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上尾市を流れる荒川「平方河岸」の歴史を紐解くと、近代化の波に翻弄されたドラマがあった

まえがき

埼玉県上尾市の西端には南北に流れる荒川があり、そこを垂直に交差する県道51号線が上尾市南部を横断し、川には開平橋が架けられている。この付近は、古くから「平方河岸(ひらかたかし)」があり、岩槻ー川越をへて多摩方面へ通じる脇往還筋の渡船・舟運の要衝として「平方宿」が形成され、繁栄を極めていた。明治になると、殖産興業を推し進め、昭和初期まで発展を遂げるが、その後は急速に衰退し、昭和30(1955)年に周辺地区と合併して上尾町になる。今では過去の繁栄は跡形もなくなり、人々の記憶からは消し去られているが、調べてみると激動する時代の波に翻弄された平方の歴史が隠されていた。

「平方河岸」の足跡をたどる

県道51号線を川越方面に向って進むと、荒川を渡る手前に平方交差点がある。その先に右手に曲がる脇道(写真1)を入っていくと、細くまっすぐに伸びた道が600mぐらい続き、荒川に到着すると突然途切れて終点となる。ここが、かつて江戸時代から昭和初期にかけ「平方河岸」の中心部として栄えた「平方宿」である。

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(写真1)右手に曲がると平方宿中心部

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(提供:Google Map)

通ってみると比較的新しい一軒家が並び、当時の歴史を感じさせる建造物は見当たらない。さらに250mぐらい進んだ辺りで古い商家のような建物が見えてきた。(写真2)昭和初期の地図を見ると、ここは「石川醸造店」があった場所だ。石川家は貞享4(1687)年から平方河岸で船積問屋として営んでいたが、昭和初期には廃業して味噌や醤油の醸造所を経営していたようだ。

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(写真2)「石川醸造店」跡地

そこから50m先に行くと交差点があり、「中武銀行」の跡地が見えてきた。(写真3)同じく河岸問屋だった石倉家が大正9(1920)年に開行している。当時、上尾にも都市銀行の支店はあったが、平方宿は地元の銀行を設立しており、経済的に自立していたことがうかがえる。

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(写真3)「中武銀行」跡地

平方河岸の商人たちが奉納した石祠(せきし)

交差点の斜向かいには「橘神社」がある。ここには上尾市指定有形文化財になっている平方河岸の商人たちが奉納した石祠がある。鳥居をくぐり中に入ると社殿まで参道の敷石が続き、拝殿、本殿と繋がっている。(写真4)(写真5)

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(写真4)橘神社

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(写真5) 橘神社 拝殿

その奥には上尾市指定天然記念物である樹齢800年の「大ケヤキ」がそびえ立っている。気のせいか、去年と比べて枝が減ったような気がする。上が2020年4月に撮影、下が2021年6月に撮影。(写真6)「天災で折れた?」と思いつつも分からないので先に進む。

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(写真6)上尾市指定天然記念物、樹齢800年の「大ケヤキ」

左側には3基の石祠があり、真ん中の石祠が上尾市指定有形文化財「平方村河岸出入商人衆奉納の石祠(ひらかたむらがしでいりしょうにんしゅうほうのうのせきし )」である。(写真7)高さは166cm、笠付角型の形状で神明社を祀っている。もとは河岸場近くにある神明社に奉納されていたが、明治41年の合祀により橘神社に移された。

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(写真7)中央が「平方村河岸出入商人衆奉納の石祠」

石祠の両側面には銘文が刻まれているのだが風化して殆ど読めない。資料によると左側面には「享保二丁酉天九月吉日 武州足立郡平方村 願主 当村中 河岸出入商人衆中 右之願主等明記内納置者也」と書かれており、平方村及び平方河岸に出入りする商人衆によって、亨保2(1717)年に造立・奉納されたものであることを記している。(写真8)また右側面には平方河岸の繁栄に対するお礼と将来の発展の祈願が刻まれており、かつて平方村は舟運で栄え、川越に渡る渡船場として交通の要衡だったことを伝えている。(写真9)

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(写真8)石祠 左側面

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(写真9)石祠 左側面

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「昭和初期の平方宿」★印は橘神社(橘神社の案内掲示板)

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昭和初期の平方宿地図(橘神社の案内掲示板)

平方に残る歴史的建造物「煉瓦塀」と「煉瓦蔵」

橘神社を後にして、さらに荒川方向に進むと石倉商店の煉瓦塀が見えてきた。(写真10)塀は一部しか残っていないが、石倉家が創設した「平方煉瓦製造所」で製造された煉瓦を使用しているようだ。保存状態が悪く経年劣化しているためか、上部がカットされなくなっていた。去年はあったのに、、?撮影した写真を見るとその差が分かる。(写真11)朽ちて今にも倒壊しそうだが、時の経過を思わせる風合いが当時の面影を忍ばせている。

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(写真10)2021年6月 石倉商店の煉瓦塀

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(写真11)2020年4月 石倉商店の煉瓦塀

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続いて、その先の建物にはロープが張られており、奥に目をやると空き地が広がっており廃屋のようなものが見えた。昭和初期の地図と照らし合わせてみると、もしかしたら「平方煉瓦製造所」跡地?かもしれない。(写真12)そして、左手にある建物が石倉商店のようだが、シャッターが閉まっていて誰も住んでなさそうだ。(写真13)

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(写真12)「平方煉瓦製造所」跡地かも?

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(写真13)石倉商店

さらにその隣には神山家の建物があり、「煉瓦塀」(写真14)と「煉瓦蔵」(写真15)は上尾市指定有形文化財となっている。同じく、石倉商店の「平方煉瓦製造所」で製造され、明治末期の平方宿を伝承する建造物となっている。そして、煉瓦塀に沿って右に曲がると、塀と周りの木々に阻まれて全貌は分からないが「神山家煉瓦蔵」を見ることができる。

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(写真14)神山家煉瓦塀

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(写真15)神山家煉瓦蔵

荒涼とした「平方河岸」跡地

さらに川に向かって坂を下ると、すぐにどんづまりにぶちあたった。ここが終点「平方河岸」である。(写真16)ガードレールが張り巡らされ、当時の面影を残すものはなにもない。平方河岸を示す標木は朽ちて文字が殆ど見えない。眼前に広がる景色は緩やかに流れる荒川と遠くに見える開平橋だけだった。

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(写真16) 「平方河岸」跡地

標木/「平方河岸」の文字がわずかに見える

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 (写真17)「平方河岸」跡地から見る荒川と開閉橋

煉瓦に適した川の堆積土が煉瓦製造の繁栄を支えた

ちょうどその時、ご老人が通りかかったので声をかけ「平方河岸」について聞いてみた。「当時の史跡は何も残ってないよ。」地図を見ながら「石倉さんが手広く商売してて商店があった。今はなくなったが、昔は煉瓦製造所や醤油・味噌工場、製糸工場、銀行もやっていた。」

神山家の煉瓦塀と蔵のことを聞くと「漢方医だった。子供のころ薬箱がたくさん並んでいたことを覚えているよ。」ご老人の話は続く。「煉瓦は船で東京まで運んでいた。深谷に移った人もいて製法を伝承した。もしかしたら東京駅にも使われていたかもしれない。」想いは膨らむ。埼玉県深谷市と言えば、大河ドラマにもなっている渋沢栄一で有名な「日本煉瓦製造」があった場所だ。帰って調べてみると、「平方煉瓦製造所」は明治41(1908)年に創建されたが、「日本煉瓦製造」は明治20年なので時代が逆行する。「平方煉瓦製造所」は10人未満の家内工業で、出荷地は近隣と書かれていたが正確な場所は分からなかった。

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石倉商店の煉瓦塀

埼玉県は煉瓦製造に適する良質な砂や粘土(旧利根川や荒川の氾濫堆積土)が豊富で、明治初期の東京では大規模な煉瓦都市建築事業が実施されたため、数多くの煉瓦工場が創設され、明治40年頃には大阪・東京に次ぐ全国3位の生産量を誇っていた。しかし、大正12年(1923)年に関東大震災が発生し、耐震性に弱い煉瓦建築に被害が集中した。「平方煉瓦製造所」が創建されて15年後のことである。震災以降は法が改正され、強度に優れた鉄筋コンクリート造りや鉄骨造にその座を奪われていく。埼玉県内の煉瓦工場数はピーク時、大正2(1913)年には17戸あったが、昭和6(1931)年には僅か4戸に減っている。

需要がコンクリートに代わると、今度は荒川から採れる砂利や砂がコンクリートの材料として重宝され、昭和初期になると砂利船が大多数となる。

舟運とともに発展した「平方河岸」の歴史

ここから資料をもとに平方河岸の歴史を紐解いていく。埼玉県は県土に占める川の面積比率が日本一であり、古来より川を利用した舟運が発達した。江戸時代の寛永6(1629)年には、荒川を利根川から分離する付け替え工事が行われ、これにより県内各地から江戸に向けて年貢米などの輸送の舟運や渡船・渡河を目的とした渡しが各地に発達していく。寛永15(1638)年には平方河岸も設立され、さらに延宝8(1680)年に入間川の流路を平方付近で荒川に合流させる工事を行ったことで、平方河岸は人の往来が増えてさらに賑わうことになる。

スクリーンショット 2021-06-06 午後6.04.56

出典:井下田潤氏「高瀬舟」「河岸」/下館河川事務所HP/
新河岸川流域川づくり連絡会

亨保2(1717)年に奉納された「平方村河岸出入商人衆奉納の石祠(ひらかたむらがしでいりしょうにんしゅうほうのうのせきし )」は、往時の平方河岸繁栄の証である。

その頃、平方河岸から江戸の浅草・千住に往来した高瀬舟の船頭が歌った唄が伝えられており、「千住節(センジブシ)」とも言われていた。

ハアー 九十九曲り あだでは越せぬ
通い船路の 三十里
ハアー ついたついたよ 新川橋に
主も出て取る おもてもや
ハアー 主が竿さしてや 妾はともで
表見ながら 舵を取る
ハアー 押せや押せや 二丁櫓で押せば
押せば千住が 近くなる
ハアー 千住出てから 巻野やまでは
雨も降らぬに 袖しぼる
ハアー 千住通いは やめようとするが
おいでおいでと 女郎の手が招く
(『上尾市史 第10巻 別編3民俗』第2節 交通・交易より)

明治初期になると、船積問屋は6軒に増えていた。その中で新興の問屋だった石倉家がのちの平方宿の主要な問屋として発展してゆく。この頃は、中山道の上尾宿を含む上尾市域44宿村中、賦金(営業税)の納額が一番多かった時代である。このことからも、物資の運搬は、陸運より舟運の方が盛んだったことが分かる。

製糸輸出の国策によって近代化が始まる

明治維新後、明治政府は殖産興業をめざし、外貨獲得のため生糸輸出を国策のひとつとし、群馬県に「富岡製糸場」を創設すると、明治6(1873)年には北関東の生糸生産量が国内の75%を占めるようになる。しかし、横浜港までの迅速な輸送手段が課題となり、明治16(1883)年、いち早く埼玉県の南北中央を走る鉄道(高崎線)が開通されることになる。当時は運賃が高かったため利用客は少なかったようだが、徐々に舟運は衰退の一途をたどることになる。特に、明暗を分けたのが東京までの輸送に時間がかかる荒川上流だ。東京に近く運賃の安い荒川下流の舟運はそれほど影響を受けていない。

同年12月には、平方河岸より少し上流に開閉式の船橋「開平橋」が架橋される。(写真18)『市史第4巻 169』によると、地元の医者だった神山さんは、その時の喜びを「渡船のために馬車が、1町余(109m)もの行列をなしてあふれかえり、河岸で待つこともなくなり、船橋を速やかに通過できるようになったことで、平方の損益のみならず幾万人もの喜びが得られた」と述べている。橋の工法は船上に橋げたを置くもので、船橋の船を動かすことで橋が開閉する構造だったため、これより上流の大型船は通れなくなる。

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(写真18)開平橋の模型/埼玉県立川の博物館

そして、明治24(1891)年に開閉しない固定橋に改修されると、平方河岸が荒川舟運の終着点となる。そして、自動車道路(上尾-川越間)の中間地点だった地の利を活かし、鉄道までの道路運搬を担う中継河岸としての地位を築いていく。川の資源が豊富にあったことも幸いし、石倉家は事業の多角経営に乗り出し、明治末期には製糸工場、煉瓦工場、酒造・醤油味噌の醸造工場と次々に創設した。また砂利・砂採取、金融業(中武銀行)と事業を広げ、河岸問屋から離れ、自立した経済圏を築き上げていく。その頃の平方村中心部の様子を記した報告文書がある。映画館や遊興的な店もあり、小都市化した村の様子を見て取ることができる。

「多くは農業を営み唯県道に沿ふ一部落は穀、酒、製茶、雑貨等を販くものありて、古来より風俗敦朴なりしも社会の風潮に侵され人心華美に流れ人情軽薄に傾き、特に青年の思想薄弱に至り金銭を消費し農家の子弟にして農業を嫌う者をさい見るに至れり」
(明治44(1911)年 平方村信用購買販売組合の報告書一文)

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明治末期頃の平方村石倉醤油醸造場と開平橋
(出典:上尾市教育委員会・編『上尾市史 第四巻 資料編4、近代・現代1』)

そして、昭和初期になると石倉家は「平方の三井」と言われるまでになる。まさに、日本政府が近代化を推し進めた国策の縮図がここ平方にはあった。

昭和3(1928)年には町制が施行されたが、一方で人口は減少傾向にあった。河岸には木材や砂利が山積みされ、多くの砂利船が係留されていたが、河岸問屋は2軒に減っていた。好景気に沸いているように見えて、経済に陰りが見え始めている。昭和4(1929)年に世界恐慌が起こるとその影響は日本にも波及し、翌昭和5(1930)年・6年(1931)年にかけて深刻な昭和金融恐慌に見舞われる。関東大震災からわずか7年後のことである。一気に経済が落ち込み、同年、満州事変が勃発し日中戦争に突入すると、軍国主義が色濃くなっていく。そして、繁栄を極めた石倉家の商運も尽き、衰退の一途をたどるのである。

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(写真19)昭和16(1941)年の平方開平橋付近

(写真19)は、昭和16(1941)年に東京日々新聞に掲載された写真だ。記事の見出しは「変貌する街 あすを待つ平方」である。以下、一部抜粋して記載する。繁栄を極めた平方の町が、わずか10数年で寂れた町に変貌した様子がうかがえる。

「まもなく鉄道やトラックが発達し船は次第に通はなくなり、おまけに河川改修のお陰で入間川との合流点はずっと南の馬宮村の方へ遠のいてしまひ、長閑な船頭の鼻唄まじりに三味線の音さへした町も、いまでは上尾へ東一里半、川越へ西二里、せっかくできた国道川越線へもまた一里、畑の中にぽつんと置き去りにされた唯一の交通機関である上尾川越バスが漸く1日五回あの架橋の仮橋板をカタカタ音をさせて走るのみとなった、その橋の下に浮かぶ五、六そうの貸しボートが仄かに遠い村の波止場時代の名残を漂はせる」

「平方河岸」は近代化政策の縮図だった

埼玉県は川によって産業が育まれ繁栄してきた歴史がある。ここ平方は荒川中流域に位置し、東京に近い立地のため幕末から昭和初期にかけてかつてない変動に見舞われた。大都市東京の近代化と人々の生活を支えるため、木材、農産物、醸造加工品、製糸、煉瓦、砂利などの物資を供給し続け繁栄を極めた。そして、次々に事業を広げ、独立した経済圏を形成していく。しかし、その直後に関東大震災が発生し、昭和金融恐慌、軍事国家へと流れが変わったことで、膨らんだ経済がバブルのように弾けて、今は跡形もなく消え去ってしまった。平方河岸は、そんな時代の波に翻弄され、栄枯盛衰を一気に駆け抜けていった最たる場所だったのかもしれない。

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■参考文献
図書
・『上尾市史調査概報 創刊号』上尾市教育委員会(1990年5月20日発行)
・『上尾歴史散歩』上尾市企画財政部広報課(平成12年12月発行)
・『上尾の指定文化財(改訂版)』上尾市教育委員会(平成25年3月29日発行)
・『上尾市文化財調査報告書第13集 上尾市の神社・寺院』上尾市教育委員会(1983年3月31日発行)
・『上尾市史 第10巻 別編3民俗』上尾市教育委員会(平成14年3月31日発行)
・『上尾市史第7巻 通史編(下)』上尾市教育委員会(平成13年3月30日発行)

Webサイト
・『平方村石倉家文書   - 上尾市Webサイト』上尾市教育委員会
・『平方村河岸出入商人衆奉納の石祠   - 上尾市Webサイト』上尾市教育委員会
・『上尾の寺社 10 橘神社(平方)  - 上尾市Webサイト』上尾市教育委員会
・『埼玉県の煉瓦樋門 ~ 注釈 ~ 改訂34版』(有) フカダソフト(2008/10/01)
・『河川整備基金助成事業「埼玉の舟運と現在も残っている河岸の歴史』報告書』彩の川研究会 会長 横倉 輝夫(平成26年度)
・『上尾市平方河岸集落と殖産興業』聖学院大学論叢 第33巻 第1−2合併号(2020年)
・『わが国初めての民鉄(高崎線)と行田市の関わり』ものつくり大学紀要(2013年)


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