④マイ・シングルファザー ・ストーリー(息子の2度目の癌)
2度目の受難
だが、まだ受難は終わらない。
その数日後、市立病院から連絡がはいる。なんだか嫌な予感がした
「お父さん、落ち着いて聞いてください。響くんは抗がん剤の副作用により白血病を発症してしまいました、すぐに入院準備をしてきてください」
その日は24時間テレビがやっていた日だった。
サライの歌、負けないでの歌が俺は今でも嫌いだ。あの絶望を思い出すからだ。
病院に戻り、また抗がん剤治療が始まった。
今までとは比較できない量の抗がん剤治療だ。髪の抜け方も違った。
頭をなでるとズルッと落ちてくるのだ。正直、正気を保つことが難しかった。
おそらく、あの日からだろう理性的な父親と、もう1人の感情的な父親を切り離したのは。
息子の病名は二次性急性骨髄性白血病、骨髄移植が必要不可欠な病気だった。
ドナーが必要だった。
俺は合わなかった。元妻にも頼んだが、拒否された。
そして最期の頼みの綱が、当時2歳にもなっていない娘だった。
あの時は天に祈った、真剣に祈った。何故なら合わなかったら死がみえてしまうからだ。
入院してからも命の危機が数度あったが、薬でなんとかなった。
でも息子の病気を治すためにはドナーがいなければならないからだ。
結果、「適合」嬉しかった。生きられると思った。
同時に、娘へ申し訳ないと思った。あの感情は文章化出来ない。
愛する息子を救うために、1歳の娘の骨に数十箇所の穴を開けることを強いるのだ。
どうして自分の子ども達が、天に感謝した後、天を恨んだ。
この後、3ヶ月間の抗がん剤治療の後、骨髄移植を行い無事成功することとなる。
簡単に書くのは正直、文章化するのがシンドイからだ。
小児病棟には子どもの死が蔓延している。
その中で、我が子は生き延びることができた。
ここまで書いたら、もういいんじゃないかな。
その後の数年間、乳幼児と同様な免疫状態であることから自宅療養生活が続いた。
4歳から小学校入学寸前まで外部との接触は一切立たなければなからかった。
そして息子は小学校から社会復帰、私も社会復帰へと進もうと希望が見えてきた。
しかし、世の中そんなにあまくなかったんだな。