていた。

「アイーダ」の凱旋行進曲のような力強いマーチは、よく訓練された吹奏楽部が一糸乱れぬ隊列で演奏すると極めて格調高く響く。関西のみならず全国でもトップクラスの吹奏楽部の、代々受け継がれてきた名門の伝統のその重さにその時、圧倒された。そしてそれは、自分たちの音楽と全国レベルの音楽の間にある果てしない差を実感した瞬間でもあった。

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実はこの年、関西大会で招待演奏を披露したのは淀工だけではなかった。淀工と並んでもう1校、3年連続で全国大会に進出し関西大会で招待演奏を披露した吹奏楽の名門高校があった。

それは、「洛南高等学校」である。そう、私たち洛南附属中学校が「附属」しているその高校である。そして、この話には多少の説明が必要になる。

洛南高校と私たち附属中の吹奏楽部はまったくの別組織で、部室も合奏場も違えば、もちろん指揮者も違った。当時の洛南高校を指揮していたのは宮本先生という方で、関西ではもちろんのこと、全国大会の常連として全国的に名の知れた指揮者だった。

洛南高校は中高一貫の学校だったが、附属中で吹奏楽をやっていた人が高校でも吹奏楽を続ける例は稀で、高校の部員のほとんどが高校から(おそらく吹奏楽をやるために)入学した人たちで構成されていた。というのも、宮本先生の率いる洛南高校の吹奏楽部の練習は校内でも「壮絶」と有名で、寸暇を惜しみ、朝練のみならず放課後に至るまでみっちりと練習させられるとの噂で、まがりなりにも進学校で大学受験に向けて勉強をしなくてはならない中学からの「内進生」が、部活として勉強と両立できるようなものではなかった。当時先輩から聞いた話では、中学から引き続いて吹奏楽をやりたくて高校の吹奏楽部に入ったものの、その壮絶な練習とレベルの高さについていけず、1年足らずで辞めてしまった先輩もいたという。

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で、その全国的に名の知られた高校の吹奏楽部と、関西大会への進出で精一杯の僕ら中学の吹奏楽部、その両者の関係はどうだったかというと、これがまたややこしい。というのも、私たちの顧問は、何を隠そう、洛南高校の高校生として、宮本先生の指揮のもと、吹奏楽部の部員として指導を受けていたからだ。

宮本先生から指導を受ければ、僕たち中学の吹奏楽部も全国で戦っていけるようになったのかもしれない。でも、僕らの顧問は、その道を選ばなかった。そこには、偉大な師匠をもつ弟子だけが抱える、乗り越えなければならない壁のようなものが立ちはだかっていて、顧問はそれを無視できなかったのだと思う。

吹奏楽部にいた3年間で一度だけ、宮本先生が僕ら中学の吹奏楽部の部室を覗きにきたことがあった。そのとき、いつもは僕らに向かって冗談や怒号を飛ばしている顧問が、宮本先生の前では敬語で気を遣いながら話していて、僕はそんな顧問の姿を見たことがなかったので、二人の並々ならぬ関係性がそこに垣間見えて戦慄したことを覚えている。

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顧問は、大きな声では高校の吹奏楽部の演奏について評価しなかったけど、宮本先生が指揮する音楽を「コンクール向けでつまらない」と言っていたのを耳に挟んだことがある。本当にそう思っていたかはともかく、そこにはたしかに、目指す音楽の明確な違いがあった。

宮本先生の音楽は、クレッシェンド/デクレッシェンド、ディミヌエンド、アクセント、スラー、スタッカート、フェルマータなどなど、楽譜に書かれている指示をリズムやタイミング含め完璧主義的に統制し、かつ、それを固くならず、張りのある音で伸び伸びと響かせる、そんな音楽を志向していたように思う。書道で例えるなら、「とめ」「はね」「はらい」がしっかりとした「楷書」のような、まさに「王道」の音楽だった。

対して、顧問の音楽はというと、楽譜の細かい指示の遵守より、楽曲の持つエモーションや流れを優先して、その中心にあるメロディを高らかに歌い上げることに全力を尽くす、そんな音楽を志向していた。書道で例えると、勢いだけで一筆書きで書き上げる「行書」のような音楽だった。顧問は、楽曲のエモーションを引き出すために必要と判断したら、目の前の楽譜を無視して勝手に「編曲」してしまう、そんなことまでやってのける人だった。少し誇張して言うなら、いかにも関西風の少しウェットな「浪花節」が顧問の「趣味」だった。

顧問はよく「音楽は楽しまんとあかん」「コンクールで評価されることだけが音楽とちゃうで」と言っていた。そこには、宮本先生の志向する練習に次ぐ練習で作り上げられる全国のコンクールで通用する音楽への反抗心もあったのかもしれない。

でも、僕は顧問は本心から宮本先生の音楽を否定していたわけではないと思う。むしろ、宮本先生の指揮する統制のとれた完璧な音楽に圧倒され、あこがれ、でも、自分はそこに到達できないということを悟り、そこから、自分の身体のもつ生理の音楽に耳を傾けた結果、別の道を見出したのではないか。顧問にとって、宮本先生は乗り越えなければならない壁であっただけでなく、自分の音楽を発見するためのひとつの指針の役割を果たしていたのではないかと思う。

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師弟関係、教え/教えられる関係というものには、一見したところ下から上への単なる反発のように見えても、その内実には幾重にも絡まった複雑な心理構造があって、人は、その複雑な関係を解きほぐし、自分の中のあるべき場所にその感情を落ち着かせることができてはじめて成長できるのだと思う。そしてそれには自分と向き合う十分な時間が必要となる。

それは、中学生の僕が先輩たちに抱く思いとも同じだった。そのことは後で語ることになるだろう。

1-8_MBSと顧問の車の中

夏のコンクールが終わると、秋の文化祭での演奏や一般向けの「ビッグバンドフェスティバル」など、競技ではなく純粋にレクリエーションとしての音楽をしばし楽しむこととなる。

夏のコンクールの次に目指すのが、12月に開催される「MBSこども音楽コンクール」という関西ローカルのMBS主催の音楽コンクールである。そこで勝ち上がるとMBSのラジオで演奏が放送されることになっていた(そしていつも勝ち上がれず放送されない)。僕らは秋から冬にかけて、レクリエーションのための音楽とあわせて、MBSのコンクールに向けた練習をする。

MBSのコンクールは夏のコンクールと違って、いかにもな吹奏楽曲やオーケストラ曲ではなく、映画音楽のような少しライトな曲を演奏するのがうちの吹奏楽部の通例で、この年に演奏することになったのは、映画音楽の巨匠、ジョン・ウィリアムズ作曲の映画「ハリー・ポッター」のメインテーマだった。当時は2作目の「秘密の部屋」が公開されたばかりで、友達と京都の四条の映画館に見に行って、ハーマイオニーめっちゃかわいいやん、みたいなことを言いあっていた、そんな頃だった。もちろん当時の「ユニバ」はまだ開業したばかりでハリー・ポッターのエリアはなかった時代だったけれど、ピカイチの話題作であったことは間違いなく、顧問は意外とそういう「流行り」も抑えていたのだった。

ハリー・ポッターの音楽であるからといって顧問の指導が緩まることはない。夏のコンクール同様、合宿をしないまでも練習は細部に至るまで徹底的にやりこむ。合奏場で練習して、その後、体育館に楽器を運んでまた全体練習、その繰り返しをしていた。

そんな練習の日々の中、顧問がある日突然楽譜を書いてきて、
「お前らこれ吹け」
とトランペットと何人かの人にそれを手渡した。どうやら顧問はこの楽曲を吹奏楽用に編曲した市販の楽譜の曲の「終わらせ方」に思うところがあったようで、そこを(勝手に)自ら書き換え、ジョン・ウィリアムズもびっくりの編曲をほどこした。コンクールの時間内に収めるため楽曲をカットすることは他の学校を含めよく行われることだったが、曲のフィナーレの部分でもそんなことをしでかすのはまずうちの顧問しかいないだろう。このあたりが宮本先生とは違う「顧問流」だった。

僕が驚いたのは、トランペットにそのパートを委ねたことだった。夏のコンクールであれだけ下手くそと怒号を飛ばしていたそのトランペットの3年生に、顧問はその新しいパート、楽曲のフィナーレの部分を委ねたのだった。もちろん、練習の過程で怒ることはあったけれど、そこには夏のコンクールを経て作り上げられた新しい信頼関係があったように感じられた。

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コンクールは大阪の吹田にあるメイシアターホールという会場で行われた。

エピソードというほどのことでもないのだけど、覚えていることがある。会場へは部員みんなで京都から貸切バスに乗って向かうのだけど、その日、携帯電話をもってきていた僕は、顧問にそれを見つかって没収されてしまい、立ち往生していた。

「どうやったら返してくれるんですか」と聞くと、
「俺と一緒に移動せえ」
と言うので、バスで向かう他の部員とは別行動で、顧問の車に乗り、荷物を持つのを手伝いながら、後部座席ではなくフロントの顧問の隣に座って携帯電話を返してくれるのを待った。

その車内で、詳しい内容は覚えていないのだけど、顧問はポツポツと何か思い出話のようなことを僕に語った。冗談も交えながら話していたように思うのだけど、今となってはなんだったか思い出せない。でも、なにか親密な時間がそこには流れていて、顧問という人間の見え方が変わったのはたしかだった。もし今の自分が中学1年生と一緒に車に乗るとして、自分は何を語るだろうか。

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コンクールの結果はすぐには出ない。後で放送されるかどうかが決まる。結果として放送はされなかった。

会場からの帰りはほかの部員と一緒にバスで京都に戻ったのだけど、同級生たちがおもろい先輩たちに混じって、「ヒマラヤ、平山綾、平謝り」という謎のフレーズ(言葉のチョイスが面白くて今でもそのフレーズを覚えている)を連呼してバスの車内で騒いでいたのはいったいなんだったのか、行きで別行動をしていた自分にはわからなかった。

1-9_定期演奏会と3年生の最後

MBSコンクールと並行して、3年生は現役最後の演奏に向けて練習をする。

洛南高校の吹奏楽部は、名門吹奏楽部として名物となっている「定期演奏会」(略して「定演」)を毎年年初に京都会館で2日間かけて実施しているのだが、附属中はその1日目の最後に時間をもらって演奏を披露させてもらうことになっていて、それが、中学の吹奏楽部としての1年の最後の舞台、卒業する3年生にとっての最後の舞台となっていた。

そこで演奏するのは夏のコンクールの自由曲と決まっていて、コンクールでは時間の制約でカットした部分も復活させて完全版として演奏する。顧問からすると、師匠である宮本先生の前で楽曲を披露することになるわけで、新しい楽曲ではなく一度みっちり練習している夏のコンクールの自由曲を選ぶのは自然なことのように思えた。そんなわけで僕らは、あの夏の感覚を少しずつ取り戻しながら、リムスキー=コルサコフの「スペイン奇想曲」の練習に、復活させた第Ⅱ楽章も含め、取り組んだ。

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練習の中でこんなことがあった。

ドラを叩く打楽器の1年生の近藤(Per)に対して顧問が指導するのだけど、どうしても思い通りの音が出ない。

「頭使って叩けや」

と顧問から言われた近藤は、なにを思ったか、困惑した顔で、スキンヘッドにしていた自分の頭をドラに打ち付けようとして、みんなを爆笑させていた。

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そうして、定演が終わり、吹奏楽部は1年の行事をすべて消化し、3年生は卒業のときを迎える。

定演が終わった次の日、楽器を片付け、部室の合奏場で3年生は部員全員に向けて最後に挨拶をすることになっていた。

3年生は、顧問がいつも腰掛けている中央の椅子に座り、指揮者の位置からすべての部員の方を向いて、ひとりひとり、思い思いのことを語る。もう顧問から怒られなくて済むのでホッとしてます、なんて言って笑いもとりながら、でも、先輩たちが語る言葉の端々からは、3年間、夏のコンクールやMBSのコンクール、あれもこれもやってきたという、その情感がありありと感じられた。

僕は、部活を続けるとして、2年後、この場で何を語るのだろうか。そのときはそんなことにはまだ考えも及ばなかったけど、いつか語るその日のことは心のどこか片隅にあった。

1-10_壁を越える

3年生は1月の定演のあと部活を卒業となるのだけど、その中でまだ卒業とはならず、延長戦を戦う1つのグループがあった。

秋、MBSコンクールと並行して、吹奏楽部の有志で出場する小編成の吹奏楽コンテスト「アンサンブルコンテスト」が開催される。アンサンブルコンテストは夏のコンクール同様、京都府大会、関西大会、そして全国大会へつながっていく。

一校あたり2つのグループがアンサンブルコンテストに出場できるのだけど、前年の2001年は大きな成果をあげて、洛南附属中から出場したサックス4重奏、金管7重奏の2グループともに京都府代表となり、さらに関西大会でどちらも金賞をとるというウチの中学の吹奏楽部としては華々しい成績を残したのだった。しかし、全国の壁は厚く、関西の「スカ金」で終わった。

そうした流れを受けた2002年、附属中からは打楽器6重奏、そして、昨年関西大会でスカ金だったサックス4重奏の2グループがアンサンブルコンテストに出場することになった。12月に開催された京都府大会で、打楽器6重奏は残念ながら京都府でスカ金で終わってしまったのだけど、サックス4重奏は2月に開催される関西大会に進むことになった。

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サックス4重奏のメンバーは、3年生がソプラノサックスとアルトサックスの2人、2年生がバリトンサックス(通称「バリサク」)の1人、そして1年生1人がテノールサックスとなっていて、このうち3年生、2年生は前年の関西大会金賞を経験したメンバーで、そこに僕の同級生である1年生のサックス、ドーソン(アメリカのハーフ)が加わる布陣だった。

顧問にはサックスプレイヤーの弟がいて、その弟がサックスのアンサンブルコンテストの指導を担っていた。その弟は(なぜか)いつもアロハシャツを着ていて、気のいい兄ちゃんといった風情の佇まいで部室に音もなくフラッとやってきて、兄とは違って声を張り上げるようなことはなくクールに立ち振る舞う、そんな指導者だった。この対照的な二人が兄弟という事実が僕には可笑しかったのだけど、指導されている側からすると案外似たところもあったのだろうか。そのあたりは実際に話したことがないのでわからない。

コンテストに選んだ楽曲は、櫛田胅之扶(くしだ・てつのすけ)作曲の「万葉」。アンサンブルコンテストに限らず吹奏楽のコンクールというとその多くが西欧音楽になるところ、純日本風の音楽で勝負に出た。テクニックだけでなく、これまで演奏してきた西洋音楽にはない「和声」に関する音楽的な素養が求められる難曲で、でも、それだけにこれがアンサンブルできっちり揃えて演奏されると他のグループとは際立って聞こえる。

この難曲に、前年関西大会を経験したメンバーと挑む同級生のドーソンを、僕はうらやましいと思うどころか、自分がそこに立っていたとして、ごまかしの効かないアンサンブルの世界でその重圧にとても耐えられないと思っていた。でも、当の本人はそのルーツに反して欧米的なおおらかさというより、日本人的なひたむきさを持っていたので、何度も何度も同じ節を部室で練習していて、もうそこ聞き飽きたわ、と言われるほど、実直に取り組んでいた。

そうして挑んだ定演のあとの延長戦、2月の関西大会で、サックス4重奏は金賞をとり、そして関西代表として全国大会に進むこととなった。洛南附属中の吹奏楽部が始まって以来、「全国の壁」を越えるのはこれが初めてのことだった。当然、現地の京都会館に見に行った僕らは歓喜し、でも、その演奏を聴いて、この結果は当然だとも思った。3年生2人の延長戦はまだ続くことになった。

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全国大会は3月、場所は長野県の県民文化会館で行われた。宿をとって僕らもその演奏を聴きに行ったのだけど、ホテルではしゃぎすぎて顧問からこっぴどく叱られたことはともかく、ついに、僕らは、淀工、そして洛南高校が見ている全国大会の景色を目にすることができたのだった。それは顧問も同じ思いだったと思う。たとえそれが自分の弟が指導したものであろうとも。

全国大会を現地で聴いてみんなで「これはやばい」となったのが、東京の世田谷学園中学校のクラリネット7重奏で、この演奏は卒業まで僕らの中で伝説的に語られることになった。僕は今でもその衝撃を覚えている。演奏したのはプレス作曲の「結婚の踊り」という楽曲で、後から知った話だと、元々この楽曲はアンサンブル用の曲ではなかったのを世田谷学園中学校がクラリネット7重奏に編曲したものらしい。そういう楽曲探しのセンスにも驚かされたのだけど、なにより圧倒されたのは目の前で次々と繰り広げられる超絶技巧の数々だった。

アンサンブルで使用される高音を出すEsクラリネット(通称「エスクラ」)のグリッサンドの超絶技巧、どこでブレスしてるんだというくらいのタンギングの連続でも、エスクラからバスクラリネット(通称「バスクラ」)まで完璧に音の粒とタイミングが揃っていて、楽曲の進行が変則的になってもその隊列が乱れずきっちり揃えてくる。すべてが圧倒的で衝撃だった。京都、関西では計り知れない全国のレベルの高さを、淀工とは別の形で知ったのだった。

そんな競合ひしめく全国大会で、附属中のサックス4重奏は銀賞に輝いた。本人たちがどんな思いだったか僕にはわからなかったけれど、結果発表が終わって帰ってきた4人の表情にはやりきったという思いが読み取れた。ちなみに世田谷学園中学校は金賞だった。

どんな形であれ、僕たちも努力すれば全国に手が届くことをこのとき知った。京都の吹奏楽も全国でやっていける。宮本先生とは違った形でも、そこに手が届く。その事実は僕らを勇気づけたし、顧問にとってもそうだったのではないかと思う。それをやってのけたサックスの4人、特にその中心を担った2人の3年生の背中は、僕にはとても大きいものに感じられた。そして、そこに食らいついて、1年生として全国大会で演奏した僕の同級生、ドーソンにも純粋な気持ちですごいと言葉をかけることができた。

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こんな形で、入部したときにはとても想像できなかった出来事の連続で、あっというまに1年が終わった。

そして僕は、2年生になる。

(続く)


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