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アートの未来と『君たちはどう生きるか』

『君たちはどう生きるか』はアートにとって重大な出来事なんじゃないかと思い、今思っていることを書いておきます。

『君たちはどう生きるか』の感想や考察を読んでいると、「これは芸術作品だ」や「これはアートだ」という文言をよく目にしました。

3種類くらい意味があると思うのですが、
1つ目は、何を言っているのかよく分からないけれど真剣に作っているみたいだし何か中身がありそうという意味。

2つ目は、エンタメとして消費されるという目的から外れて、作者(宮﨑駿監督)の作りたいものを作っているという意味。

3つ目は、内包するものが豊かで素晴らしいという意味。

どれもアート作品と対峙した時に起きることかなと思うので、この作品はアートなんだろうと思います。

日頃から、アートはこんなにも面白いのに、日本(私の周りと言う意味)では普及しないのだろう?と思っています。アート作品を買って飾っている人は少ないし、経済規模の割にアート市場も大きくない。

要因としては、日本人(私の周りの沢山の人たちの意味)にとって、しっくり来てないからかなぁとぼんやりと思います。しっくりと来てない理由はいくつか考えられる。

欧米に比べて、目に見えないことをアート的な手法で明確にして分析的に解釈する、ということを重要視する文化じゃない。悪いことではないけれど、論理とか理念とかそういうものの下に動いていない。もっと感覚や情動や空気や関係性のようなものによって動いていて、欧米ほど「アート」が必要な関係性に生きてないように思う。目に見えないものは、目に見えないもののままにしておく傾向にある。だから、アートはよく分からない高尚なもので一部の人にしか関係ないものだということになっている。

アート業界自体が、分かりやすくすることを望んでいない。どんな業界でもそうだけれど、既得権益を保ちたがる傾向にあるので、アートが誰でも分かるものではなく、高尚な人やすごい人や熟練した人しか扱えないものというイメージのままにしておきたい。金や名誉や名声を集めるには、参入障壁を作るのが鉄則だ。金や名誉や名声は悪いものではない。それらがあることによって、日本にしっくりと根付いていないアートも今まで生き延びて来た。アート作品に権威を与えて、アート作品を扱う者を権威を持たせるというビジネスの一つの形だ。そのようなビジネスがあってもいい。ただ、硬直して誰かを踏み躙る部分に対しては、常に変わっていかないといけないと思う。

乱暴に私の知りうる周りのことを日本と呼ぶけれど、日本はアートが生まれ育つのにはまだ厳しい環境だ。どんな文化も、ただ移植して来ただけでは森にはならない。その木がやって来た故郷では、その木が生まれる環境があった。日照や温度や風や季節や虫や細菌やウイルスや人間や色々な生き物やに囲まれて、複雑に有機的に関係しあって木が生まれ森が生まれた。

それをいくつかのパラメーターを整えて移植したとしても、森になるには長い時間がかかるし、森にはならないかもしれない。たまに、外来種が奇跡的にフィットして爆発的に増えるものもいるだろうけれど、それが良いことでないことの方が多い。

私は、アートというのはとても大切なものだと信じている。実際、絵を描いたり絵を見てくれる人がいない世界に生きていることを想像できない。アートがある社会に生きていたい。ただ、このままの形じゃ日本にとって、どこかしっくりとくるものではないように思う。私自身は、アートが普及しようが普及しまいが、絵を描くだろうし、何らかの形で観てもらえたら幸せです。今のままでも十分恵まれているけれど、アートの末席を汚す者としてアートの繁栄を願っている。このままがアートの最終形態だとは到底思えない。だから、もっと今のこの状況にフィットするようにアートにチューンナップされたら良いなーと思う。日本でもどんどん育つアートを見たいと思う。

今回、『君たちはどう生きるか』はその希望だと思った。

『君たちはどう生きるか』が公開された後、ネットの海を徘徊していると、しっかりとした感想や考察が生まれていた。どの感想や考察もワクワクしていた。その感想や考察は、普段アートに触れない人たちにも届くだろう。ジブリ作品は、出自がエンターテイメントであるから、どんな人にも受け入れられる素地を持っているから。

普段アートに触れない沢山の人たちが、これはどう言う意味だろう?とか、意味が分からなくて腹が立ったとか、めちゃくちゃ良かったとか、心動かしていることがとてつもなくアートらしかった。日本のアートにとって重要なことが起きているじゃないかと思う。

もちろん今までも素晴らしいアニメはたくさんあった。エヴァンゲリオンや『君の名は』でも、美的な議論はされてきた。それらがあったから、エンターテイメント作品を作り続けて来たジブリが作った、アート作品のモヤモヤに普段そんなこと考えない棲み分けられてきた人たちが、関心を持っている。予告編がなかったことも、普段アート作品を観ない人も巻き込んでいる理由の一つだろう。これほど広く多くの人が明確に美的なことに関心を持ったと言うことは、大変なことなんじゃないかと思う。今この状況をアートの本流に接続することが急務なんじゃないかと思う。

村上隆がスーパーフラットを世界に発信しているけれど、その方向性は間違っていなかったんだなと驚嘆した!すごいな村上隆!もう岩は坂を転がっている。岩がもっと大きな岩にぶち当たって砕け散らないように行く末を見守りたい。

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