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『なぜ今、仏教なのか』の感想はマインドフルネスは情報社会の心の処方箋【レビュー・要約】
現代社会において、なぜ【仏教】の視点が重要になってくるのでしょうか?
今回noteでは『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(ロバート・ライト 著 熊谷 淳子 訳 早川書房)を読んだ感想を、書評や要約・レビューも兼ねつつ、なるべく分かりやすく述べていきたいと思います。
本書のタイトルには、『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(原題『Why Buddhism Is True』)とありますが、本書は進化心理学や科学的立場から、現代において、仏教(ブッダの思考法や瞑想)がなぜ重要になってくるのか、もしくは「人間の苦しみに対する仏教の診断が根本的に正しいか」ということについて述べられている一冊であると感じました。
本書『なぜ今、仏教なのか』の著者であるロバート・ライト氏は、大学でも教鞭をとっている、進化心理学や宗教などを専門にする科学ジャーナリストであるため、なるべく仏教の「自然主義的な部分」だけを取り上げています。
そのため、仏教や瞑想を「宗教」のように感じ、どこか敬遠してしまうという方にとって、仏教というものを、自分のなかにはこれまでなかった新しい視点で捉えるために、手に取りやすいかもしれません。
ちなみに『仏教思想のゼロポイント』の著者であり、仏教研究者の魚川祐司氏が解説において、
まとめると本書は、(一)現代人の一人として仏教でない人々とも感覚を共有する著者が自ら瞑想を実践し、(二)仏教の説く「真理」を科学的な知見を裏づけとしつつ語り直して、(三)さらにその実践と哲学を、究極的に単なる「いやしの道具」としてではなく、むしろ「精神的」な探求の道として、私たちに提示しようとする著作である。
と、本書の要約を簡潔にまとめています。
「自然選択」と「妄想」の関係とは?
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『なぜ今、仏教なのか』を読んでみると、著者であるロバート・ライト氏が進化心理学を専門にしていることもあり、本書は、進化論における「自然選択」の話題について多く述べられているのが特徴だといえます。
たとえば、
「自然選択が「気にかけて」いること、それは遺伝子をつぎの世代に伝えることだ。」
「知覚や思考や感覚が現実の本来の姿を見せてくれるかどうかは、厳密にいえば重要ではない。そのため、本来とはちがう姿を見せられることがある。脳はなにより、私たちに妄想を見せるように設計されている」
と述べている点は、冒頭で映画の『マトリックス』の話題が出てくるとおり、私たちの脳は決して、世界の本来の姿をそのまま描き出すように出来てはない、ということについて考えさせられます。
結局のところ自然選択は一つのことしか気にかけていない(ここはかぎかっこをつけて、一つのことしか「気にかけて」いない、とするべきだろう。というのも、自然選択はやみくもに進むプロセスでしかなく、意志を持つ設計者ではないからだ)。自然選択が「気にかけて」いること、それは遺伝子をつぎの世代に伝えることだ。過去に遺伝子の伝播に役立った遺伝形質は繁栄する一方、役に立たなかった遺伝形質は途中で脱落してきた。この試練を生きぬいてきた形質の一つが心的形質、つまり脳内に構築され、私たちの日々の経験を形づくっている構造やアルゴリズムだ。
だから、「毎日生活するうえで私たちを導いているのはどんな知覚や思考や感覚か?」ときかれば場合、根本的な答えは、「現実を正確に見せてくれる知覚や思考や感覚か?」ときかれば場合、根本的な答えは、「現実を正確に見せてくれる知覚や思考や感覚」ではない。「祖先が遺伝子をつぎの世代に伝えるのに役立った知覚や思考や感覚」が正解だ。そのような知覚や思考や感覚が現実の本来の姿を見せてくれるかどうかは、厳密にいえば重要ではない。そのため、本来とはちがう姿を見せられることがある。脳はなにより、私たちに妄想を見せるように設計されている。
またロバート・ライト氏は、妄想のレベルの要約として、以下の三つを挙げています。
「1.感覚は、「自然な」環境であっても現実を正確に描写するように設計されていない。」
「2.私たちが「自然な」環境に暮らしていないせいで、感覚は現実への案内役としてさらに信頼できないものになっている。」
「3.すべての根底にあるのは幸せの妄想だ。」
そして、「ブッダにも見えなかったのはその根源だ」としたうえで、
私たちは自然選択によってつくられ、自然選択の仕事は遺伝子の繁栄を最大限に高まることにつきる。自然選択は、真実それ自体に頓着しないばかりか、私たちの長期的な幸せにも頓着しない。何が長つづきする幸せをもたらし何がもたらさないかについて妄想でまどわすことが祖先の遺伝子を前へ推し進めてきたとすれば、自然選択は私たちにあっさりその妄想を見せる。それどころか、自然選択は私たちの短期的な幸せにさえ頓着しない。
とも述べている点は、傾聴に値するように思います。
ドーパミンの放出と幸福の関係とは?
「自然選択は、真実それ自体に頓着しないばかりか、私たちの長期的な幸せにも頓着しない。」
「自然選択は私たちにあっさりその妄想を見せる。それどころか、自然選択は私たちの短期的な幸せにさえ頓着しない。」
というのがもし本当であれば、ドーパミンの放出が快感をもたらすことはあっても、人類の幸福を約束するものではないのかもしれません。
また、初めて粉砂糖がけドーナツを食べたときの体験を味わうことが、2回目、3回目からは難しくなってくるがゆえに、常にヒトはより新しい刺激と報酬を求めて、ぐるぐるとさまよう羽目になるのかもしれません。
私たちが新しい種類の快楽に出くわしたらーーたとえば、これまでの人生をなぜか粉砂糖がけドーナツなしですごしてきたとして、ためしに食べてみてと一つ手わたされたらーードーナツの味が全身にしみわたったあと、ドーパミンが盛大に放出されるだろう。しかし、その後、常習的な粉砂糖がけドーナツ食らいになってしまうと、ドーパミン放出の最大のピークは、実際にドーナツにかぶりつく前にものほしそうにドーナツを見つめているあいだいに訪れるようになる。ぱくりとかぶりついたあとに放出されるドーパミンの量は、はじめて粉砂糖がけドーナツをかぶりついた至福のときに放出された量よりはるかに少ない。
かぶりつく前に放出されるドーパミンは、それを上まわる幸福が待っていると約束するものであり、かぶりついたあとのドーパミンの急降下は、ある意味で約束違反だ。少なくとも、過大な約束だったことを生化学的に認めているようなものだ。あなたもその約束をうのみにしたーー食べることそれ自体から得られる快楽より大きい快楽を期待したーーという点で、妄想にかられたとはいわないまでも、少なくとも誤認させられたといえる。
残酷だといえなくもないが、自然選択に何を期待できるだろう。自然選択の仕事は遺伝子を拡散する機械をつくることだ。それが機械にある程度の錯覚を組みこむことを意味するなら、錯覚が組みこまれることになる。
自然選択からマインドフルネス、仏教へ。
![画像2](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/12189407/picture_pc_c7df561ff9191c4ead304533119355a1.jpg?width=1200)
もし、そこに幸福があると思ってかぶりつくと自体が、実は「錯覚」による「妄想」だとしたら、どうでしょうか?
ヒトはつねに何らかの「妄想」に囚われており、刺激→行動→報酬のサイクルをぐるぐると回っているだけだとしたら(参考文献 『あなたの脳は変えられる』)、そこから抜け出す術はあるのでしょうか?
もちろん人間の生活はそんなに単純ではないことが確かですが、ある意味、欲望を喚起することで成り立っている資本主義においては、どうしても(他者の)欲望が欲望を生み出すサイクルに巻き込まれてしまう側面もあると思います。
お金はある程度あったほうが、幸福度は高いといいますが、お金で魅力的な商品をいくら買ったところで、どうしても満たされない「心」というものも、一方で存在するのではないでしょうか?
すなわち高度に進歩した文明社会や情報社会のなかであっても、「生きる」というのはどういうことか悩み、心の迷いや葛藤が生じるのは当然なのです。
そしてそのような現代社会に対しての処方箋として登場するのが、およそ2500年前に生まれた仏教の考え方であり、悟りを目指さなくても、マインドフルネス瞑想(ヴィパッサナー瞑想)の実践は有効になってくると私自身は考えるのです。
まず、マインドフルネス瞑想はいい訓練になる。瞑想クッションにすわって瞑想しながら感覚をマインドフルに眺めることで、実生活でも普段から感覚をマインドフルに眺めるのがうまくなり、判断を誤らせるような感覚や無意味な感覚に支配されにくくなる、信号が青に変わったあと、(許しがたいことに、こちらが重要な約束に遅れまいと必死なことにも気づかず)アクセルを踏むのに、二、三秒かかった運転手にキレることも減る。子供でも配偶者でも、あるいは自分自身でも、あなたが大声をあげてしまいがちな相手にやたらに大声を浴びせることも減る。人から受けた屈辱的な仕打ちに腹を立てることも減る。そんな仕打ちをした相手に仕返しする空想にふけることも減る(とはいえ、そうした空想が楽しくないわけではない)。
マインドフル瞑想とは反応しない練習
![画像3](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/12189703/picture_pc_7c4045f7d349d2aa3d0e6d0f1f687c82.jpg?width=1200)
先程も述べましたが、もし、そこに幸福があると思って求め続けてきたものが、実は一時的な快楽しかもたらさない、「錯覚」による「妄想」かもしれません。
しかしロバート・ライト氏が言うように「脳はなにより、私たちに妄想を見せるように設計されている」としても、脳による「錯覚」や「妄想」(もしくは「想像力」)があるからこそ、便利で快適ないまの文明社会が生み出されたともいえます。
そのためここでは、ただ単純に、脳による「錯覚」や「妄想」が悪いことだと言いたいのではありません。
ですが、本来「A」は「A」でしかないはずなのに、「A」=「B」や「A」=「C」であることが当たり前になり、そのことにいつまでも気づくことがなかったとしたら、どうでしょうか?
たとえば、同じ人間であるはずなのに、立場や状況の違いによって、直接会ったこともない、よく知らない相手を「敵」や「味方」と見なしたり、「上」や「下」とランク付けしたりしてしまう場合は、「錯覚」や「妄想」のデメリットだとも言えるのではないでしょうか?
また普段の習慣として行っていることが、自分自身の感覚に従う最良なことだと思っていたとしても、自分の主観やこだわりから一歩距離を置いてみれば、もしかしたら最良な選択だといえなくなる場合もあるのかもしれません。
見たいものだけを見て行動することは果たして最良の選択か?
![画像4](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/12189595/picture_pc_22674b6c3ccdaa913e06e89c67e7900f.jpg?width=1200)
つまり、何を述べたいのかといえば、自分の感覚に従い、時に衝動的に行動したり、自分が見たいものだけを見たりする、自分の好きなものだけを選んだりすることが、本当に最良もしくは最善であるかどうかは分からないということです。
ロバート・ライト氏は、『なぜ今、仏教なのか』のなかで、
マインドフルネス瞑想のよい点は、自分の感覚に無批判に反射的に従うのではなく、感覚を注意深く明晰に経験することで、喜びなり楽しみなり愛なり、自分が従いたい感覚を選べることだ。感覚とのこのような選択的なかかわり方、つまり感覚のいいなりにならないかかわり方には、私たちがものや人に見いだす本性を形づくっている感覚とのかかわり方も原理上は含まれる。
と述べていますが、マインドフルネス瞑想の実践がなぜ現代において重要になってくるのかといえば、氏が言うように「自分の感覚に無批判に反射的に従うのではなく、感覚を注意深く明晰に経験することで、喜びなり楽しみなり愛なり、自分が従いたい感覚を選べる」ようになるからなのです。
たとえば、頭がかゆいと感じたら、すぐにちょっとだけ掻いてしまうことはさほど問題ではないかもしれません。
けれども、日々の生活の中で、友人や恋人、配偶者の心ない一言に反応してしまい、ついカッとなってひどい喧嘩を始めてしまったり、自分が気に入らない発言をしたタレントがテレビの映像に映ったら、すぐに知人にそのタレントの悪口を言ってしまったりするなど、特定の入力に対して、決まった反応の仕方をしてしまう場合は多いと思います。
マインドフルネスで特定の入力に対して決まった反応をしないようにする。
![画像5](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/12189427/picture_pc_8abbd66703ddca1acb27e1a3e1394009.jpg?width=1200)
ところが、マインドフルネス瞑想(ヴィッパサナー瞑想)を実践することによって、感覚に対してただ決まりきった反応をしてしまうことから、少しは抜け出せるようになるのです。
まわりのものごとーー光景、音、におい、人、ニュース、映像ーーがあなたの神経を逆なでし、あなたの感覚を作動させ、どんなにさりげないとしても一連の思考や反応を始動させ、それがときに不運な形であなたの行動を決定する。あなたがその現状に注意を払いはじめないかぎり、まわりのものごとはそれをやめない。
人の脳は、飛びこんでくる入力にかなり反射的に反応するよう自然選択によって設計された機械だ。感覚器官からの入力に支配されるよう設計されているといってもいい。支配のかなめとなるのは入力に反応して生じる快や不快の感覚だ。もしタンハーを介してこの感覚に対応するなら、つまり快の感覚に対して反射的に渇望が生じるにまかせ、不快の感覚に対しては反射的に忌避が生じるにまかせるなら、まわりの世界に支配されつづけることになる。しかし感覚にただ反応するのではなく、感覚をマインドフルに観察すれば、ある程度その支配から抜けだせる。普段私たちの行動を勝手に方向づけている原因に抵抗することができ、「無為」すなわち「条件づけによらないもの」に近づくことができる。
(ちなみに引用文のなかにある「タンハー」とは「渇愛」と訳されていますが、一般的には「渇き、欲望、願望」を意味するともされています)。
要するに、ここで著者が述べようとしていることは、分かりやすくいえば、「感覚をマインドフルに観察」することで、「快」であれ「不快」であれ、特定の入力に対して決まった反応をしないようにするということなのだと思われます。
このことがすなわち、「普段私たちの行動を勝手に方向づけている原因に抵抗することができ、「無為」すなわち「条件づけによらないもの」に近づくことができる」ということなのです。
もしくは先程引用したように、マインドフルネス瞑想によって、「自分の感覚に無批判に反射的に従うのではなく、感覚を注意深く明晰に経験することで、喜びなり楽しみなり愛なり、自分が従いたい感覚を選べる」ということなのです。
現代社会において【悟ること】は必要なのか?
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ところで、冒頭で本書『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』は、進化論における「自然選択」の問題と仏教の関係について主眼を置いている一冊だと述べましたが、自分自身の脳が描き出す現実というのは、必ずしも正確ではなく、そもそも脳は現実をあるがままに描写するようには設計されていない、ということがポイントになってくるのです。
映画『マトリックス』に代表されるように、もしかしたら現実とはある種の幻ではないのか、といった問いもそこから生じてくるわけです。
(『マトリックス』の話題が出てくる第1章の全文はnoteで読めます)。
そこで「空」や「縁起」といった仏教の考え方が出てくるのですが、ものごとはそれぞれが関係し合っていることで成立しているため、実は「どんなものも本来的な存在をそなえては」おらず、「あらゆるものは本来的な独立した存在性を欠いている」のです。
仏教哲学者が空の教義のために持ちだす論理を見ると、「縁起」と呼ばれる仏教の思想と大いに関係があるのがわかる。ものごとはほかのものから独立して存在しているように見えるが、実際はほかのものの存在や性質に依存している。これが縁起だ。木々は日光や水を必要とし、日光や水などほかのものとかかわることで変化しつづけている。小川や湖や海は雨を必要とし、雨は小川や湖や海を必要とする。人は空気を必要とし、空気は人が息を吸ったり吐いたりしなければそのような組成になっていない。
いいかえると、どんなものも本来的な存在をそなえてはいないということだ。どんなものも現行の存在の材料をすべて内部に持ってはいない。どんなものもそれ自体では完結しない。それが空の概念につながる。あらゆるものは本来的な独立した存在性を欠いている。
著者によれば、このような仏教の「縁起」は英語では「相互依存的な共起」と表現されることが多いといいますが、仏教思想にあまり馴染みがなく、よく分からないという場合は、「縁起」をとりあえず、ひとつの現象は、それ自体では成立しておらず、ほかの様々なものが関係し合ったり、影響し合ったりしていることで成立していると、とりあえず捉えてみるといいかもしれません。
そしてこのことは実は「自己」というものについても共通した側面があるのです。
自分とは自分以外の存在と関係し合うことで成り立っている存在。
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自分自身は、自分ひとりで成立しているように感じられることが多いですが、実は、他人であれ、自然であれ、生物であれ、自分以外の存在と関係し合うことで成り立っているのです。
目の前に広がる世界は、私の外にあるようで、実はわたし自身の一部かもしれません。また私のものと思っているものは、実はわたしのものではないかもしれないのです。
果たして「わたし」とは何なのか、という問いと仏教は無関係ではなく、自他の境界というものやいわゆる「心脳問題」について深い関心がある方は、仏教における「無我」の考え方を探求してみるのも面白いかもしれません。
無我について考えてみよう。私たちが「自己」と呼ぶものはたえず環境と因果的な相互作用をし、まんべんなく外界からの影響を受けている。すでに見たとおり、ブッダは無我の説法のなかで、私たちが自己の一部だと考えるさまざまなものが、実際には私たちの支配下にないと説いた。そうしたものがーー少なくとも解放をはたさないうちはーー私たちの支配下にない理由は、それが外部の力の支配下にある、つまり、条件づけられたものだからだ。
またブッダは、私たちが自己の一部だと考えるものの無常性を説いた。思考、感情、態度が無常であり、たえず生滅し変化するのもやはり、変化しつづける力が私たちに作用し、私たちの内面に連鎖反応を引き起こした結果だ。私たちの内面は原因や条件にもとづいている。そして条件が変化すれば条件づけられたものはすべて変化をまぬかれない。しかも条件はほとんどつねに変化している。
情報社会の心の処方箋としての仏教
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しかし、仏教における「悟り」を目指すのではなく、どういう感覚に対して「快」を感じるのか、もしくは「不快」を感じるのか、自分の性質を観察するために、マインドフルネス瞑想(もしくはヴィパッサナー瞑想)を継続してみることは、特に様々な情報や刺激が溢れている現代社会に対しては、有効な処方箋になるように思うのです。
たとえば自分以外の誰かが発信している情報に対して、「良い/悪い」「好き/嫌い」とすぐに判断し、「いいね!」と共感したり、自分が置かれている状況によっては、特定の情報に対して、心のどこかで嫌悪感や憎しみ、妬みなどを抱いたりすることは、よくあることだと思います。
そして、このあたりの心の性質への対処法として、なぜ今、仏教が必要になってくるのか、その理由が隠されていると私自身考えるのです。
「自己」なるものが存在するかどうかにこだわる必要はない。無我の教養の役に立つ部分、具体的には、私たちのどの感覚もーータバコを吸いたい衝動も、スマートフォンを検索したい衝動も、人を憎みたい衝動もーー本質的に私たちの一部ではないという考えだけを利用すればいい。こうした感覚をあるがままに、モジュールが力をあたえようとしていることをそのまま観察する。感覚をこのようにマインドフルに観察すればするほど、感覚の力は弱くなり、だんだん「自分」の一部ではなくなっていく。
瞑想上達の道の大部分は、作用をおよぼしてくる原因に気づき、ものごとが自分をあやつる方法に気づくことであり、さらに、感覚がタンハーを生じさせる場所、快の感覚に対する渇望と不快の感覚に対する忌避を生じさせる場所に、連鎖のかなめとなる鎖があると気づくことだといっていいだろう。マインドフルネス瞑想が深く介入できるのはこの場所だ。
おそらく前の段落の「気づく」ということばには注釈をつけたほうがいいだろう。ここで私が言っているのは、このような因果の連鎖を観念的に理解する純粋に学問的な気づきのことではない。十分に修養を積んだうえでの経験にもとづいた理解、マインドフルな気づきのことであり、それは連鎖を断ち切るか、少なくともゆるめるだけの力をもたらしてくれる。
とはいえ、経験にもとづいた理解を補強し、ときに協働するのは、仏教哲学の一部をなす観念的な理解だ。マインドフルネス瞑想の真の上達は、放っておくと勝手に知覚や思考や行動を方向づける感覚の力学への気づきをより深めること、そして、もとはといえばそのような感覚を引き起こす周囲のものごとへの気づきをより深めることを必然的に意味するといっていい。仏教の悟りには西洋科学における啓蒙と共通する部分があるといえる。どんな原因がどんな結果をもたらすかという気づきをより深める必要がある点だ。
なぜいま仏教の考え方やマインドフルネスが必要になってくるのか。
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たとえば、特定の入力に対して気づかないうちに「ストレス」を増幅させてしまう前に、立ち止まって感覚を観察することで、何らかの衝動に駆られている自分に対して距離をとることができるというのが、マインドフルネス瞑想を実践することのメリットかもしれません。
また、マインドフルネス瞑想を実践し続ければ、買ったばかりのお気に入りの洋服をコーヒーで汚してしまったなど、自分にとってはその時は大きな問題であったとしても、広い視点で眺めたり、長い目で見たりすれば、たいした問題ではないことについて、思考を連鎖させてしまうことを、食い止めることができるようにもなります。
そしてそのことは、ある意味でエネルギーの節約であり、余計なことに脳のエネルギーを費やすのを避けることにもつながっていきます。
しかし仏教という枠組みでのマインドフルネス瞑想やヴィパッサナー瞑想には、「洞察と自由の人生」を選び、「悟り」に一歩でも近づくことで、欲求不満が解消されて本当の意味で心が満たされるという側面もあるため、単にストレスを軽減したりマネジメントしたりするためのツールには収まり切らない部分があることも事実です。
「悟り」とは「どこでもないところからの眺め」
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ちなみに仏教のいう「悟り」とは何を意味するのかを説明するのは難しいですし、様々な解釈・考え方があると思いますが、本書では「悟り」については、とりあえず「どこでもないところからの眺め」であると説明されています。
「どこでもないところからの眺め」は、悟りがどのようなものかを説明するもっとも簡潔な表現かもしれない。自分本位のバイアスがまったくない眺め、ある意味で人間の観点でもほかのどんな生物種の観点でもない眺めといえる。これはまちがいなく自然選択の権威に逆らう眺めだ。自然選択にとって重要なのは数多くの異なる観点を生みだすことであり、どの観点も本来その事実に気づくようにはできていない。ましてその不条理には気づきようがない。仏教の悟りはこのような観点をすべて超越することだ。
どこでもないところからの眺め、かたよりのない眺めを、無関心な眺めと混同してはならない。どこでもないところからの眺めには、人類全体の幸福に対する配慮(そして、仏教の教えやすなおな道徳論理に忠実であろうとするなら、生きとし生けるものすべての幸福に対する配慮)がともないうるし、私はそうあるべきだと思う。肝心なのは、その配慮が均等に分配されることだけだ。だれの幸福もほかのだれかの幸福より重要ということはない。
上記の引用文を読んでも、仏教のいう「悟り」をどのように捉えて良いか分からないという場合は、人間であれ、動物であれ、植物であれ、鉱物であれ、ありとあらゆものに優劣や良し悪しはなく、等しく存在していると考えてみると良いかもしれません。
たとえば犬と猫のどっちが優れているか、という問題は人間の観点にしかなく、さらにどっちが好きか嫌いかということになると、人それぞれ違ってきます。要するに好きか嫌いか、優れているか劣っているか、ということはその人自身の判断にすぎないわけです。
もちろん普通に生活するうえでは、物事に対して「好き/嫌い」「良い/悪い」といったような判断を下してしまうのは致し方ないわけですが、そのような観点から脱け出していき、すべての生命を同じように慈しむというのが仏教の考え方なのです。
「悟り」を目指さなくても、仏教やブッダの思考法に触れてみる。
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以上ここまで、『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』(ロバート・ライト 著 熊谷 淳子 訳 早川書房)の感想を、書評や要約・レビューも兼ねながら、述べてきました。
ちなみに本書『なぜ今、仏教なのか』の巻末で「解説」をしている仏教研究者の魚川祐司氏は、「本書の優れた特徴の一つ」として、「悟り」に関する一般の先入見と、瞑想が開く世界の実状とのギャップを埋める記述を、見事に成功させていることだろう」と述べています。
また、魚川祐司氏が「現代人の一人として仏教でない人々とも感覚を共有する」と述べているとおり、本書は仏教に対してバランスのとれた見方をしている一冊であるため、『なぜ今、仏教なのか』を読むことで、たくさんの刺激に囲まれている情報社会の処方箋として、これからマインドフルネス瞑想を始めてみるのも良いと感じます。
そしてそこから、小さな気づきに喜びをたくさん見出せるようになるのも良いですし、そのあとに、「悟り」を目指したり出家したりしなくても、ブッダの言葉や仏教思想に深く触れてみるきっかけにしてみるのもよいかもしれません。
瞑想にそれほど長い時間をかけなくても、ストレス軽減が思った以上に奥深いものになりうることがわかってくる。瞑想を終えたとき前より少しリラックスしているというだけではない。不安なり恐れなり憎しみなりを非常にマインドフルに観察し、少しのあいだそれが自分の一部ではないかのように眺めるということだ。
こうした経験がいかに深遠かーー少なくともいかに段階的に深遠さを増していくかーーに注目してほしい。不器用なクレジットカード男にろくでなしの本性をあまり見ないことは、ほんのわずかな空の経験といえる。また、不安や恐れを自分の一部ではないと見なすことは、ほんの少しの無我の経験といえる。空と無我という二つの概念は、仏教哲学においてもっとも不可解でもっともばかげて聞こえるもっとも根本的な二つの概念だ。あなたはストレス軽減のために毎日瞑想をしながら、この両方を少なくともいくらか会得していることになる。
これを簡単なことのように言うつもりはない。段階的な悟りと段階的な解放は相互に助けあうことで勢いを増す可能性があるとはいえ、自動的にそれが継続するというものではない。邪魔もはいるし、なかなか思いどおりにはいかないし、瞑想は苦痛なこともある。ただ、うれしいことに、あきらめずにがんばれば、不安や悲しみを避けずにそれをマインドフルに観察すれば、つまらなくても毎朝すわってそれをマインドフルに観察すればその苦痛は上達につながる。妙な話だが、つまらなさや退屈さは不安や悲しみよりマインドフルに観察するのがむずかしいことがある。
なお本書『なぜ今、仏教なのか 瞑想・マインドフルネス・悟りの科学』は、以前noteでご紹介した『あなたの脳は変えられる 「やめられない! 」の神経ループから抜け出す方法』(ジャドソン・ブルワー 著 久賀谷亮 監修・翻訳 岩坂 彰 訳 ダイヤモンド社)と併読してみると、なぜマインドフルネス瞑想やブッダの思考法が、現代の情報社会の心の処方箋として有効なのか、さらに理解が深まるかもしれません。
長くなりましたが、ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます😊
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