第80回:「喜び」の見つけ方
今回は、「喜び」の見つけ方、ということを書いていきます。
自分が、「心から楽しいと思うこと」、「人生を通じて何かをしていきたいと思うこと」はいろんな条件を外していった先に、ふと現われてくるものであり、そういった無条件に浮かび上がってきた「楽しさ」や「欲求」が、人生で行うべきテーマになるのではないかと思います。
そこで、一度、自分自身を空っぽにして、自然と湧き上がってくる心の声を聞いていてそれを叶えていくと、やがて「心から楽しいと思うこと」、「人生を通じて何かをしていきたいと思うこと」が見つかるのではないかと思います。
「ゼロ」になると「やりたいこと」が湧き出てくる
私は、毎日、文章を書いて暮らしていますが、これまで文章を書くのが特に好きというわけではありませんでした。
ただ仕事をする上で、文章を書く機会はありました。しかし、その内容はあくまでも仕事として書いていたため、特に楽しいというわけではなく書くことに特段「喜び」を感じることはありませんでした。
では、なぜ今は「書くこと」が楽しくなったのかというと、思い付きで始めてみたら面白かった、というのが理由だったりします。
私はあるとき、もう「楽しいと思えないことを無理にするのはやめよう」と思い立ちます。
私はこれまでいくつかの仕事を経験してきましたが、それらの仕事を心から楽しいと思ってしていたことはありませんでした。
私が何度も職業を変えてきた理由は「楽しさの不足」です。もちろん、私がしてきた仕事がつまらないわけではありません。職場の同僚には、楽しんで積極的に仕事に向き合っている人もたくさんいました。
つまり、私が楽しんで仕事ができなかったのは、私が選んだ仕事が自分の好みに合っていなかったというのが理由であり、選択の仕方が間違っていたといっていいでしょう。
そもそも私は大学を卒業する時点で、自分が何をしたいのかさえさっぱりわからなかったし、そういった状況の中で、なんとなく面白そうかなと思って始めたことが一番最初の仕事でした。
しかし、仕事が面白いと感じるかどうかは、やってみないと分からないものであり、最初の仕事から直近までしていた仕事の中に、心から「楽しい」と思えることが残念ながら一つもありませんでした。
もちろん部分的に楽しいと感じることはありましたが、ひとつの職業として楽しいと感じることはありませんでした。
生きている中で、辛いと感じることは「退屈感」だったりします。そこで、ある時「やりたくないことはやらないようにしよう」という決意します。
とはいえ「やりたいことを見つけよう」とは全く思いませんでした。
なぜかというと、多分、疲れていたんだと思います。あるいは、ただのんびりしたかったのかもしれません。
感覚としてはピッチャーが投げる球がバットに全く当たらないので、もうバットを振るのを辞めたという感じです。
ただ、こういった決意ができたのも、幸運にもただのんびりできる環境を作ることができたということもあります。
そして何もしないことを始めることになります。
最初は、ほんとに何もせずに過ごしていて、それこそ昼間からお酒を飲みながら映画などの動画を見たりして過ごします。しかし、そういった生活もすぐに飽きるものです。
観たいと思う動画もすぐになくなるものであり、私の場合はお酒を飲むとすぐに眠くなってしまうので結果的に、ただ寝て過ごすだけになってしまうので満足感を得ることができません。
人は不思議なもので、ただのんびりする中にも満足感をや充実感を求めるものなのです。
その次に、私が始めのは読書です。なぜ本を読むようになったかというと、ふと「本でも読むか」と思ったからです。
本を読むのは、以前から好きだったし、読書はちょっとした集中力が必要なので、動画を見て過ごすことよりも楽しさを感じることができました。
おそらく、動画を見て過ごしているよりも本を読むという行為の方が能動性が強いのではないかと思います。なぜかというと、文章で読んだことを頭の中で映像化するという行為は、ただ視覚で映像を追うよりも脳を使うからだと思います。
また、なぜ私が本を読むことを選んだかというと、単に一人で静かに過ごしたかったということもあります。私は性格的に一人でいるのを好むため、せっかく自分のための時間を作ったのだから、一人で自由に過ごしたいと思ったのです。
そういったわけで、ひとりで本を読む生活を始めます。日中に本を読み、夜、お酒を飲みながらテレビの見逃し配信やyoutubeを観たりして過ごします。
しかし、それでもやはり飽きるんですね。
そこで本を読んでいたという流れから、今度は何か書いてみようと思うようになります。文章を書くのは何かを揃える必要もないし、いつでもできるしいつでも中断できます。天気に左右されることもないため、一番気軽にできることです。
能動性が強い方が楽しめる
私がnoteで記事を書き始めるまでに2つほどブログサイトで記事を書いていました。このためnoteを含めて、私は1年近く書くということを中心にして生活をしています。
書くということは、これまでしていた仕事にも、動画を見て過ごしたり本を読んで過ごしていたときよりも面白さを感じていたりします。
その理由はというと、書くということは一人で集中して出来ることであり、自分の内側から出てくる能動性をそのまま表現できるという点にあります。
私がこれまでしてきた仕事は自分で選んだ仕事ですが、どちらかというと消極的な理由でしていたため受動的です。動画を見るのも本を読むのもそれを選ぶのは自分ですが、それは受け取るという行為です。
しかし、自分で考えたことを文章にするということは、自分の内側から生み出すという行為でもあり能動性が強かったりします。
つまり、楽しいと思えることには強い能動性が必要なのであり、「楽しむ」ということは「自分から積極的に関わろうとすること」なのです(当たり前のことですが)。
そして「楽しむ」とは「自分の思いを表現する」ことでもあります。
楽しさをどう表現するかは人それぞれ異なります。しかし「自分の思い」をひとつの形にするということは、とても楽しいことです。
遊びでも趣味でも仕事でも「楽しい」と思えることは、自分の思いを行為として表現することだったりします。
この表現するということは、受け取ることより大きな「喜び」があり、全くの無の状態から何かを作り出すという楽しさがあったりします。
つまり、「表現」とは「創造」であり、この「創造」するという行為が楽しさに繋がっていくといっていいでしょう。
何かを表現する場合、「想像」と「創造」と「結果」という3段階を楽しむことができます。これらの3段階のそれぞれをすることが「喜び」であり「表現」であり「能動性」の現れなのです。
こういった「自分の思い」をひとつの形にして「表現したい」という能動性が、おそらく誰の中にもあって、その対象を見つけて実際にできるようになると、そこに「楽しさ」が生まれ、生きることの「喜び」へと変わっていくのだと思います。
こういったことから、「喜び」を感じて生きるためには、まず最初に「楽しい」と思えることを見つけなければなりません。
「心の声」に従って生きると上手くいく
以前、「激レアさんを連れてきた」というテレビ番組に「野草が好きすぎる人」が出てきた回があり深い関心を持ちました。
この「野草が好きすぎる人」は女性の方で、普段の食事に野草を使うのは当然のことであり、彼女が会社員として働いていた当時は、昼休みに外に出て泥にまみれながら野草の採取をしていたそうです。
さらに、そういった野草についての写真や記事を継続してネットで上げていた結果、今では会社員を辞め野草についての講演をしたり講座を持ったりして収入を得ていたりするそうです。
そもそも、普通は野草を職業にしようとは考えないものだし、もちろん、その女性も最初は野草を仕事にしようとは思ってもいなかったはずです。しかし純粋な気持ちで楽しいと思えることを楽しんでいたら、結果的にそれが仕事になっていたりするものなのです。
こういったことは、思考で生み出せることではありません。しかし、「楽しい」と感じたことを心から楽しんでいると思わぬ結果が生まれてしまうものなのです。
また「楽しい」と思えることは何かの形に表現したくなるものであり、それが人が持っている本能といってもいいかもしれません。
しかも、現代はSNSがあるため表現することは誰でもできることでもあり、ネットを使えば、同じような趣味を持つ人と距離を気にせず交流できるようになったりします。
条件からは楽しさは生まれない
老子の言葉に「心の声に従え」というものがあったりしますが、心の声に従って能動的に生きることができると、自然と自分の中から湧き上がる楽しさで生きていけるようになるものなのだと思います。
私は、「楽しくないことはしない」と決めたとはいえ、かといって無理をして楽しいと感じることを探したわけでもなく、ただ思い付きで生活していた、結果、今は毎日、楽しんで過ごせるようになっています。
おそらく書くことは自分の性分に合っているのだと思うし、これまでしていた仕事は自分の性分には合っていなかったのだと思います。
たとえば、仕事の中でも自分の性分に会うもに出会うことができたなら、今でもその仕事をしていたでしょう。しかし、残念ながらそういった仕事と出会うことはありませんでした。
とはいえ、今のところ書くということを楽しむことができていて、休もうと思うこともなく毎日続けて書くことができ、単に楽しいという能動性だけでしていたりします。
では、なぜ私がこういった感じになれたかというと、「やりたくないことはしない」と決めて、それ以降は、ただその時々で興味のあることを、しかも消極的な理由でしてきただけだからかもしれません。
しかし、それが結果的に功を奏したのかもしれません。特に力むことなく、自然体でできるということがよかったのだと思います。
今の社会のあり方として、ただ思ったことをするということが難しかったりします。「ただ思ったことをする」ということを、あえてかっこよくいうなら「心の声に従う」になりますが、どちらにしても、これらは自然発生的なものであり力みのないことだったりします。
そして、力みがないからこそ楽しめているといってもいいかもしれません。
こういった単なる自然発生的な思いは、大概、すぐに却下されてしまいます。なぜかというと、思い付きでやりたいと思ったことでも、それがお金に繋がらなかったりすると却下されてしまいがちだからです。
つまり、「お金」とか「生活」とか、そういった条件によって純粋に何かをしたいという思いが却下させてしまったりするのです。
とはいえ、何かしらの「条件」があったとしても、そういった思いを捨てずに、お昼休みに外の出て「野草」を採取するというような楽しさを持って「表現」し続けると、それが予想外の結果となってあらわれたりするものです。
私の場合も、文章を書き始めた最初の動機も、単に楽しいという理由からであり、もし本気でお金を稼ごうと思ったなら文章を書いて過ごすよりも、これまでの経歴を使って稼いだ方がよっぽど効率的だったりします。
とはいえ、もう楽しくないことはしたくないんですね。
すべてを手放したところから「本当の欲求」が生まれる
最近、「瞑想」することの意味を理解できるようになってきました。
たとえば、いい瞑想ができたときはどういう状態かというと「忘我」の状態になれた状態です。
この「忘我」の状態がどういう状態かというと、すべてを観念を落とすことができた状態であり、こういったすべての観念を落とすことができたとき、そこから「本当の自分の思い」が湧き上がってくるものです。
この「本当の自分の思いが湧き上がってきたこと」が「気づき」です。
また、「観念」とは「条件」ということもでき、すべての「条件」を落としたときに浮かびあがってきたことが「気づき」であり「自分の本当の思い」なのです。
このため「気づき」は「自分に対する愛」でもあったりします。なぜかというと、「気づき」は、すべての条件を取り払って浮かび上がってきたものであり「愛」とは条件のない状態だからです。
そういった意味では、一旦すべてをゼロにして、そこから浮かび上がってきた欲求が「自分が本来求めていることに繋がっていく」といってもいいかもしれません。
このゼロから浮かび上がってきた欲求が、自分が本来求めていたことであるという構造は、ゼロから何かを生み出し表現するという構造と一緒だったりします。
なぜかといえば、全くのゼロの状態から何かを作り上げるということが「喜び」になるということです。
もちろん、ゼロの状態になったからといってすぐに核心をつく欲求に繋がるとは限りません。しかし、何度も何度もゼロの状態になって、そこから浮かび上がってくる欲求に従っていると「本当の自分の思い」に繋がっていくのではないかと思います。
そして「本当の自分の思い」に繋がることであれば、その内容がどんなものであったとしても、それが「喜び」になるものであり、それがその人の「道」となるものなのです。
少し長くなりますが、「老子 あるがままに生きる」から老子の言葉を引用します。
整備された綺麗な道が必ずしもいい道とは限りません。道をどうとらえるかは、人それぞれに異なるものであり、人生という道は形ではなく楽しさに本質があります。
険しい道の方が楽しいと思う人もいれば、整備された道を最速で走っていくことを楽しいと感じる場合もあるでしょう。
大切なのは「楽しさ」であり、その楽しさを表現し喜びに変えることが生きることの楽しさなのかもしれません。
そして、自分にとっての楽しさを見つけることができると、自分自身を成長へと繋げていくことができるよういなります。
そこで、自分の道を探すために、すべての条件を外して一旦、無の状態になると、自分の道を見つけることができるようになるかもしれません。
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