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#156 弁慶は何人いる?【宮沢賢治とシャーマンと山 その29】

(続き)

現在の出羽三山は「羽黒山」「月山」「湯殿山」で構成され、庄内平野の西に鎮座している。興味深いのは、3つの山は出羽三山一帯における標高の高さベスト3ではない。月山は一帯では最も高いが、羽黒山や湯殿山より高い山は他にもある。つまり高さが信仰の絶対基準ではない。そこには高さだけではない、聖地となるための条件があると思われる。

羽黒山は、三山の玄関的な役割を果たし、今でも羽黒山麓の手向地区には宿坊が並んでいる。かつては山伏達が宿坊を営み、三山への先達を務めたようだ。

山伏と言えば、手向地区にある正善院黄金堂には、弁慶が粕汁を煮たという「弁慶の粕鍋」なるものがある。

武蔵坊弁慶は源義経に付き従い、岩手の平泉で最後を遂げたと言われるが、出羽に限らず、他の修験の地にも弁慶の足跡は数多く残されている。

弁慶は何人いたのか?と思うほどで、恐らく弁慶は、個人の名というより、なんらかの集団の構成員に冠された屋号的なものではないか、ということも想像される。そう考えると、弁慶が各地に足跡を残していることや、その主人でもある義経伝説の謎も解けるような気がする。武蔵坊と名のつく屈強な男は複数人おり、各地へ出向いたのではないだろうか。

弁慶らしき人物が仕えるのは義経であるという連想から、本物の義経が弁慶の傍にいなくとも、「弁慶らしき者がいる=傍らには義経もいる」とされる可能性が高いのではないだろうか。そう考えると、弁慶同様に各地で伝説を残す義経の足跡も説明できるのかもしれない。

修験道の聖地の中では、熊野にも弁慶はいた(そもそも熊野は弁慶生誕の地との伝承がある)。筑波山の弁慶は巨石の下をくぐるのを躊躇したと言われ(弁慶七戻り)、早池峰の南側の遠野の弁慶は、巨石脇で昼寝をした(遠野・続石の弁慶の昼寝場)。

熊野にいたっては、岩手から遠く離れているにも関らず、奥州の盟主・藤原秀衡の足跡までもが2か所に残り、その近くに陰陽師・安倍晴明の腰かけ岩まであるのは、偶然なのか?必然なのか?いずれにしても興味深い。

【写真は、羽黒山手向 正善院黄金堂の「弁慶の粕鍋」の説明書】

(続く)

2024(令和6)年3月19日(火)

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