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「慈しみ」と「気づき」は、ブッダの教えを実践するための両輪。

誰もがブッダを目指すために大切なことは「呼吸」を観察すること、さらに「気づき」であると述べましたが、


意識的な「呼吸」や「気づき」を実践することにおいては、常に「慈しみ」の気持ちをもつようにすることも重要であるように思います。

ブッダの重要な教えのひとつである「慈悲」については、以前に述べましたが、

この「慈しみ」の気持ちを持つということに関して、ティク・ナット・ハン師は『ブッダの〈気づき〉の瞑想』(山端法玄、島田啓介 訳)のなかで、

 仏教で〈気づき〉の瞑想をするのは、感情を抑圧するためではありません。瞑想を通して感情の世話をし、慈しみと非暴力の姿勢でそれを見守るためです。つねに〈気づき〉を携えていれば、感情や心の葛藤に流されたり、飲みこまれたりすることはありません。意識的な呼吸で〈気づき〉を培い、保ちながら、心に固まりや葛藤が生まれるたびそれらを意識してください。母親が子どもを両腕に抱くように、愛情をこめて迎え入れるのです。

と述べています。


またワールポラ・ラーフラ師は『ブッダが説いたこと』(今枝由郎 訳)の「心に関する心的修養」のなかで「特筆すべき」こととして以下を挙げています。

(1)「母親が自分の一人子を愛する」ように、すべての生きものに対していっさいの区別なく、無限の普遍的愛と善意を向けること
(2)苦しみや問題を抱え、苛まれているすべての生きものを慈しむこと
(3)他人の成功、安楽、幸せを共に喜ぶこと
(4)人生の浮き沈みに平静であること

ワールポラ・ラーフラ『ブッダが説いたこと』 今枝由郎 訳 163ー164頁


これらは普段の心がけというものに関して以前の記事で取り上げた「四無量心」(慈悲喜捨)のことを述べているように思いますが、


ここでお伝えしたいのは、お釈迦さまの教えを実践し、目覚めた人「ブッダ」を目指していくために重要なのは、「気づき」(マインドフルネス)「慈しみ」(コンパッション)の両輪であるということなのです。

このことに関しては、バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ氏が『慈悲の瞑想 慈しみの心』(出村佳子 訳)のなかで、

 気づき(マインドフルネス)は、ブッダの教えのなかで最も重要な教えのひとつです。ブッダは悟りを開いた日から八〇歳で涅槃に入られるまで、ほぼすべての教えのなかで気づきを強調して説かれました。そして、慈悲を気づきと同等に重要な実践であるとみなし、高く評価されたのです。『慈経』を読むと、このことがわかるでしょう。

 気づきは、私たちが心を育てるために欠かせないものです。この気づきによって、慈悲を見いだしたり、保ったりすることができるのです。

 しかし、気づきだけでは十分ではありません。慈悲がなければ、エゴという狭い殻をうまく壊すことはできないのです。

 とはいえ、気づきは慈悲を育てるために欠かせない基盤です。このように、気づきと慈悲はいつもいっしょに育っていくのです。

 慈悲は、欲や怒り、無知から心を守ってくれます。ですから、心に慈悲を育ててください。生きとし生けるものにたいして「幸せでありますように」と願うのです。

と述べていることが参考になります。


また、最近よく知られるようになった「マインドフルネス」というと、「怒り」や「憎しみ」などの感情に振り回されずに「今・ここ」に意識を集中させ、冷静に物事を観察するための訓練という印象をお持ちの方は多いかもしれません。

しかし近年メンタルケアとして注目されるようになった「コンパッション」(compassion)や「セルフ・コンパッション」は、「マインドフルネス」(mindfulness)と切っても切り離せない関係にあるのです。


ちなみに自分自身を思いやる「セルフ・コンパッション」と「マインドフルネス」との違いについては、臨床心理士の有光興記氏が『自分を思いやる練習』のなかで、

この二つは異なる概念で、セルフ・コンパッションが今現在の感覚、感情、思考にやさしい気持ちを向けるのに対して、マインドフルネスはそれらを受け入れることを強調しています。

 ただし、セルフ・コンパッションも経験を修正したり抑制するのではなく、受け入れることを前提としているので、これを培うにはマインドフルネスが不可欠といえます。

 逆に、マインドフルネスの実践の中に、やさしさやいつくしみを感じる要素もあり、この実践の中にコンパッションが含まれているとも解釈できます。

 マインドフルネスを気づくことと定義するなら、コンパッションは気づきの対象ですから、主体と客体とも解釈できます。いずれにしても、この二つの概念を両輪とした実践を行なうことが必要になると考えられます。

と説明しています。


誰もがブッダを目指すために大切なのは、両輪である「気づき」と「慈悲」を一緒に実践し、育てていくことなのです。


 慈しみは、身体と言葉と思考のあらゆる善い行為の根底にある、基本的な原則です。宗教、文化、地理的環境、言語、民族の壁を超えています。心のやすらぎやあたたかいつながりを築く信頼できる道であり、みなの気持ちをひとつにまとめる普遍的で、不変なる真理なのです。

 私たちが調和して暮らし、協力して働くためには、慈しみが欠かせません。人はそれぞれ意見が異なりますから、慈しみがどうしても必要です。そして、その慈しみを他の生命へと広げていくなら、私たちはより穏やかに、より幸せに暮らすことができるでしょう。

バンテ・ヘーネポラ・グナラタナ『慈悲の瞑想 慈しみの心』 出村佳子 訳 71頁




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