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不登校を乗りこえて1

2020年3月13日 

最初の緊急事態宣言が発表された。あの日から私たちの生活は何もかも変わった。コロナ渦を生きる私達。誰もが少なからず影響を受けただろう。

長男と長女の不登校、病、家族の危機を乗り越えて今、当時の気持ち当時の思いをここに記しておこうと思う。

家族の絆が試された約3年。

すでにどこか壊れかけていた家族だったかもしれないが、この経験が家族をもう一度よみがえらせてもくれた。私たちを本当の家族にしてくれた。コロナが私に教えてくれたこと…

突然の休校 

子供達の学校は突然休校に入った。前日に緊急事態宣言が発令されて次の日にはたくさんの荷物を抱えて下校になり、予想もしてなかったことで何といっても誰も経験してない初めてのことに誰もがみんな不安を抱えた。

学校が大好きだった長男は休みに入って心なしか元気がない感じがした。

子供たちの異変

私は幼稚園の生活補助の仕事をしていて、なぜか幼稚園は休園にはならなかったので、子供たちと休校と私の仕事の休みが合わなかった。

娘は独りぼっちではないけれど、年の差のある兄はかまってくれないこともあり、リビングで一人で昼食をとることになった。それが初めてのことで、本人にとってはすごく寂しかったそうだ。

私が帰宅すると、娘は心なしかいつも元気がなかった。私は子供たちの昼食の用意と仕事、バタバタと毎日が過ぎていった。

長男は、休校で生活が乱れ始め朝の時間に起きてこなくなった。反抗期も重なり会話するのがうっとしそうな感じ。私が仕事から帰宅してもまだ寝ていたなんてことがあった。

はじめは「ゲームばかりして夜更かししたのね!」と口うるさくいつもの調子で「もう!起きなさい!ごはんちゃんと食べて!」と言っていた。

でも長男は寝てばかりいて、夜中は起きているようだったが、食事もあまりとらなくなった。

卒業式の時、長男はすごく痩せていた。私はすごく心配を胸に思春期、反抗期を迎え自立心の芽生え始めた彼にちゃんと近づけずにいた。緊急事態宣言が発令されて初めての卒業式だった為卒業式すらまともにできるかわからないような状況だったが、なんとか終えることができた。そして新学期となった。

新学期が始まった

小学校3年生になった娘は学校へ行くことを度々嫌がった。私も仕事をしていたので忙しさに娘の話をちゃんと足を止めて聞いてあげられなかったかもしれない。

平日は送り迎えでなんとか登校し、土日になると「学校に行きたくない」涙をぽろぽろと流すようになった。

度々頭痛を訴えて発熱もしたりした。これはちょっとおかしいなと思い、詳しく話を聞くと、コロナ休校の時に出題された宿題のプリントと普段の両方の宿題が彼女を苦しめていた事が分かった。

休校時の宿題は休校がどの程度伸びるかわからなかった為に、学校も大量に出題していた。多すぎるとは思ったが、その後登校できるようになったので、私はてっきりその宿題はもう必要ないのかと思っていた。

その日から宿題を一緒にやるようになった。勉強もついていけてないところもありわからないところは二人で潰した。

その時彼女は、「休校のとき、お母さんが仕事で一人でお弁当を食べることがすごく寂しかった」と話してくれた。

お兄ちゃんが思春期に入り、一緒に遊ぶことが減って、部屋からあまり出てこなくなった。登校する時も、いつも同じ集合場所まで一緒に行ってくれて引っ張ってくれていた。でも、お兄ちゃんが中学生になり、一緒に登校できなくなったことが寂しくて辛いと話してくれた。

環境の変化に対応できなかったのだ。心に穴が開いているような感覚だったのかもしれない。いつもそこにあったものがなくなる感覚。それは大人だろうが、子供だろうが、誰にも大きさを図ることはできない。

彼女が胸の内を話してくれて本当によかったと思った。

でもこのころから私は自分の心と身体に異変を感じ始めていた。

長男の事も心配だった…。

自分の異変

仕事、娘の送り迎え、買い物に食事作り、娘との勉強、長男が離れていった事への心残り、長男の体調の心配、娘も体調を崩したり看病が続いた。うちは完全にワンオペ育児だったのだ。

でも止まる事は出来なかった。私の心に一気にやる事と心配事の水位がぐっとあがったことを感じた。

これはどこかであふれるかも…どこかでそう思いながら過ごしていた。

その時はまだ、とにかく子供を元気にしなくちゃ。

ちゃんと学校へ通えるように!!と思っていた。                       
       つづく…

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